幸いなことにそのような中で開催されたベルリン国際映画祭の審査員たちがとった立場は、文化的ジェノサイドに対抗するというものであった。今回受賞した作品は、奇跡的にもCinema du réel2024の上映作品+受賞作品でもある。ここから先簡単に作品内容に関する報告を行いながら、戦争情勢の中で開催された本映画祭を振り返っていきたい。
もっとも鮮烈な記憶を残した作品は、国際長編賞を受賞したクムジャナ・ノバコワ『Silence of reason』である。戦争は、女性の尊厳を傷つけることは自明のこととして理解されるが、その中で本作は収容所におけるレイプ収容の悪辣な事例をフッテージのみで示そうとする。重要なのは、監督本人によるインタビューが加わったり新規に撮影されたもので構成されるのではなく、あくまで彼女たちの肉声とわずかばかりの映像フッテージのみで構成されることである。4:3で映し出されるフッテージは、大きな感覚やビデオの青画面による不在をも強調する。しかし不在こそが映像の持つ力となる。
日本からの受賞作品として、短編スペシャルメンションを受賞した、西川智也『LIGHT, NOISE, SMOKE, AND LIGHT, NOISE, SMOKE』を挙げておきたい。西川はアメリカを拠点に実験映画作家・研究者(ラリー・ガットハイムの研究で知られる)、キュレーターとして恵比寿映像祭やアナーバー映画祭のキュレーション、実験映画を見る会(日本映像学会アナログメディア研究会)などに関わり精力的に活動していることで知られているが、本作は花火の打ち上げをフィルムで映し出すことで、映像がいかなる変容を編成していくかを考察したドキュメンタリーである。アヴァンガルドとフィルムの関係を再考させる6分の充実した短編であったといえる。
ほかに主要賞の受賞は逃したが、印象深い作品を2,3本挙げるならば、日本でも知名度が高い映画監督ジャン=クロード・ルソー『Where are all my lovers?』は、2カットのみで構成された短編でありながらカットのトランジションにおける照明の使い方が一級の芸術である。小田香『GAMA』は、山形不参加のため見損ねていた中編だが、沖縄戦という悲惨な歴史的事象をめぐって証言と振舞の関係性を考察する重厚な作品であったことは言うまでもない。またフィリッパ・セザールの新作『Resonance Sprial』では、劇中でギニア・ビサウ「最初」の映画監督Sana N‘Hadaにクリス・マルケルが送った手紙が引用されることが特徴的である。マルケルのアーカイブ構築への深い関心を垣間見ることができるだろう。
クロージング作品は、2025年に生誕100周年を迎える思想家・精神科医・革命家フランツ・ファノンについての伝記映画『Fanon(True Chronicles of the Blida Joinville Psychiatric Hospital in the Last Century, When Dr Frantz Fanon Was Head of the Fifth Ward Between 1953 and 1956)』であった。ファノンについての詳細は割愛するが、1952年に代表的な著作(論文)『黒い皮膚・白い仮面』を書きあげたファノンは、1953年にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任として勤務し(1956年)、Institutional Psychotherapy(フランスでマルキシズムやラカンの精神分析から影響を受けて確立された心理療法)の手法を用いた治療実践に励むことになる。その中でアルジェリア戦争捕虜たちの治療に従事したファノンは、自らもFLNに参加し、独立運動闘争へと身をささげていくことになる(1961年に『地に呪われたる者』を執筆)。映画作品は、その流れを堅実に描いていくが、さすがに「植民地的暴力」の力を感じ取ることはできなかった。
3月23日にGreen Stageで開催されたトークショーの中で黒沢ともよが言及する「こたつ」(第二期)は、初歩的ではあるものの、文化資本格差の中で「他者のハビトゥスを共有しようと試みる」という点で極めて興味深く、また花守ゆみりによる第一期一話への言及も本作品における一つのブリューゲル的なもののポイエーシスとしての立ち位置へと回帰しようとする点では重要である(cf. J. Rancière, Mallarmé : La politique de la sirène, Paris, Fayard, coll. « Coup double », 2012)。トークショーには彼女たちの「ゆるい」トークの振舞ではなく、一つの政治学が存在していた。
さてこの作品、制作会社がMaster Mind(つまりユニクロの系列会社)、制作支援もユニクロ、ローソンといったいわゆる資本主義お抱えの会社、舞台も渋谷再開発によって設置されたおしゃれなトイレ、役所広司の演じる平山という男は下町に住み、渋谷まで首都高を走っておしゃれなトイレの掃除を仕事にしているという設定であり、巨匠ヴェンダースに金を与えて新自由主義の「日本」らしさを演出させる困った映画であったのは事実。男優賞を受賞した役所広司の演技(とくにニーナ・シモンを聞きながら運転する役所のラストの顔演技)と音楽のセレクトは素晴らしいのだが、畳の部屋の意図的な造形など小津安二郎の神格化が極端であり、浅草の地下の居酒屋などはもはや『東京画』の繰り返しでもありゲンナリさせられる。また短編映画『Somebody comes into the night』は、ホームレスを演じた田中泯がそのままの格好で舞踊をするという短編であるが、田中泯の素晴らしい舞踊はさておき映画としては完全にミュージックビデオで、映画ではなかったのも残念。
この日から二日間にかけて今年度の三大映画祭(ベルリン、ベネチア、カンヌ)の最高賞受賞作品を見ていくことになる。しかしその前に、まずは一本目にこの作品のために釜山に行ったといっても過言ではない、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作『Close your eyes』を大スクリーンで見る。エリセの新作は、ある映画のシーンから始まる。月日が経って、その作品に出演したものの後に失踪した俳優の友人を探す映画監督が、取材を受け倉庫で映画にまつわる物品を探す。俳優が別の場所で労働者となって生きていたことを知る映画監督は、その俳優の記憶の奥底にある写真や事物、そしてフィルムと向き合うことになる。映画と対話するラストシーンは、もはや言葉ではなく映画が語り、目をつぶることでイメージが溶着する。過去の作品に比べて、言葉も多く映像のフェードアウトも早くなったものの、複製芸術としての映画史を引き受けたともいえるエリセの重厚な大傑作であり、文句なしに拍手を送りたい。
そしてCGV Stariumという、韓国最大級のシネコンのスクリーンへと移動し、満員の中でジュスティーヌ・トリエが見事カンヌ映画祭のパルムドールを受賞した『Anatomie de la chute』を見る。父親(夫)が殺された連れ合いと子供という二人の家族の逡巡と裁判の様子を描くサスペンスドラマ。要所要所で、父や夫に死なれた彼らのもつ緊張感は描かれているが、裁判シーンは全くと言ってよいほど迫力がなく、あまり思考されて撮られていない映像が羅列されていることによって、映画を運動の迫力の無い中途半端なものへとしてしまったと言える残念な作品であった。
実質の最終日。この日は午前のプレス試写が再度復活したため、一本目にクロージング作品であるニン・ハオ『The Movie Emperor』。アンディ・ラウ演じるダニー・ラウという超有名俳優が自らのイメージを変えるために風変わりなインディペンデント映画に出ようと奮闘するさまを描くが、中身の無い内容の引き延ばしとリアリティの無い物語で失笑し、豚が死ぬシーンで激怒。ファン・ビンビンしかりアンディ・ラウに関しても、俳優だけを前面に押して中身の無い内容の映画になってしまっているのはなぜなのだろうか。
2本目にアンドレア・ディ・ステファノ『The Last night of Amore』。これもイタリアが誇る名俳優ピエルフランチェスコ・ファヴィーノを主演に、ある刑事の引退前の最後の10日を描く映画なのだが、あまりにだれる演出に爆睡してしまい、ファビーノが車で最後の挨拶をしているところ以外は記憶になし。
そこからオープンング・セレモニー前に、開幕作品『Because I hate Korea』のプレス向け試写。インディペンデント系の制作ながら立派な娯楽作品として作られている。様々な理由から韓国が嫌になりオーストリアへの移住を決断する女性の成長物語でありながら、過去と現在を交錯させ複層性を描き出している良作であったと言える。上映後のプレス会見の後に、日本を代表する映画ジャーナリストに初めてお会いする機会を得る。開幕式をプレスセンターから眺め見し、アンディ・ラウやチョン・ユンファ、ソン・ガンホ、パク・ウンビンなどスーパースターが登場するたびに沸き起こる歓声を体感する。筆者の一番のツボは、マスター・クラスに参加するために来日していた原一男監督の楽しそうなレッドカーペット。ここから往復2時間かけて映画祭に参加するというハードな戦いが始まることになる。
怒りに震えながらも、2本目の再見作品、ラドゥ・ジュデ『Do not expect too much from the end of the world』を800人収容規模の大スクリーンで見る。大傑作。あるPR動画の制作のために彷徨う女性の肖像と1981年の『Angela merge mai departe』 (Lucian Bratu)を交錯(対話)させながら、撮影と配信という行為を通して映画そのものへの疑念を呈しウクライナ戦争と東欧危機をぶった斬る。映画が映画たらしめる意義を再確認。
その後ビデオ・ライブラリーで『バクラウ 地図から消された村』で日本でも知られるようになったクレベール・メンドンサ・フィリーオ『Pictures of the ghosts』を見る。この作品は監督自らの映画作りへと移る過去を描く一部、ブラジル映画産業界の歴史を語る第2部、そしてサン・パウロの老舗映画館(現シネマテーク)を軸とした映画と観客の関係性を語る3部構成になっている。ブラジルの映画史を巡るドキュメンタリーとしては興味深いが、シネマ・ノヴォの鬼才グラウベル・ローシャやネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの映画が引用されないなど、作家主義へのこだわりが薄いことが疑問視されてもおかしくはないドキュメンタリー作品ではあった。
2本目に見たのはフィリップ・ガレルの新作『Le grand chariot』。ザンジバル集団期以降からガレルの映画通底している家族共同体の形成と崩壊というテーマは、本作にも継承されており、ある家族経営の人形劇団が家父長の死によって崩壊していく様を描く。しかし本作品は、ガレルの作品の中によく見られた放浪があまり見られない代わりに、家族共同体が崩壊へ向かう足取りが軽く、いささか不気味に感じざるを得なかった。
上映後杉田監督の挨拶が行われたが、写真だけ撮ってそそくさと失礼し(杉田さん、ごめんなさい)、そのまま4本目となるフレデリック・ワイズマン『Menus Plaisirs les Troisgro』という4時間の大作ドキュメンタリーを見る。ダイレクト・シネマの系譜を受け継いだ対話型ドキュメンタリーの巨匠ワイズマンの新作は、パリの老舗レストラン「トロワグロ」についてのドキュメンタリーであり、食をテーマとした政治的・社会的・文化的な対話が描かれる。そこには料理人だけではなく、消費者(お客)、生産者、近隣のレストラン、そして市民の存在が浮かびあがり、カメラは丁寧に彼らの対話や労働風景を映し出す。レストランについてのドキュメンタリーと聞いてワイズマンの作風が変わってしまうのかと心配していたが、そこは変わらずであったので一安心した。ただし、撮影監督が常連のジョン・デイビーではないのでご注意を。