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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

Cinéma du réel 2024報告

2024年度のベルリン国際映画祭は、パレスチナ虐殺に反対する映画作家たちの怒りに正面から向き合えない中で開催されたことにより、世界中から多くの批判が殺到したことが印象的だろう。その中で、とりわけ授賞式(CET 2月24日)において受賞者たち(マティ・ディオップ、ベン・ラッセルなど)が示したパレスチナへの連帯発言を、ベルリン市長が「耐え難い相対化」や「反ユダヤ主義」(anti-semitic)と非難し、ドイツ首相が「一方的な立場」と呼称した事例は、ドイツという国家がユダヤ人大虐殺の歴史を反省するのではなく、シオニズムや文化的ジェノサイドを正当化する立場をとったことを意味するのである。そこからさらに踏み込んで指摘するならば、この余波はアカデミー賞授賞式にも波及し、3月10日(現地時間)に開催された授賞式で、国際長編映画賞を受賞した『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督、2024年5月24日公開)の監督スピーチが、「反ユダヤ的」であるというレッテルを貼られ、ユダヤ人クリエイターによる公開書簡まで作成されるという騒動に発展している。しかし、このような行為こそ自らが受苦を受ける根幹となった帝国主義的なふるまいそのものであり、ベルリン受賞者やグレイザーらは帝国主義戦争による虐殺をやめろというまったくもって正当な発言をしているに過ぎない。

www.zeit.de

 

幸いなことにそのような中で開催されたベルリン国際映画祭の審査員たちがとった立場は、文化的ジェノサイドに対抗するというものであった。今回受賞した作品は、奇跡的にもCinema du réel2024の上映作品+受賞作品でもある。ここから先簡単に作品内容に関する報告を行いながら、戦争情勢の中で開催された本映画祭を振り返っていきたい。

 

・オープニング:マティ・ディオップ『Dahomey』

今年度のベルリン国際映画祭金熊賞(最高賞)を受賞した作品は、セネガル出身の映画監督マティ・ディオップの新作『Dahomey』(日本公開未定)であった。そしてこの作品こそが、本映画祭のオープニング作品となったのである。
マティ・ディオップ監督は、『トゥキ・ブキ/ハイエナの旅』(1972)といった作品で知られるジブリル・ジオップ・マンベティの姪でもあり、クレール・ドゥニの『35杯のラムショット』や『パリ18区、自由、夜』といった作品に出演する女優として活動したことで知られている。その後2019年『アトランティック』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し鮮烈な長編映画監督デビューを果たした。
ディオップ監督の新作『Dahomey』は、1892年にフランス本国によってダホメから収奪された美術品が2021年に返還された様相を描くドキュメンタリー映画である。芸術作品の返還は、返還されたらそこで終わりではない。その先の社会的課題が存在する植民地主義は、単なる物理的な収奪にとどまらず文化や精神まで収奪されていることが後半部分の学生たちの議論によって喚起される。植民地主義批判と同時に忘却された文化をいかに取り戻すか。本作品は、この問いにシネ・エッセイ映画形式を彷彿とさせる民族のナレーションを活用しながら思考する。夜の都市を映し出す中でファンタジー的要素も融合された秀作であったといえるだろう。

『Dahomey』(マティ・ディオップ監督)

コンペティション部門

今年度は、コンペティション部門に関する編成が行われた。具体的に言うと、昨年までインターナショナル・コンペとフランス・コンペと2つに分かれていた本部門を、一つに統合しコンペティション部門を統一したという変化である。その中で例年IDFA(アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭)やベルリン国際映画祭でワールドプレミアされた後、本映画祭でフランス初上映になる作品も多いのも特徴的である(この詳細は、昨年の拙報告をご参照いただきたい)

 

hirodai-bunsa.hatenablog.com

 

さて、本映画祭のコンペティション部門作品では多種多様な作品が上映されるも、その作品の大半は日本に紹介されぬままである。そのため、ここから先は受賞作品を中心にいくつかの作品に絞って振り返っていきたいと思う。
今回の最高賞は、ベン・ラッセルとギヨーム・カイユーが共同監督した216分の大作『Direct Action』であった。本作品はベルリン国際映画祭エンカウンターズ部門でも最高賞を受賞し、本映画祭でも続けて受賞するという快挙を成し遂げた。本作品は、ベン・ラッセル特有の長回しを用いて、フランスにおけるZADの運動体コミュニティーの形成とその苦闘を描きだす。理念は素晴らしいといえるが、労働の様子を長回しで映し出すことは現代のドキュメンタリー映画ではそこまで特殊なものでもなく、闘争の様子が多く描かれる前半部と最終部以外は、やや失速気味で長たらしく、野暮な感じをも覚えてしまったのは残念であった。2-30分ほど削れば傑作であったのは間違いない。

『Direct Action』(ベン・ラッセル&ギヨーム・カイユー監督)

もっとも鮮烈な記憶を残した作品は、国際長編賞を受賞したクムジャナ・ノバコワ『Silence of reason』である。戦争は、女性の尊厳を傷つけることは自明のこととして理解されるが、その中で本作は収容所におけるレイプ収容の悪辣な事例をフッテージのみで示そうとする。重要なのは、監督本人によるインタビューが加わったり新規に撮影されたもので構成されるのではなく、あくまで彼女たちの肉声とわずかばかりの映像フッテージのみで構成されることである。4:3で映し出されるフッテージは、大きな感覚やビデオの青画面による不在をも強調する。しかし不在こそが映像の持つ力となる。

『Silence of Reason』(クムジャナ・ノバコワ)

日本からの受賞作品として、短編スペシャルメンションを受賞した、西川智也『LIGHT, NOISE, SMOKE, AND LIGHT, NOISE, SMOKE』を挙げておきたい。西川はアメリカを拠点に実験映画作家・研究者(ラリー・ガットハイムの研究で知られる)、キュレーターとして恵比寿映像祭やアナーバー映画祭のキュレーション、実験映画を見る会(日本映像学会アナログメディア研究会)などに関わり精力的に活動していることで知られているが、本作は花火の打ち上げをフィルムで映し出すことで、映像がいかなる変容を編成していくかを考察したドキュメンタリーである。アヴァンガルドとフィルムの関係を再考させる6分の充実した短編であったといえる。

『LIGHT, NOISE, SMOKE, AND LIGHT, NOISE, SMOKE』(西川智也監督)


ほかに主要賞の受賞は逃したが、印象深い作品を2,3本挙げるならば、日本でも知名度が高い映画監督ジャン=クロード・ルソー『Where are all my lovers?』は、2カットのみで構成された短編でありながらカットのトランジションにおける照明の使い方が一級の芸術である。小田香『GAMA』は、山形不参加のため見損ねていた中編だが、沖縄戦という悲惨な歴史的事象をめぐって証言と振舞の関係性を考察する重厚な作品であったことは言うまでもない。またフィリッパ・セザールの新作『Resonance Sprial』では、劇中でギニアビサウ「最初」の映画監督Sana N‘Hadaにクリス・マルケルが送った手紙が引用されることが特徴的である。マルケルのアーカイブ構築への深い関心を垣間見ることができるだろう。

 

・特集上映:ジェームズ・ベニング新作『Breathless』世界初上映

今年度も様々な特集が組まれているが、その一つとして本映画祭の顔ともいえる映画監督、ジェームズ・ベニングの大規模回顧上映が行われたことが特徴的であろう。その一環として、新作『Breathless』がワールド・プレミアされていることを振り返りたい。
本作は、ゴダールの1959年の映画作品(『勝手にしやがれ』)と同名タイトルの作品だが、あるカーブ地点を舞台にベルモンドたちの逃亡で特徴的な「車」が移動し去っていく、工事が終わるといった様相を全編定点撮影というベニング作品の特徴的なスタイルで描き出す真のワンカット作品である。では『勝手にしやがれ』とはどういう関係が存在するのか。それは、ラストで不意に流れる音楽から容易に理解できるだろう。一世代下でありながら、ともに映画の在り方を思考してきたベニングならではのゴダールへのオマージュであった。

『Breathless』(ジェームズ・ベニング監督)

・クロージング作品:Fanon

クロージング作品は、2025年に生誕100周年を迎える思想家・精神科医・革命家フランツ・ファノンについての伝記映画『Fanon(True Chronicles of the Blida Joinville Psychiatric Hospital in the Last Century, When Dr Frantz Fanon Was Head of the Fifth Ward Between 1953 and 1956)』であった。ファノンについての詳細は割愛するが、1952年に代表的な著作(論文)『黒い皮膚・白い仮面』を書きあげたファノンは、1953年にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任として勤務し(1956年)、Institutional Psychotherapy(フランスでマルキシズムラカン精神分析から影響を受けて確立された心理療法)の手法を用いた治療実践に励むことになる。その中でアルジェリア戦争捕虜たちの治療に従事したファノンは、自らもFLNに参加し、独立運動闘争へと身をささげていくことになる(1961年に『地に呪われたる者』を執筆)。映画作品は、その流れを堅実に描いていくが、さすがに「植民地的暴力」の力を感じ取ることはできなかった。

『Fanon』(Abdenour Zahzah監督)

・終わりにかえて

ベルリン国際映画祭が、パレスチナ虐殺に対して立場をとることができない現状、来年度以降の実験映画の祭典としての本映画祭の意義はますます強くなっていくだろう。その中でドキュメンタリーが、映画の原点であるということを決して忘れることなく、実験を重ねていく作家たちの活動に今後も注目していく必要がある。

(小城大知:映画研究、表象文化論

入学おめでとうございます!【2024年度新入生歓迎パンフレット『Re:Public Vol.7』】

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!

 いまあらゆる人が、戦争にいかなる立場をとるのかが問われる時代になりました。ウクライナの戦争は3年目に入り、イスラエルによるパレスチナ・ガザへの虐殺もさらに中東全域を巻き込んだ戦争にもなりかねない事態へと常に危機を拡大し続けています。そして、この日本も中国との戦争に向かって、かつてない8兆円を超える軍事予算での軍拡と、緊急時とされれば地方は国に従わなければならない、地方自治法改悪をはじめ、自治体や農業、教育といった社会全体を戦争に動員できる体制まで構築されようとしています。こうした戦争・戦争政策と無関係な人はだれ一人としていません。

 多くの先輩方が、朝鮮戦争ベトナム戦争イラク戦争といった戦争に反対してきたように、私たちもこうした歴史的な戦争に立ち向かうべきときが来ています。

 戦争に反対することは、戦争を必要とする社会を変えるための取り組みでもあります。被爆地・広島から私たちが戦争に対してどういう立場をとるのか、どのような社会を展望し、行動していくかが、これからの社会を変え、歴史を変えていく—―ひとりひとりがそういう大きな存在なのだということを確認したいと思います。

 そうした皆さんとともに活動し、苦楽をともにできれば幸いです。

 

 今年の各サークルを紹介したパンフレットはこちらから閲覧できます。

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アニメーションの現在地点: 新潟国際アニメーション映画祭2024からAnimeJapan 2024まで

2024年も1月下旬のロッテルダム国際映画祭を皮切りに、2-3月から世界各地で本格的に国際映画祭が開催されるようになる。2月には世界三大映画祭の一つであるベルリン国際映画祭が開催され、大波乱をもたらしながら様々な形で注目されたことが言えるだろう(これに関しては後日掲載予定の記事で振り返りたいと思う)。

それと同時に1-3月は、たとえばアメリカでは昨年度の映画の総決算としてゴールデングローブ賞アカデミー賞が開催され、フランスでもセザール賞が開催されるなど様々な国で受賞レースが行われる時期でもある。

では日本では1-3月に映画界にどのような動きが生じるのか。まず重要なのが、日本アカデミー賞(3月上旬、2024年3月8日)の開催であろう。これは米国アカデミー賞をモデルに業界内で労苦をねぎらうための賞レースとして開催されているもので、2024年の最優秀作品賞には『ゴジラ―1.0』(山崎貴)が輝いた。次に大手雑誌社が開催しているキネマ旬報ベストテン(2月発表)が挙げられるだろう。これは映画批評家・編集者・及び読者の投票によって決められるベスト10作品が発表されるもので(2023年度の邦画ベストは『せかいのおきく』(阪本順治)であったという)、その年の優れた映画を選ぶ一つの指針としての機能を果たしていると言えよう。ただ、賞レースでにぎわう一方で日本映画界の国際性を示す映画祭が開催されていないのはまた事実である。

しかしながら、このような映画賞レースで軽視されることの多いアニメーションという分野に目を向けるならば、1-3月に日本で開催される映画祭として、アニメーション映画に特化した映画祭が3月に日本で二つ開催されていることを見落とすことはできない。そして3月下旬には日本最大級のアニメーション見本市であるAnimeJapanも開催されている。このようにとりわけ3月はアニメーションに大きな動きが生じる月である。本記事は、とりわけ昨年から開催されている新潟国際アニメーション映画祭(2024年3月15-20日)及びAnimeJapan 2024(2024年3月23-24日)の取材を通して、映画とアニメーションの現在を検討する映画専門記者による報告である。

 

〇地方の「国際化」?:第2回新潟国際アニメーション映画祭(NIAFF)報告

世界最大級の国際アニメーション映画祭として、アヌシー、オタワなどの映画祭があげられるが、これら映画祭が所属するASIFA(国際アニメーションフィルム協会)の日本支部が唯一公認していた映画祭として、広島国際アニメーションフェスティバルの存在があげられる。この映画祭は、地方都市広島で1988年以降、2020年まで二年に一回のペースで開催され、日本におけるアートアニメーションの国際的な窓口として機能してきた。しかしながら、広島市の共同開催の撤退方針により2020年を最後に終了し、2022年からはより商業寄りとなったイベントである「ひろしま国際平和文化祭」の一イベントとしての「ひろしまアニメーションシーズン」が2年に一回開催されるようになっている(ただしASIFAはこの映画祭を公認団体として認知していない)。この映画祭のセレクションは、従来アートアニメーションを軸にしていたこともあり、後継となったアニメーションシーズンも前身同様アートアニメーションのコンペティションが開催されているが、特集上映等では商業寄りの作品がセレクションされるようになったという変化は生じた。

このこと自体を完全に否定的に考えることは、残念ながら困難である。海外のアニメーションに関して言えば、日本では、アートととどまらず、ディズニーやイルミネーションスタジオといった米製の大型スタジオによるアニメの例外を除いて、商業的な長編アニメーション映画ですらもほとんど受容されぬままであるため、国際アニメーション映画祭という場を維持し拡充するためには多少の譲歩が迫られることは仕方ないと考えている部分もあるからだ。しかしながら、地方都市で脈々と形成されてきた芸術受容の空間が商業主義の跋扈によって崩壊させられたというのは大問題である。映画祭というのは、えてして大都市に開催場所が集中しがちであり、地方都市の芸術的強みを生かした映画祭が開催されなくなることは、結果として日本という国の文化的多様性を衰退させ、極論申し上げれば適切な国際的競争力も衰退させることにもつながるからである。

さらに言えば、日本のアニメーション映画のレベルが(一部の作家を除いて)国際的な基準を満たしていないことも一つの事実として挙げられるだろう。実際に、2021年から大幅な改革を行ってきた東京国際映画祭は、2023年(第36回)にこれまで実施してきたジャパン・アニメーション部門(日本アニメ・特撮)の部門編成を行い、「アニメーション」部門へと名前を変更したうえで、上映作品を日本のアニメーションと特撮だけだったものを、特撮の上映を廃止したうえで海外のアニメーションの上映を追加するという変更をおこなった。この変更が初めて適用された2023年の新作アニメーションの上映ラインナップは日本作品4本、海外作品5本という内容になったが、これによって明らかになったのは、日本の劇場アニメが、(近年のアヌシー国際映画祭で受賞した山村浩二といった一部の例外を除いて)海外アニメ作品と比較すると映画作品としての国際競争に耐えうることができないほどの低いレベルの作品ばかりであったという残酷な事実であろう(これに関しては第36回東京国際映画祭に関する拙稿を参照してほしい)。

 

hirodai-bunsa.hatenablog.com

そして2024年3月8日から4日間にわたって開催された、東京アニメーションアワードフェスティバルの長編コンペティション作品は、東京国際映画祭で上映済みの作品が2本セレクションされ、4本のうち1本も日本のアニメーションはセレクトされなかったのである。当然の結果であると言わざるを得ない。
(ちなみにTAAF2024長編コンペグランプリを受賞したのは『リンダはチキンが食べたい!』(2024年4月17日公開、アスミック・エース配給)であった。この作品については前記事ですでに紹介しているためここでは割愛するが、制作手法としてレコーディングで周辺の生活音まで録音した後、それに基づいて線画のみで表現するという手法をとったことが分かった。アニメーションの既存の枠組みにとらわれない柔軟な作品に賞が授与されるのは、まったくもって正当である。)

 

そのような中で、2023年に新潟国際アニメーション映画祭は、東映動画(現:東映アニメーション)の設立者大川博の故郷新潟を開催都市とし、「長編アニメーション」に特化したアジア最大級の国際アニメーション映画祭として幕を開けた。映画祭の主な3つの目標として、①アニメーション文化と産業を統合するハブ、すなわちアニメーションのアートと商業の両方の性質を検討する場として位置付ける、②本映画祭に集結した感性とエネルギーを、作家的創造に寄与させるだけではなく、産業的規模のグローバル・アニメーションの創造へと結びつける映画祭をめざす(これは①と理念はほぼ一緒)、③アカデミー・プログラムで国際的価値づけのハブ、すなわち次世代のアニメーション作家を育成する場として位置付けるということが理解できる。これは前述したひろしまアニメーションシーズンとはまた異なる立場であり、とりわけ③のあり方は新潟大学や日本アニメ・マンガ専門学校という国内最大規模の教育施設が充実している新潟ならではのユニークなあり方であるといえる。地方都市から、国際的な視野でアニメーションに目を向ける映画祭の第2回目が、3月15日から20日の6日間にわたって開催された。

報告者は後半三日間(18-20日)のみ足を運んだため、トークやマスタークラス、学術研究発表への取材が残念ながら叶わなかった。そのためここからの内容報告は、主に長編コンペティション部門を中心に作品の内容について簡潔にまとめたものになることをご容赦いただきたい。

新潟国際アニメーション映画祭 公式看板(新潟日報本社:3月18日)

本映画祭の上映プログラムは、主に長編アニメーション映画作品を中心に12作品がセレクションされ最高賞(グランプリ)を競う「長編コンペティション部門」、世界のアニメーションの現在を知るために特定のテーマを設定し招待上映する「世界の潮流」、作家や古典映画作品を回顧する特集上映「レトロスペクティブ」(今年度は高畑勲監督のほぼ全作品回顧上映)、テーマを設定しオールナイトで上映する「オールナイト新潟」、前述した大川博と、同郷のアニメーション作家蕗谷虹児の名を冠し、アニメーション制作に寄与した人物・会社を表彰する「大川博賞・蕗谷虹児賞」、その他イベント上映・トークショー、フォーラム企画(今年度のテーマは「ドキュメンタリーとアニメーション」)といったものがあげられる。このように多様な上映プログラムがそろっており、上映作品も6日間で60作品以上もあるため、3日間ではすべての企画を回ることは困難である。報告者は「長編コンペティション」を中心に作品を拝見するとともに、「世界の潮流」の作品の一部を拝見する機会に恵まれた。以下簡単に振り返っていきたい。

 

・長編コンペティション部門

長編コンペティション部門は、2022年以降に制作された40分以上の作品から、49作品の応募の中から12作品がセレクションされた。そのため制作国も日本作品が2作品にとどまり、アジア(タイ)、北米(アメリカ、カナダ)、南米(ブラジル・コロンビア)、ヨーロッパ(フランス・スペイン)など多様な国家の作品がセレクションされていることが特徴的である。また、アニメーション作品であれば手法が問われないということもあり、作品の構成も商業アニメーションからアート・エクスペリメンタルなど範囲も広く、テーマも政治問題・ドキュメンタリー・恋愛メロドラマ・探偵物・SFなど多様な範囲をカヴァーしていたといえるだろう。その中で以下、とりわけ優れていたと思われる作品をピックアップしていきたい。

まずはやはりサム&フレッド・ギヨーム『オン・ザ・ブリッジ』が野心的な傑作であることを挙げなくてはならない。本作品は、末期患者の会話音声を収録し、それをもとにアニメーションを制作するアニメーション・ドキュメンタリーの手法を用いている。物語の構築のうまさもあるのだろうが、実際に死にゆく者の音声から映像の境界を超えた生の蜂起を表現するというのにはうならされる。彼らは死す前に声によって新たな生を衝突させ、単一的な叙述に抵抗する。音声を拾い上げる作業に向き合い、アートアニメーションを融合させることで雄大な世界を描き出した監督たちの作業に、大きな拍手を送りたい。

『オン・ザ・ブリッジ』(サム&フレッド・ギヨーム監督)

次にマラオン『深海からの奇妙な魚』。本作品は、ブラジルのアニメーションではほとんど使用されることのないハンドドローイング手法に集中し、カットアウトによるブラジルの既存のアニメ史に挑戦状を叩きつける力強い映画表現を有する作品であった。物語もさながら、ナラティブにとらわれることなく海中の神秘をドローイングによる長回しを彷彿とさせる映像によって表現する態度は作家の誠実さを感じさせ、タイトルにこだわらない様々な動物が邂逅するさまは、旧ボルソナロの右派的な独裁政治へのカウンターとしての効果も十分発揮している点でもすぐれた作品であるといえよう。

『深海からの奇妙な魚』(マラオン監督)

今回グランプリを受賞した、ジョエル・ヴォードロイユ『アダムが変わるとき』は、10代の成長とともに対立による暴力の表象を、シュールなアニメーション映像で表現した力作であったことは間違いない。むろんいじめっ子や片思い相手の女の子の発言によって、主人公の気持ちの変化が体形の変化へとつながるというのはかなり凡庸な紋切り型の表現のように思われるが、それでもシュールさと冷徹な暴力を一貫し続けることの苦労は計り知れない。戦争による暴力に満ち溢れた現代で、それでもどこかウィットに富むことで希望的な未来を信じる本作がグランプリを受賞した意義は大きいだろう。

『アダムが変わるとき』(ジョエル・ヴォードロイユ監督)

また期間中、時間が合わなかったがゆえに泣く泣くオンライン試写で見た作品にも一作品言及しておきたい。ディエゴ・フェリペ・グスマン『アザー・シェイプ』は、近未来における監視社会の中でその規範的枠組みから抜け出し抗おうとする青年の姿を、一切のセリフなくアートアニメーションの表現だけで重厚に表現した意欲作であった。映像にすべての情報が込められることには、得てしてフレームの外の思考を失わせる危険が隣り合うのだが、本作はスピード感と映像の作りこみが融合されることによってその危険を受け入れながら、独特の世界空間の構成に成功していた作品であったといえる。スクリーンで見られなかったことが残念でならない。

『アザー・シェイプ』(ディエゴ・フェリペ・グスマン監督)

 

しかしながら、このような芸術的なアニメーションが充実しているラインナップだったにもかかわらず、受賞結果という審査員たちの選択は、グランプリ作品を除いて残念ながら映画祭の持つ三つの理念のうちの一つ「芸術と商業の融合」を、悪い意味で解釈することに加担してしまったといえよう。以下受賞作品について簡単に触れておきたい。

 

例えば「境界賞」を受賞したジェレミー・ペラン『マーズ・エクスプレス』と、「奨励賞」を受賞したジム・カポビアンコ/ピエール=リュック・グランジョン『インベンター』は大手映画会社MK2 Films(近年だとジュスティーヌ・トリエ『落下の解剖学』などの海外セールス会社)が海外セールスを担い、ラインナップの中で多額の予算がかけられ制作されたアニメーションであるといえる。声優も、前者はレア・ドリュッケール、マチュー・アマルリックマルト・ケラーといったフランスの国民的俳優、後者もスティーブン・フライ、マリオン・コティヤールデイジー・リドリーといったハリウッドを代表する俳優たちがキャストを務めており、作品への力の入れようが理解できる。

『マーズ・エクスプレス』(ジェレミー・ペラン監督)



しかしふたを開ければ、前者は『攻殻機動隊』などの日本のSFアニメーションに対するオマージュは理解できるが、異邦人の描写がクリシェでしかなく、白色化されたフランス市場向け映画祭映画の再生産でしかない点にげんなりさせられる(実際この作品のプレミアはカンヌ国際映画祭だったことからもこれらはすぐに理解できることだ)。また後者はアメリカ製の人形アニメと、一方でヨーロッパ市場を意識した平面アニメのあまりに中途半端な融合に不気味さしか感じず、ヨーロッパ科学史観の焼き増しも重なって、どこに向かって何を伝えたいのかも理解不能な凡庸極まりない作品にとどまっているとしか感じられない。結果として両作品の受賞理由は、潤沢な予算の計上によるアニメーション表現と物語性の順当な出来でしかない。これらはアートアニメの持つ、冷徹さやメディア批判の要素と相いれるはずがない。

 

また日本映画の受賞理由も、正直理解不能である。今回「傾奇賞」を受賞したのは、岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』であるが、仮に日本映画に賞を授与する必要があるのであれば、潤沢な予算とコンテンツ制作のスタジオによって製作された「大作」としての本作品よりかは、映像表現には難はあるが二度のクラウドファンディングによって執念をもって作品を作り上げ、弁士を起用することで独特のナラティブを作り上げる野心を見せた塚原重義『クラユカバ』の方がよっぽど傾奇者としてふさわしい。ある意味『アリスとテレスのまぼろし工場』は、工場の人災がテーマとなりながら、1950年代以降の社会問題やそれに対して土本典昭や佐藤真らが行ってきた映画実践から遠く離れ、あくまで10代の痴情のもつれに仕上げるという点では傾奇であるといえるのかもしれないが、岡田の作風に特段の変化が生じたわけでもなく、また現実の諸問題から目を背けようとする主人公たちの態度を果たして映画的といえるかは疑問でしかない。かくして受賞結果はアートではなく商業としてのアニメーションこそが、「映画祭向け」の作品であるとお墨付きを与える保守的なものとなってしまった残念極まりないものとなってしまったのである。

『アリスとテレスのまぼろし工場』(岡田麿里監督)

・「世界の潮流」部門

今年のフォーラム部門の特集は、「ドキュメンタリーとアニメーション」というものであったという。ドキュメンタリーとアニメーションの関係について、例えばコンペ部門で上映されたイザベル・エルゲラ『スルタナの夢』(本作品については第36回東京国際映画祭に関する拙稿を参照してほしい)は、スペインのトランスジェンダーリズムの哲学者ポール・B・プレシアドとの共同作業を通して、ドキュメンタリーからアニメーションへのトランジションと彼からの手紙をナレーションに活用することによる両者の融合を果たしていることがわかる。両者は切り離されない関係であり、また得てして同じ方向を向くことができる点において同志的な関係性を有するのである。


その中で、山形国際ドキュメンタリー映画祭2023で審査員特別賞を受賞し、大きな反響を呼んだエキエム・バルビエ/ギレム・コース/カンタン・レルグアルク『ニッツ・アイランド』は、ドキュメンタリー&アニメーション(ゲーム)によるメディア批判であったことがあげられるだろう。本作品は、全編オンラインゲームのプレイ映像によって構成されており、映画クルーは舞台となるサバイナルゲームにログインし963時間にわたってキャラクターへの取材を試みる。彼らはゲームの中で自らの人生や哲学を語りそれをゲームや現実の中でどのように実践しているかを見せていく。しかしながら、コロナ禍によるロックダウンが背景となる本作品は、徐々にこれがゲームか現実かというメディウムそのものを思考するようになっていく。ハルーン・ファロッキの晩年の作品のようにゲームというメディアを思考する中で、作家や対象たちがドキュメンタリーかフィクションかを思考するようになるダイレクト・シネマの系譜を受け継ぐ本作品は、アニメーションとドキュメンタリーの二項対立を拒み、映画の在り方そのものを考えさせていくようになるだろう。

『ニッツ・アイランド』(エキエム・バルビエ、ギレム・コース、カンタン・レルグアルク共同監督)

まとめ

新潟には初めて足を運んだが、映画祭の立地も大変よく(余談ではあるが山形同様食事や酒がおいしいという楽しみもある)、また取材することができなかったが、アニメーション・キャンプも充実したものであったという。XといったSNSでは映画祭運営に対する問題点も指摘されていたが、個人的には些末なことであり来年以降回数を重ねることで改善されていくだろう。作品ラインナップだけではなく、教育的なあり方や特集企画といった古典回顧の立場も含めて、来年以降「アニメーションの首都」としての新潟に映画関係者はもっと着目するべきであるといえる。
ただ同時に、アニメーションは「アート」なのか商業なのかという広範な議論は重ねられるべきである。その中で今回の受賞結果は後者の側面が大きく、報告者はそのことに対し一方的な批判を重ねていることが問題点としてある。より発展的に応答するためには、後者の最先端にも触れておく必要があるだろう。それは、次節であるAnimeJapan 2024取材報告に委ねたい。

〇アニメーション「コンテンツ」の未来とは?:AnimeJapan 2024報告

2024年3月2日に東京で開催されたCrunchroll Anime Awards(クランチロール・アニメ・アワード)の受賞結果は、報告者に一つの衝撃を与えた。ソニー・グループが保有する米ストリーミングサービスCrunchrollが2016年から開催している本アワードは、日本のアニメーション作品を対象に、アニメ・オブ・ザ・イヤーなど様々な賞を授与し功績をたたえる祭典として、ジャパン・アニメーションに特化した国際的に高い位置づけを持っている賞レースであると言えよう。

報告者が驚いたのは「最優秀長編アニメーション部門」作品のノミネート作品に、ある作品がノミネート候補作品にすら選出されていなかったことである。それは当然ながら『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)のことである。トロント国際映画祭で北米プレミアされたのち、Goodfellas(旧Wild Bunch International)のワールド・セールスの元、アメリカでもGKIDS配給で2023年12月8日に公開され、ゴールデングローブ賞アカデミー賞のダブル受賞、宮崎作品の過去の興行収入を塗り替える成績を出すなど高い評価を得たこの作品が、なぜCrunchrollアワードのノミネート作品にすら選出されていないのか、多いに疑問が残るのは想像に難くないだろう。

実際本部門の受賞作品である『すずめの戸締り』(新海誠)は、日本で2022年11月に劇場公開されたのち、第73回ベルリン国際映画祭コンペティション部門(2023年2月開催)の一作品としてセレクションされ、海外配給をWild Bunch International(当時)が担ったことで、アート系アニメーションとして全世界でライセンスソールドアウトするという大きな結果を生み出した(これは、先述した『君たちはどう生きるか』と完全に同じである)。このことは、新海誠というアニメーション映画監督を、世界が「シネアスト」(映画作家)として受容したことを意味する。では新海、ひいては細田守といった海外でシネアストとして受容されるアニメーション監督たちの先駆けとなった宮崎の作品は、アワードを受賞した新海の作品とは真逆にどうしてノミネート候補にすら選ばれなかったのだろうか。

その理由として、アニメーション産業研究の専門家である一藤浩隆氏は「ジャパン・アニメーションがアート以上にコンテンツであることを訴求しているから」だと端的に推測する。一藤の指摘では、宮崎駿はアートアニメーションの紛れもない作家として大衆の人気を誇ったのは紛れもない事実だが、それはスタジオジブリというブランドの保持というIP(知的財産)コンテンツの保持とは真逆の在り方であるのだという。自らが最前線に立つことは、アート>コンテンツの関係を生み出してしまう。商業アニメーションとは「コンテンツ」であり、アニメーション産業の長期化やひいてはファンが望むのは、「世界観」の保持と「メディアミックス」化の柔軟さである、それが「コンテンツ」としての戦略につながる。Crunchrollはまさしく「コンテンツ」としてのアニメーションの位置づけを重要視しており、それと相反する宮崎の作品は評価の対象外になってもおかしくはない。一藤の指摘を簡潔にまとめるとこのようなことが挙げられる。

それには、アニメーションが映画以上に集団制作であることが一つの要因としてあるだろう。その中でテレビアニメーションにおいては90年代以降の製作委員会方式への転換が、既存のファン獲得の戦略の変化を促したと言える。つまり「一パーセントのコアなファン」ではなく「二次市場の拡大」という形への変化である。映画とアニメーションには、映像表現で何かを追い求めるという点で本質的な差異は存在しないが、こうした変化に映画界は全く追随できていないがゆえに作家であれブロックバスターであれ訴求力を生み出せていないということに、残念ながら映画人や映画批評家、研究者は自覚的にならなければならないのである。

実際、昨年に開催された第36回東京国際映画祭に併設されたマーケット(TIFFCOM)において最も商談成立件数が多かったのが、テレビアニメーションに関する分野だったことも報告されている(詳細は、TIFFCOM2023マーケットレポートhttps://tiffcom.site/wp-content/uploads/2024/02/Market_Report_2023.pdfを参照せよ)。割合を見れば理解できるように、テレビアニメーションは映画(実写)の約2倍の商談件数を打ち立てたことが理解できる。そうした現状の中で映像メディアの現在を考える時、映画を専門にしている者も「コンテンツ」としてのアニメーションの議論から逃避することはできないだろう。

そこで報告者は、「コンテンツ」としてのアニメーションの最大の祭典であると言える3月23日から24日にかけて開催されたAnimeJapan 2024のパブリックデイを取材する機会を得た。パブリックデイを通して「コンテンツ」が観客にどのような訴求を生み出しているか、そして「それでもなお(malgré tout)」どのように「コンテンツ」から「作家」性を見つけることが出来るかを少し考えてみたい。

 

・AnimeJapan 2024

そもそもAnimeJapan とはどのような祭典なのか。このイベントは、2013年まで開催されていた2つのアニメイベントである東京国際アニメフェアとアニメ・コンテンツ・エキスポを統合させる形で2014年から開催されているイベントである。このイベントの前身の性質から理解できるように、2004年から開催されている前者の「日本のアニメーションを世界に発信し、商取引の場を」(発起人:石原慎太郎)というコンテクストが受け継がれているイベントであり(註:それが故に国威発揚と結合することもあり、本年度はアニメーション制作会社「サテライト」ブースで、2025年に大阪で開催される万博の広報活動がなされていた。理由としては河森正治が関与しているためである。だが、様々な問題が指摘されている中で、果たしてうまくいくのかは不透明なのではないだろうか)、パブリックデイ(3月23-24日)とビジネスデイ(3月25-26日)の二部構造に分かれながら、一般公開されている前者でさえも各会社によるプロモーション見本市の性格を持つ巨大展示(+トークイベント)によって展開されていることが特徴である。

 

報告者は本業が映画研究の専門家である以上、どうしても映画会社がどのようなブースを設置しているかに目が向いてしまった。今回パブリックデイに出展していた主な映画会社は東宝東宝映像事業部)、東映東映アニメーション)、KADOKAWA(アニメ)、松竹(松竹ODS)、日活、アスミック・エース(J:COM)といった会社である。ブースを見学してみると、例えば東宝は『呪術廻戦』や『SPY×FAMILY』といった大型コンテンツを保有しながらも、映画監督山下敦弘がアニメーション作家久野遥子とタッグを組みロトスコープの形式を用いて日仏共同製作するアニメーション映画『化け猫あんずちゃん』(2024年7月公開、共同制作:Miyu Productions)といった野心的な新作発表もなされており、バランス感覚のあるラインナップであると感じさせられた。

Toho Animationブース(AnimeJapan 2024)


松竹は配給という形で様々なアニメーションの劇場公開に携わっている経験を活かし、今年度も『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(2024年1月26日公開、バンダイナムコフィルムワークスとの共同配給)や、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編』三部作(一作目は2024年9月6日公開、バンダイナムコフィルムワークスとの共同配給)といった既存のテレビアニメーションの劇場版から、アニメーション映画単体としては、敷村良子の同名小説の初のアニメーション映画化となる『がんばっていきまっしょい』(10月25日公開)や、片淵須直監督の新作『つるばみ色のなぎ子たち』(制作中)のプロモーションなどが存在感を示し、松竹の重厚な配給作品のラインナップの一端を示していたといえるだろう。また日活は、ブース自体は小ぶりでありながらも制作にかかわったアニメーションのキャスト声優陣のトークショーを行うことで存在感を示しており、期間中6回実施したトークショーで多くの来場者を集客していたのが特徴的であった。

松竹ブース『がんばっていきまっしょい』(AnimeJapan 2024)

日活ブース+ステージ(AnimeJapan 2024)


トークショー
コミックマーケットの企業ブースと異なり、AnimeJapanの場合、ブースでの展示や物販以上にトークショーが充実しているのが特徴的であろう。通常、作品ごとに時期や場所が分かれて実施されるトークショーが、AnimeJapanでは主に3つのステージ(+Exhibitorのブースでの整理券配布による無料のステージ)で集合的に実施される。そのため観客は、多くのアニメーションの最新情報に触れることができる(一部ステージはオンライン配信の視聴も可能)。アニメーションのファン(アニメフィルとでも呼称すれば良いのだろうか)にとっては、またとない機会になっているのではないだろうか。報告者も、映画作品に関連する5つのステージを取材する機会に恵まれた。以下特徴的なものに関して簡単に内容をまとめていきたい。

 

まずはやはり新作映画としては、23日にBlue Stageで実施された、長井龍雪監督と岡田麿里脚本による長編4本目『ふれる。』(2024年秋全国公開、東宝アニプレックス共同配給)に関するトークステージが重要である。最新情報では、長井本人から長編3本目『空の青さを知る人よ』までの舞台であった秩父という場所から、高田馬場(東京)へのトポスの移行が発表されたが、長井によるとこれは脚本の岡田が長く住んだ場所であることが理由であるという。三本目までの舞台であった秩父という土地も、彼らの住んだ場所であり、今作もトポスが変化するものの、制作者の足跡史を駆け回ったあとの、いわば一つの「方法」を示す映画作品になると考えることができるかもしれない。

『ふれる。』(2024 年 秋 全国ロードショー (C)2024 FURERU PROJECT)トークショー(2023年3月23日)

公開された映像を拝見する限り、ややホモソーシャル的ではあるという所感は感じつつも、今作のテーマとして幼馴染の関係の変化や上京の物語というこれまでにはあまり見られてこなかった要素が示されていることも特徴的であろう。前作までに描かれてきたキャラクター間の関係の変化と今作がもたらすトポスの変化という2重の変化、ひいては『空の青さを知る人よ』のメインキャストとして本トークショーに登壇した若山詩音からの問いかけに際し長井が応答したように、キャストの選出に何かしらのフレッシュさをもとめるという実験を重ねていく手法が作品にどのような映画的逸脱をもたらすのか。今後注目していくべき作品であるのは間違いない。

また同日Green Stageで実施された『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』キャスト陣によるトークショーでは、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第一章』(2024年9月6日公開)に関する最新情報とともに、前作である『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 NEXT SKY』(2023年6月27日公開)が、2024年4月20日・21日に開催される島ぜんぶでおーきな祭 -第16回沖縄国際映画祭- アニメーション部門へ正式出品(Official Selection)されることが発表されたことも特徴的であろう。既存のテレビアニメーションの劇場版が国際映画祭のセレクションに選ばれることは近年では稀な事態であり、また『ラブライブ!』シリーズの劇場作品が国際映画祭で上映されることは本作が初めてのことである。映画作品として国際映画祭で上映され、いかに受容されるか注目していきたい。本作品は4月21日15時10分より上映が予定され(入場無料)、キャストによる舞台挨拶及びレッドカーペット登壇が予定されている。

oimf.jp

 

24日にCreation Stageで開催されたツインエンジン社が制作・配給に関わっている映画作品の監督鼎談は、作家としてのアニメーション映画と、コンテンツとしてのアニメーションをいかに融合していくかについて映画作家たちのそれぞれの立場が示された場として重要な意義づけを持つだろう。『劇場版モノノ怪 唐傘』(中村健治監督、2024年7月26日公開、EOTAとの共同配給)を除き、他3作品となる『好きでも嫌いなあまのじゃく』(柴山智隆監督、5月24日劇場公開及びNetflix世界独占配信)と『クラユカバ』・『クラメルカガリ』(塚原重義監督、4月12日同時公開、東京テアトルとの共同配給)は完全にオリジナルのアニメーション映画となっており、今トークショーではオリジナル映画が苦戦している現状の中でそれでも彼らが作品を作ることの意義、そして作家としての意地が語られた。オリジナル映画作品制作の意義として、中村はテレビフォーマットからの逸脱であり、ひいては「映画とは何か?」という思考を通してアニメーションというメディアの省察へとつながることを示唆し、柴山は原作のアダプテーションという形式からの逸脱の面白さ、塚原は探ることや共有して議論することによって修正に修正を重ねていく作業を通し、既存の思考から逸脱していくということにあると指摘している。この三者に共通する「逸脱(Écarts)」というテーマが、作家たちがアニメーション映画の技法を洗練化させ、コンテンツとアートの間の懸隔を埋め合わせる大きな可能性に満ちているのではないかと思わされる。

ツインエンジン監督鼎談(AnimeJapan 2024)

踏み込んで指摘するならば、報告者はNIAFF2024で『クラユカバ』を事前に拝見する機会に恵まれていたこともあり、偶然ではあるが塚原監督とお会いし、弁士である坂本頼光氏の起用理由について伺う機会を得た。塚原が私に語るには、坂本は塚原が「インディーアニメ」を試作していた時からの仲間の一人でもあり、坂本の起用によって作品の時代感を構成することが可能になったという。坂本の弁士としての在り方は、作品全体を通して芸術的なナラティブ構築の重要な要素となりうる。その内容は、劇場でぜひ体験してほしい。

 

また映画作品が公開された後に再び放送が開始されるアニメーションについても少しふれておきたい。2018年から放送されているテレビアニメシリーズ『ゆるキャン△』は、2022年に『映画 ゆるキャン△』(2022年7月1日公開、松竹配給)として第二期(2021年)の後の成長した後の主人公たちのキャンプ場建設の姿が描かれるストーリーを経て、2024年4月7日より再び高校生偏としての第三期が描かれるという形式をとっている。
『映画 ゆるキャン△』はそれぞれの進路をとった主人公たちが、再結集によりキャンプ場を作り上げる姿を描き出したが、2023年に濱口竜介ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した『悪は存在しない』(4月26日公開、Incline配給)はまさしく本作品への一つの映画的回答を示したのかもしれない。どちらも新型コロナウイルス感染拡大による閉塞感が作品の背景に存在し、前者はキャンプ場建設による労働の充足と同時に存在する一つの疎外が交錯するさまを、後者はキャンプ場の誘致によって苦慮する土地の人々への受苦と誘致する側の疑心が一つの事件とともに奥深い台森の中で交錯するという様相を描いた。どちらも結果として大地の抵抗にあらがうことはできない人間のさまを映画というフォーマットを通して描こうとするが、無垢の積極的な側面を拾い出して希望を見出そうとする前者に対して後者は無垢が故の絶望を映し出すことで空間からの逸脱を見出した点でやはり映画的であると言わざるを得ない。この映画的応答がなされた今、2024年4月から放送がスタートする三期はいかなる大地の抵抗を示していくのか、今後の展開に注目していきたい。

『悪は存在しない』(濱口竜介監督)



『映画ゆるキャン△』(京極義昭監督)


3月23日にGreen Stageで開催されたトークショーの中で黒沢ともよが言及する「こたつ」(第二期)は、初歩的ではあるものの、文化資本格差の中で「他者のハビトゥスを共有しようと試みる」という点で極めて興味深く、また花守ゆみりによる第一期一話への言及も本作品における一つのブリューゲル的なもののポイエーシスとしての立ち位置へと回帰しようとする点では重要である(cf. J. Rancière, Mallarmé : La politique de la sirène, Paris, Fayard, coll. « Coup double », 2012)。トークショーには彼女たちの「ゆるい」トークの振舞ではなく、一つの政治学が存在していた。

 

まとめ

このように、AnimeJapanの内容をざっくり報告していったが、とはいえ「コンテンツ」としてのアニメーションの現在が示された場を「芸術」の現在として論じることの難しさも痛感させられた。結果としてプレス取材はトークショーやブースの内容紹介報道に注力せざるを得ず、発展的な議論の喚起は難しくなるだろう。

そこで一つ暴論ではあるが、AnimeJapanに提起してみたいことがある。それは、ステージのようなシステムを利用し、近隣の劇場を借りてアニメーション作品の先行上映を行うとともに、同じ作品のプレス向けの試写を実施するということである。映画やアニメーションのジャーナリズムは、作品を「コンテンツ」以上に充実した「作品」として論じることによってはじめて成立する部分が一つの側面として存在している。「作品」として紹介されることでアニメーションファンにとらわれない新規の層を獲得することが可能となり、結果として文化的な位置づけを可能にすると思われる。メディアの分裂によって、「国民的なもの」が消え去った今、メディア文化史のコンテクストを踏まえながらもアニメーションを越境する形で考えるためには、アニメフィル消費社会の中の内輪ノリは維持されながらも結果として大衆によって「忘れ去られる」ことへの抵抗が必要である。「コンテンツ」が中核となるがゆえに映画やテレビジョンのように公共的なアーカイブ構築が難しい現状、多くの書き手の参入を促す点では効果的でなないだろうか。

また映画的な観点から考えれば、なぜ映画会社が実写映画ではなくアニメーションに力を入れるのかということを考えるために、銀幕というフィールドでアニメーションを検討することも十分効果的であろう。要因を「興行やマーケットの問題」という業界の問題のみで浅考するのではなく、あくまでも映像の美学的分析を行うことで、作品から映画会社の美学的立ち位置を論じることも重要である。それこそ映像研究者・ジャーナリストのあるべき姿ではないだろうか。

 

終わりにかえて

「アート」と「コンテンツ」のせめぎあいの中で、日本におけるアニメーションの在り方はまだまだ不明であると言わざるを得ない。しかしながら2つのイベントの取材を通して、その現在地点の一端は見えてきたと信じたい。

 

※2024年4月9日5:06 一部記事内容を修正しました。(更新)

 

(小城大知:映画研究・表象文化論

第24回東京フィルメックス

2023年、東京フィルメックスは三年間にわたる東京国際映画祭との同時開催を停止し、当初から続いていた11月下旬(19-26日)で開催した。本記事は、フィルメックスに参加した文化サークル連合映画専門記者による簡単な報告である。

 

開催に至るまで

そもそものところ、今年度は映画祭開催そのものが危機的な状況であったという。11月15日に掲載された日本経済新聞の記事によると、新型コロナウイルス感染対策による経費増や資金調達の影響で22年の映画祭が赤字に陥り、今年の開催が危ぶまれたということが示されていた。

参考:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD093Z00Z01C23A1000000/

 

2020年度までプログラム・ディレクターを務め現在も主催NPOの理事長を務めている市山尚三氏のインタビュー(聞き手:斎藤敦子(字幕翻訳/映画ジャーナリスト))にその詳細が示されているので、以下今年度開催に至るまでの様々な苦労を要約してみたいが、かなり深刻な事態であったということが理解できる。

参考:http://cinemadays.blog.jp/archives/34026855.html

 

  • フィルメックス開催当初から、映画祭を裏方(特に予算面で)として支えてきた金谷重朗氏の辞職により、資金的な面の確保に苦労させられていた。2023年6月くらいまでに(資金が)集まらなかったら、今年は中止せざるをえないみたいな話まであった。
  • 昨年は、リティー・パンやジャファール・パナヒといった巨匠の新作を招聘出来たものの満席となった回が一作品もなく、入場者収入の激減に苦しんだ。朝日ホール全面開催で行うと、特に平日は入場者が少なくなるため赤字になりやすい。
  • 結果的に今年は文化庁の中規模映画祭への助成があったこと、東京都(都はフィルメックスと併行して開催されているベルリナーレ・タレンツ・トーキョーの共催している機関でもある)の助成の復活などがあり資金面は確保できたが、東京国際映画祭期間中の朝日ホールを押さえることが出来なかったこと、また11月の期間もさまざまな制約などがあり朝日ホール全面開催が難しいため、ヒューマントラストシネマ有楽町で最初3日間は開催するという異例の手法を取らざるを得なかった。

 

では、集客に関してはどうだったのか。フィルメックス事務局が、TIFFのように公式に来場者数を公表しているわけではないので、これは筆者の主観であることをお許しいただきたいのだが、濱口竜介石橋英子『GIFT』以外満席回はなく、昨年同様特別招待作品ですらも朝日ホール上段側はガラガラという中々に寂しい光景を目にした。審査員の一人のワン・ビンが、カンヌ国際映画祭で初コンペにセレクションされた『青春』(2023)ですらも満席にはならず(215分あったというのも原因かもしれないが…)、驚愕させられた。
しかし逆に言えば特別料金4000円の料金設定で開催された『GIFT』は満席になったこと、また橋本愛が登壇した『熱のあとに』がほぼ満席に近い状態からもわかるように、濱口竜介のようなタレント性のある映画監督や橋本愛のような人気俳優が出演している作品の集客は見込める。映画祭を赤字にしないためにも、作家性と同時にタレント性も重視することが映画祭には求められるところにプログラミングの苦悩が読み取れる。

 

それではここから、作品について簡単に振り返っていきたい。

 

コンペティション部門

今年のコンペ部門は、ほぼすべてがジャパン・プレミアで構成され、更にカメラドール(黄色い繭の殻の中)、批評家週刊グランプリ(タイガー・ストライプス)、ロカルノ金豹賞(クリティカル・ゾーン)といった受賞結果を持つ作品とともに、日本からも橋本愛など豪華タレントが出演した「熱のあとに」がセレクトされるなどタレント性のあるセレクションであったことは間違いない。しかしふたを開ければ全体的にレベルの低いセレクションであったことは否めない。
例えば、ファム・ティエン・アン「黄色い繭の殻の中」は、アピチャツポン・ウィーラーセタクンを意識したスローシネマで空間の構成はそれなりにすぐれているが、映画そのものの運動には人間の動きもあることを忘れている。ショットも後半からは力尽きたのか凡庸なものにとどまり長く退屈な作品に陥ってしまった。また、ゾルジャルガル・プレブダシ「冬眠さえできれば」は、テーマは興味深いものの思想だけが独り歩きし、主人公の青年を取りまく空間形成がうまくいっていないのか狭苦しい作品であり、雄大なモンゴルの土地や文化が持つ問題点が実はほぼ無意味と化すのは残念(とはいえ娯楽映画としてはうまくいっている)。また日本映画も「熱のあとに」は、濱口の「ドライブ・マイ・カー」をなぞるような映画であるが、全く及びもせず。しかし観客賞がこの作品ではなく、「冬眠さえできれば」であったことがまだ唯一の救いであると言えた。この国の政治性も捨てたものではない。

 

特別招待作品

殆ど全ての作品を事前に映画祭で拝見していたため、未見であったペドロ・コスタ「火の娘たち」のみ触れておきたい。現在準備中の新作の断片を用いた短編であり、トリプルエクラン(スコープ)を用いた女性たちの歌唱とカーヴォヴェルデのフォゴ火山噴火のアーカイブ地政学者オーランド・リベイロから譲り受けたもの)によって構成されている。ミュージカルだけで構成されるMVかと不安な作品であったが、さすがはコスタ。ミュージカルでは運動→狭間→停止を見事に描き出し、アーカイブ映像によって本作品がMVではなく映画であることを強調する。とはいえ、ゴダールやマルケルのように優れた映画作家は良いMVをも作り出す。コスタもその一人であったことを再確認した。

 

総論

作品の良しあし以前に、来年もフィルメックスは無事開催されるかが気になるところである。今年度は何とか開催されたが、これが来年も続くとは限らない。国が戦争を推進するのではなく文化事業に金を渡さなければ、この国の未来はないのだということを本映画祭の今年の苦労が端的に示してくれたと言えよう。

 

(映画研究・表象文化論

第36回東京国際映画祭報告

釜山国際映画祭から帰国し、一週間足らずで10月23日から11月1日まで開催された第36回東京国際映画祭に参加することになった。そのようなわけで、今年も文化サークル連合に所属する映画専門記者の報告を簡単にお届けする。

 

同じ月に2度も映画祭に対面参加するというのは初めてであり、体力との戦いでもあったことは予想できた。幸いなことに、今回も主要な作品が釜山国際映画祭と東京国際映画祭でラインナップが被ったこと、そしてフィルメックスとの同時開催が無くなったため東京国際映画祭の参加に集中することがかなった。そのため、釜山国際映画祭で見ることを逃した作品、及びコンペや日本独自の部門であるアニメーション部門、ガラ・セレクションで日本のみで上映される作品を主軸として試写を拝見するという戦略の下、今年も以下のように作品の状況をまとめていきたい。

 

オープニング

今年度は、ヴィム・ヴェンダース監督がコンペティション部門の審査員長、日本映画特集をヴェンダースが敬愛している(やがて『東京画』というマルケル『サン・ソレイユ』との比較でよく知られるドキュメンタリー作品を作るまでに至った)小津安二郎の生誕120周年特集を実施することになったこともあり、オープニング作品はヴェンダースの新作長編劇映画であり、役所広司カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した『Perfect Days』がアジアン・プレミア上映された。当初プレス&インダストリー用の上映試写が行われる予定はなかったらしいが、開幕前日に知人から連絡があり、23日の午前に日比谷東宝で緊急でプレス向け上映が行われることになったという連絡を貰う。しかしスケジュールに記載されていなかったこともあり、当日の参加者は30人ほど(しかもQR認証すらなし)。あまりに物寂しい緊急試写であったことが言える(実際インダストリーパスホルダーやゲストパスを所持していた知人の大半は、試写が行われたことすら把握していなかったという)。スケジュールに記載するなど、きちんと関係各所に連絡する必要があったのではないか。

さてこの作品、制作会社がMaster Mind(つまりユニクロの系列会社)、制作支援もユニクロ、ローソンといったいわゆる資本主義お抱えの会社、舞台も渋谷再開発によって設置されたおしゃれなトイレ、役所広司の演じる平山という男は下町に住み、渋谷まで首都高を走っておしゃれなトイレの掃除を仕事にしているという設定であり、巨匠ヴェンダースに金を与えて新自由主義の「日本」らしさを演出させる困った映画であったのは事実。男優賞を受賞した役所広司の演技(とくにニーナ・シモンを聞きながら運転する役所のラストの顔演技)と音楽のセレクトは素晴らしいのだが、畳の部屋の意図的な造形など小津安二郎の神格化が極端であり、浅草の地下の居酒屋などはもはや『東京画』の繰り返しでもありゲンナリさせられる。また短編映画『Somebody comes into the night』は、ホームレスを演じた田中泯がそのままの格好で舞踊をするという短編であるが、田中泯の素晴らしい舞踊はさておき映画としては完全にミュージックビデオで、映画ではなかったのも残念。

 

コンペティション部門

今年度は日本映画3本、イラン映画3本、そして昨年度は全部門通じて一作品もなかった中国映画が3本と、15本のうち3か国で6割を占めるという異様なセレクションとなり、更にPDである市山尚三氏がフィルメックスPD時代に高く評価してきたペマ・ツェテン、グー・シャオガン、ヒラル・バイダロフといった監督たちが東京国際映画祭にやってくるという市山尚三氏好みの野心的なセレクションであったことは認めざるを得ない。しかしながら、今年のコンペは稀に見るレベルの低さであったと言えよう。

例えば、ペマ・ツェテン『雪豹』は、雪豹の侵入を巡る周辺住民の葛藤と自然の雄大さを描いた作品であることは理解できるが、雪豹がわかりやすいディープフェイク映像であり、豹が持つ暴力性が無くなった「ネコチャン」になってしまったことに辟易させられる。またファイト・ヘルマー『ゴンドラ』は、言語の欠落を通じて人間同士の対話を生み出すことを狙っているものの、肝心な人間の交錯に関してはごまかされ、政治性の欠落した単なる遊戯的な結合にすぎない。更に言えばガオ・ホン『ロング・ショット』に至っては、最後に突如予定調和のようにやってくる銃撃戦は、これまでの空間の造形を完全にぶち壊す質の悪いものであり、人間の苦闘も実は丁寧に描かれているわけではない。これまでの蓄積の無さが、最後の派手な銃撃戦を空虚なものにしていると言える。

日本映画の出来も富名哲也『わたくしどもは。』を見れば惨憺たるものであることが理解できよう。佐渡金山跡地という自然の持つある種の雄大さと人間の運動が全くかみ合っておらず、松田龍平小松菜奈の演技も演劇を意識しながら映画的な運動が存在しない。完全に「表層的な」ものを映し出したにすぎず、深みが欠落した映画作品であった。

しかしながら、フェリペ・ガルデス『開拓者たち』は映像の退屈さはさておき、インディオ虐殺の隠蔽や最後のチリ史を巡るアーカイブ映像は大変興味深く、またヒラル・バイダロフ『鳥たちへの説教』は詩的なナレーションと、切るべきところを理解していない映像の構成、そしてカラーと白黒映像、運動と非運動という対称性が奇跡的に組み合わさり、意外な深さを持っている作品であると言えよう。また粗が残るものの、小辻陽平『曖昧な楽園』はミニマルさに特化し、物語さえも曖昧にすることで言葉を超えた人間の動きを取ることに集中した作品であり、かなり健闘していたと思われた。そして筆者にとって、コンペ作品で最も優れていたのはバルバラ・アルベルト『真昼の女』であった。作品自体の動きは単調なものの、女性の微細な運動を描き出すことに模範的で忠実的な本作品は、他の作品に比べて映画であることの意義を再確認させてくれる作品であったと言えよう。

 

アジアの未来部門

またもや、今年度も一作品も見る機会に恵まれず…。後日の鑑賞機会に期待。

 

ガラ・セレクション部門

釜山国際映画祭で、主要な作品を既に事前に拝見していたこともあり、今回の上映では未見だった作品のみを拝見した。その中で2つの作品に触れておく必要がある。

まずは塚本晋也『ほかげ』。近年戦争情勢における狂気を禍々しい勢いを伴って描き続けている塚本の新作は、終戦闇市を舞台に、戦争の狂気が戦後においても続くことを赤裸々に告発した映画である。
「映画においては、目的(表現内容)は手段(表現形式)を正当化しない」(葛生賢氏(映画批評家)1030ツイート)という指摘は真っ当である。このことが映画において守られなければ作品として成立しないというのは、映画史がそのことを示してきた。だが、あえて私がこの作品をきちんと評価するべきであると考えた理由は、手段が武器にならなければならないほど世界中で生じている戦争情勢が切迫しているからである。ウクライナパレスチナ、世界で様々に生じる戦争情勢を映画は反戦闘争への決起を伴って引き受けなければならない。塚本は、映画の文法を破るというリスクを引き受けながら、反戦をストレートに訴えることで映画の武器の部分を真摯に強調したと言えないだろうか。

そしてもう一つが、マルコ・ベロッキオ『RAPITO』。1858年に生じた「エドガルド・モルターラ事件」を題材に、サルデーニャ王国VSローマ・カトリックによるイタリア統一戦争という激動のイタリア史を大胆に描き出す作品である。ベロッキオ特有の個人史と宗教史、そして倫理というものをテーマにしながら、単なる個人にフォーカスを充てる伝記映画ではなく、イタリア史における難題に向かい合う83歳の巨匠の貪欲さを垣間見ることが出来るだろう。

 

ワールド・フォーカス部門

この部門からは3本取り上げたい。
まずはラテンビート映画祭と共催された上映からロドリコ・モレノ『犯罪者たち』の出来が大変素晴らしかったことを指摘しておく必要があるだろう。完全犯罪を成し遂げようとする男たちの息もつかせぬ見事なサスペンス映画としての本作は、ラファエル・フィリィペリへ捧げられ、劇中でもロベール・ブレッソンラルジャン』が流れる(ゴダール『イメージの本』のポスターも映っている)など、アルゼンチン映画史の豊饒な文脈を継承しながら作り出した見事なショットや、西部劇、バカンス映画(ジャック・ロジエ)などが融合された空間造形にほれぼれさせられた。

次にイザベル・エルゲラ『スルタナの夢』。ベーグム・ロキアの同名短編をモチーフとして、女性とは何かということをフェミニズム的に検証するアニメーション。今年のアニメーション作品の中では最も出来が良い作品であり、無論ポール・B・プレシアドが本人役で登場するなどややTransとの関連が紋切型なイメージは否定できないが、それでも大胆で政治的なアニメーションの力作。

最後にアイラ・サックス『パッセージ』。フランツ・ロゴフスキ、ベン・ウィショー、アデル・エグザルホプロスら実力派俳優たちが見せる人間悲喜劇。生活、会話の中から映画的運動が生じることを理解したサックスは、一切の誇張なく淡々と3人の痴話、セックス、愛を描き出す。そこに真の喜劇を楽しむことが出来る。

 

アニメーション部門

今年度から、日本作品にとどまらず海外作品もセレクションする路線へと切り替えた本部門。4本の日本作品(そのうち三本が劇場公開済みで、一本も11月10日に公開される)と5本の海外作品によって構成されている部門だが、ほとんどすべての作品を拝見し、日本と海外の映画に対する意識の差、出来の差をまざまざと見せつけられた結果となった。

まず中国のアニメーション『深海レストラン』。宮崎駿へのオマージュ、純粋無垢な少女像は紋切型であるものの3Dアニメーションの持つ情報の暴力と圧倒的な画は見事な作品であった。またフランスのアニメーション『リンダはチキンが食べたい!』は、線画による前衛的なアニメーション以上に、フランス資本の入った白色化された映画祭向けのフランス映画であり、近年よく見るフランス映画の演出、セリフ回しがアニメーションでも描くことが出来ることを知り感心してしまう。

しかし日本アニメーションの出来は最悪に近く、唯一の日本プレミア『駒田蒸留所へようこそ』はオタク向けアニメーションであり映画ですらない。P.A Worksの「お仕事ものシリーズ」は労働者のリアリズムとはかけ離れた世界であり、本作に至ってはもはやウイスキー工場の単なる経営の問題でしかない。地方活性化という当初の政治的な目的すら薄められ、どこかで見たことのあるアニメ作画、どこかで聞いたことのある声優の声という作家主義のかけ離れた業界内政治としてのジャパン・アニメーションの未来はどこへ。作家ではなく、声優のレッドカーペットや舞台挨拶といった陳腐なイベントも、ジャパン・アニメーションの作家性の堕落を助長している。日本初上映の作品は確かに必要かもしれないが、最低限の映画のクオリティーが担保されていないものは映画祭に出品される必要はない。

また日本アニメーションが4本も入っていたが、来年仮に新作を9本上映するのであるならば、日本作品は1-2本程度で十分であろう。新潟や新千歳とコンセプトが被るかもしれないが、もっと海外の優れたアニメーションをノンコンペティション形式で紹介する部門として、独自の立ち位置を持っても問題ない。

 

日本映画部門

杉田協士『彼方のうた』に対する違和感を、2回目の鑑賞で拭い去ることが出来たことが印象深い。この作品は2回目を見て、小川あんの演技に対する違和感を観客が引き受けて初めて傑作として結実する。

そしてクラシックス部門では、小津特集は時間が合わず一品も見ることが出来なかったが、おそらく本特集最大の目玉であった『雄呂血』4K版を活弁付きで拝見。先日修復され時代劇専門チャンネルで放送されたばかりの本作品、これが本当に素晴らしい。坂本頼光師の活弁も素晴らしいが、何より阪東妻三郎があれだけ立ち回るパワフルな運動が1925年に作られていたことに驚愕するとともに、別格の素晴らしさを持つ作品であることを理解できる。修復されたことを喜びつつ、いつかフィルムでこの作品を見てみたいという気持ちにもなる。

 

終わりに


本映画祭に関して、映画のセレクションとは別にいくつかコメントすることがある。
第一にホスピタリティーやシステムが明らかに悪くなったということである。一般客からチケットが取れないという嘆きを今年は多く目にした。見るとチケット取得のサービスの質が低下したことが原因だという。これは改善の余地があると思われる。P&I の認証システムも故障している光景を何度も目にした。簡単には壊れないようなきちんとしたシステムを導入する必要があると思われる。
更に、今回プレスとして一言言わなければならないのが、紙でのパンフレットの配布が停止されたことは大問題であるということである。筆者もそうだが、紙のパンフレットに書き込んだりすることもあり、また今後の上映に向けた窓口が記されているパンフレットを熟読するプレスやゲストも少なくない。スポンサー収入が増えたというならば、どうしてこのような重要な部分の予算を削減するのか全く理解に苦しむ。

第二にパスホルダー向けの上映であるP&I上映に関して。昨年よりさらに会場が増えたことに加え、過剰で過密、更に偏った日程のスケジュールによって、見損なった作品も少なくない。さらにP&I上映が行われる基準が全く不透明である。オープニング作品が当初P&I上映が行われる予定がなかったのもそうだが、昨年、一昨年とガラ・セレクションにおけるアート系作品のP&I上映が行われたものの今年度はそれに該当するベロッキオ『Kidnapped』がP&I上映がなく、またこの作品は英語字幕付きでの上映ですらなかった。国際映画祭であるならば英語字幕がつかない上映は行うべきではない。
更に言うならば、今年度はアニメーションのP&I上映が追加されたが、日本映画クラシックスはまたもや上映がないというのもよくわからない。『雄呂血』など重要な作品は活弁の無いバージョンでもP&I 上映に追加出来たのではないのだろうか。古典映画軽視と言われても文句は言えないだろう。

第3に交流ラウンジについてである。交流ラウンジを利用しようとしたら、開いているはずの時間にしまっていてサービスが利用できなかったことも問題だが(情報伝達の齟齬が多い)、それ以上に気になったのが、一回利用したときにあまりにガラガラだったことである。これのどこが「交流」なのか、疑問である。「交流ラウンジ」は、会期中パスホルダーしか使用できないことになっているが、これがそもそもの間違いである。本当に必要なのはファンと映画人の素朴な交流である。来年度も設置する場合、まずパスホルダーだけに入場を限定するのではなく、一般客の入場も認める必要がある。そうでないと活発な交流は生まれない。そしてそれが難しいというならば、場所を変える必要があるということだ。
実際に昨年も指摘した通り、この場所はプレスセンターからもやや遠く、更に言えば上映会場からも、角川シネマ有楽町以外距離が近くない。昨年までは、有楽町よみうりホールの上映回があったため比較的に利用する可能性もあったが、今年はよみうりホールでの上映がなくなり、ヒューレックホール(旧東宝日劇)に会場が変更になったため、角川シネマでの上映回を見ない限り行くことは難しい。場所の変更は急務である。

 

このように、三点改善するべき点を指摘したが、無論上映本数、観客来場者数が昨年度より25パーセント程度増(暫定値)したのは喜ばしいことである。コロナウイルスの感染対策が五類になったことで、私が先日釜山国際映画祭に訪問できたように、今回多くの海外ゲストの来日が叶ったというのも喜ばしい出来事であった。その中で審査員の一人アルベール・セラ氏が、P&I上映の中で、審査員にあてがわれた2階ではなく、一般のパスホルダーの座る一階で映画を心底楽しもうとしていた光景も忘れることはできない。
今回のコンペのセレクション、そして受賞結果が市山尚三氏やヴェンダース監督率いる審査員団の映画への一つの愛なのであるならば、本記事も映画への「ひとつの愛」をつづったものとして正当化されることを願いたいものである。

 

(映画研究・表象文化論

釜山国際映画祭訪問記(後編:5日目から最終日まで)

※釜山国際映画祭訪問記、本記事では後半(5日目から最終日まで)をお届けする。

五日目

この日から二日間にかけて今年度の三大映画祭(ベルリン、ベネチア、カンヌ)の最高賞受賞作品を見ていくことになる。しかしその前に、まずは一本目にこの作品のために釜山に行ったといっても過言ではない、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作『Close your eyes』を大スクリーンで見る。エリセの新作は、ある映画のシーンから始まる。月日が経って、その作品に出演したものの後に失踪した俳優の友人を探す映画監督が、取材を受け倉庫で映画にまつわる物品を探す。俳優が別の場所で労働者となって生きていたことを知る映画監督は、その俳優の記憶の奥底にある写真や事物、そしてフィルムと向き合うことになる。映画と対話するラストシーンは、もはや言葉ではなく映画が語り、目をつぶることでイメージが溶着する。過去の作品に比べて、言葉も多く映像のフェードアウトも早くなったものの、複製芸術としての映画史を引き受けたともいえるエリセの重厚な大傑作であり、文句なしに拍手を送りたい。

この重厚な映画を見終わった後の二本目のニコラ・フィリベール『アダマン号に乗って』(ベルリン金熊賞)はワイズマンの作品と同じテイストを持ちながら、はるかに及ばない大凡作である。セーヌ川に浮かぶデイサービスセンターでの障碍者同士の対話を描いた作品は、あくまでの健常者が障碍者を撮影しているというスタイルが崩れず、障碍者から彼ら以上のモチーフを描き出そうとする野心が皆無である。映画を運動の産物であるとことを理解していないのではないだろうか。

そしてCGV Stariumという、韓国最大級のシネコンのスクリーンへと移動し、満員の中でジュスティーヌ・トリエが見事カンヌ映画祭パルムドールを受賞した『Anatomie de la chute』を見る。父親(夫)が殺された連れ合いと子供という二人の家族の逡巡と裁判の様子を描くサスペンスドラマ。要所要所で、父や夫に死なれた彼らのもつ緊張感は描かれているが、裁判シーンは全くと言ってよいほど迫力がなく、あまり思考されて撮られていない映像が羅列されていることによって、映画を運動の迫力の無い中途半端なものへとしてしまったと言える残念な作品であった。

すぐに移動し、4本目にヌリ・ビルケ・ジェイラン『About dry grasses』を見る。トルコの巨匠ジェイランの新作は、ジェイランの映画に通底する土地アナトリアから抜け出そうとする美術教師が体験する様々な出来事を197分という長尺で描く。ジェイランの映画らしく、アナトリアの自然風景は見事であり、長回しも多用されることで人物間の関係性の持つ運動が描かれているのは評価に値するが、今作品に限ってはその自然風景と、人物描写の間の乖離が極めて大きく、ラストの雪国からの脱却以外は違和感が残り続けるなどジェイランの作品の中では微妙な部類の作品であったといえるだろう。

 

六日目

この日からチケットの予約開始が8時30分になる(さらに八日目からは開始が10時になる)。8時30分、翌日の濱口の新作『悪は存在しない』のチケットを取ろうとしたが、開始20秒でチケットが完売しまたもや取ることが叶わなかった。そのため最後の手段をと試みることを決意する。これに関してはまた後述する。

休みなく映画祭に参加し続けていたため、疲労が蓄積していたことを鑑みて午前中少し休み、11時くらいにビデオ・ライブラリーでブリランテ・メンドーサ監督の新作『Moro』を見ることから始める。メンドーサの新作はアジアコンペ部門であるJiseok部門のセレクションとしてワールドプレミアされた作品で、確執を抱えたある兄弟が土地の権利を取り戻すために、暴力的な世界と抗争を繰り広げる映画である。メンドーサ特有の無味乾燥とした暴力表現はさえているが、80分という短い作品の中でこの暴力はやりすぎであるという感もぬぐえない。

そして2本目からスクリーンに復帰し、ロカルノ国際映画祭の金豹賞を受賞し、東京フィルメックスでもコンペティション部門に選出されたアリ・アフマザデ『Critical zone』を見る。ほぼ全編車の移動シーンで構成される本作品はドラッグのディーラーの奇妙な出会いの出来事を描くものである。しかしながら、車の移動シーンにおいて映像の速度を変化させるモンタージュを多用したことで映像があまりに不安定なうえに、人間の邂逅もあまりに薄っぺらく、大駄作であったと言えよう。これを最高賞に選んだロカルノの審査員の感性を疑う。

3本目にベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したヨルゴス・ランティモス監督の新作『哀れなるものたち』を見る。エマ・ストーン演じる貴族の女性が夫のDVに耐えかねて入水自殺を試み、ウィレム・デフォー演じる謎のマッドサイエンティストの手で蘇生される。その蘇生方法が妊娠していた赤ちゃんの脳を移植する方法であったため見た目は大人、頭脳は赤ちゃんというベラ・バクスターという女性として生まれ変わることになる。そして、科学者の庇護の下で育つ中で外の世界を渇望するようになり、放蕩の弁護士と共に世界中を旅する中で自由、女性の人権といった意識に目覚めるようになるという様を描く。力作ではあり、物語を構成する空間の造形やお下劣極まりない言葉やシーンの多用は確かに評価に値するが、やはりランティモスの奇天烈さとは相性が悪く、さらに言うならばランティモスの映画で多用される覗視的なショットは、物語が訴えたいフェミニズム的なものと真逆と思わざるを得ない。

そして4本目にチャン・リュル『The Shadowless Tower』、離婚して家族と離れて暮らす作家が仕事仲間の女性、弟、そしてかつて冤罪で職や場を失った父親、死にゆく妻との邂逅、再会を通して自らの人生を見つめ直していく様を描く。重厚な映像で紡がれる一つ一つの運動は見事であるのだが、144分は要らない(逆に120分であれば大傑作だった)。とはいえ、奇天烈な映画を見た後だったので胃にもたれた後にあっさりとしたものを食べたような安心感を得た。

 

七日目

心配だったチケット取りもサクサクできたため、一本目に日本で公開が始まる直前だった岩井俊二の新作『キリエのうた』を見る。アイナ・ジ・エンドが演じる姉妹を巡り、恋人、友人、他人にもたらされる17年間の物語が描かれるという内容だが…岩井俊二はあくまで音楽に映像を従属させるためPV感がぬぐえなかったこと、そして東日本大震災を映画の山車として利用し、津波の映像をギリシア正教といった宗教モチーフと絡めるなど、人の死に対するあまりの軽さが下劣極まりない作品であった。全く評価するに値しない。

その後にジェシカ・ハウスナーの新作『Club Zero』を見ようと思ったが、あまりの前評判の悪さに見る気力が失せ、濱口の新作を見るために最終手段を使うことにする。1時間前に、会場に到着し、ある場所に並ぶ。すでに三人並んでいて、上映開始時にはその列は150人近くになっていた。

これが赤・黄・青色のパスホルダーが使える「Wait Line」というシステムである。超賭けみたいなシステムなのだが、上映開始10分後までに空席があった場合その空席分を先着順でパスホルダーに開放するというシステムである。今回の濱口の新作は500人規模のスクリーンでの上映だったので10人くらいは入れるかと思っていた。しかしふたを開けたら4人しか入れないという。何とか入ることのできた幸運をかみしめつつ、海外での濱口人気に驚かされる。

さて濱口竜介の新作『悪は存在しない』。『ドライブ・マイ・カー』の音楽を担当した石橋英子とのコラボレーションの一環として発表され、ウィーン国際映画祭の予告編として昨年制作された『ウォールデン』(ソローのテクスト、ダグラス・サーク『天はすべてを許し給う』のインスピレーション+モンタージュ)の持つ空間を長編化した作品でもある。ある山村で娘と細々と生きてきた男が、コロナ禍のあおりで不景気になり補助金獲得のために、汚染水を輩出する可能性があるグランピング施設を村に誘致しようとする芸能事務所の社員と出会うことで、男も含めた村全体が奇妙な出来事に遭遇するという様を描く。しかし本作品、準備不足なこともあり、俳優たちと制作者の連携があまりとれていないことが目立ち、重要なトラベリングもただただカメラが動いているだけで映画そのものに運動がなく、中途半端な設定と取ってつけたような構造が映画の裂け目すら(あるいは孤絶すらも)無意味にし、空虚に堕落させている。濱口の中ではかなり悪い出来であったことにゲンナリ

ゲンナリしながらも3本目にニコライ・カーゼルの『The Promised Land』。ベネチアコンペに出品され、デンマークの農地開拓に従事した軍人Ludvig Kahlenの権力争いに屈せず王のためにと土地開拓に情熱を捧げる伝記的物語。マッツ・ミケルセンの演技は素晴らしく、デンマークの歴史を学ぶ良作であったのは事実だが、映画としては特段秀でているところはなかった。

こうしてこの日は低レベルである日本映画と、ある程度クオリティーが担保されている外国映画という悲しき実情を知った一日であったといえるだろう。

 

八日目

九日目が実質の最終日のため、この日の午前でチケット予約がすべて完了。ゆっくり目に出発し、13時からまずはビデオ・ライブラリーで見て圧巻の出来であったと感じていたカトリーヌ・ブレイヤ『Last summer』を見る。再婚した不安定な家族共同体の不安定な結束、歪み、決裂という一夏の出来事を静と動の衝突によって描き出す。カトリーヌ・ブレイヤならではの歪みは継承されながら、大人と子供の境目にある不安定な運動を、見事な空間設計をもって大胆に描き出す見事な作品であったと言える。

その後2本目として、これも楽しみにしていたデヴィッド・フィンチャー『ザ・キラー』。前作『Mank』同様、Netflix出資によるオリジナル映画で、アレクシス・ノントの同名グラフィック・ノベルを映画化した作品。マイケル・ファズベンダー演じる、自らが招いたミスにより人生の岐路に立たされた殺し屋が、自らや雇い主にあらがいながら粛々と任務を行っていく様を描く。自戒を込めて行うナレーション、殺人行為以上に殺し屋のちょっとした所作の方に演出の重要性を理解していることもあり、フィクションがドキュメンタリーの延長であるという映画史の意義を感じさせる極上のアクション映画であったと言える。

この日見たのは3本だがどの作品も充実しており、最後のリサンドロ・アロンソ『Eureka』も大作であった。アルゼンチンの鬼才の9年ぶりの作品は、娘を取り戻そうと奮闘しながらも自ら死す運命へと誘われるヴィゴ・モーテンセン主演の白黒西部劇から始まり、それをテレビで鑑賞した貧しい移民出身の警察官が、パトロールに出掛けたまま自らの仕事に絶望して失踪するという物語を経て、最後に生きている村から出ることを望む青年が、金の発掘に従事する中で不可解な出来事に遭遇するという三本のドラマで構成されている。さしずめアロンソ流『神曲』(ダンテ)のようであり、全員が死ぬという西部劇が地獄、この世の不条理を描き出す第2部の煉獄、そして搾取されながらも救済を受けるという天国と考えることができる。もう一度見てみたい。

 

九日目

実質の最終日。この日は午前のプレス試写が再度復活したため、一本目にクロージング作品であるニン・ハオ『The Movie Emperor』。アンディ・ラウ演じるダニー・ラウという超有名俳優が自らのイメージを変えるために風変わりなインディペンデント映画に出ようと奮闘するさまを描くが、中身の無い内容の引き延ばしとリアリティの無い物語で失笑し、豚が死ぬシーンで激怒。ファン・ビンビンしかりアンディ・ラウに関しても、俳優だけを前面に押して中身の無い内容の映画になってしまっているのはなぜなのだろうか。

2本目にアンドレア・ディ・ステファノ『The Last night of Amore』。これもイタリアが誇る名俳優ピエルフランチェスコ・ファヴィーノを主演に、ある刑事の引退前の最後の10日を描く映画なのだが、あまりにだれる演出に爆睡してしまい、ファビーノが車で最後の挨拶をしているところ以外は記憶になし。

3本目にアン・ホイの新作ドキュメンタリー『Elegies』。香港、台湾の詩人たちへのインタビューを通して、ホイがずっと魅せられてきた詩学の歴史と、香港・台湾の歴史が交錯した史的アプローチ。素朴にとても勉強になり、香港におけるパウル・ツェランの受容の高さを知る。もっと香港の詩人について知りたくなり、邦訳でも英訳でも構わないので彼らの詩を読んでみたくなった。

4本目はビデオ・ライブラリーに移り清原惟『すべての夜を思い出す』がようやく日本映画の中で良作。東京の多摩市を舞台に、三人の女性たちの放浪が夜になって一つの形で結合するという奇跡を描く。トラベリングを過剰に行わなくても、人の動きを丁寧にとれば映画は運動を持つ。PFFスカラシップ作品は毎度クオリテティーが高いが、清原の新作は別格のクオリティーの高さ。日本での早期公開を願うばかり。

そして実質の私のクロージング作品はCGV Stariumでの、大傑作アンゲラ・シャーネレク『Music』(再見)。すでにベルリン国際映画祭報告で記している通りなのだが、オンライン試写ではなく韓国随一の大スクリーンで見てその真価を改めて理解することが出来る。オイディプス王を翻案しながらも、死が蔓延するこの世の中に向かって、蜂起の身振り=政治的抵抗をわき起こすことこそが映画の意義なのであるのだと再確認させてくれた。こうして私のスクリーンでの釜山国際映画祭参加は終了した。

 

十日目

帰国する日であったため、ホテルをチェックアウトし、受賞結果を確認したら、まさかのNew Curents部門で森達也『福田村事件』が受賞していたので、オンラインでパラパラ見たのだが、作品のテーマは重要なのに要所要所に見られる女性差別的な部分にゲンナリした。プレスセンターに行こうとすると警備員が通行を止めてきたので押し問答となり、責任者が来て警備員の勘違いを詫びるといったことも。ということで、最後はプレスセンターで少し仕事をして釜山港に向かい、博多行きの夜行フェリーで日本に帰国したのであった。

総評

やはり釜山国際映画祭の規模は本当に大きい。これで予算が減ったというので驚きなのだが、国を挙げて映画産業を振興しようとする考えが素晴らしい(逆に今保守化によって文化事業への予算が減らされているという。連帯して立ち向かう必要がある)。日本も釜山映画祭を見習うべきであると言える。

そしてやはり印象的なのは、観客の8割くらいは20代であるということである。学生向けのパス(シネフィルパス)を発行しているのもあるが、若い人に映画を楽しんでもらおうという政策をとっていることが最大の理由だろう(例えば映画代が800円くらいに設定されているなど)。美術館も入場料がタダであるなど、若い人が文化を楽しむことが出来る素地が韓国では作られている。この素地を日本でも作る必要がある。

学生ボランティアもスタッフもみな若く、活気に満ち溢れていることが印象的だった。東京国際映画祭も当日の学生料金を500円にするなど、策は練っているが、やはり大胆な政策をとるためには国の援助が必要である。文化にお金を出さない国は発展しない。釜山は、若い人こそがこれからの社会を担う存在なのだということを理解している。東京国際映画祭の観客の老齢化を食い止めるためには、釜山をモデルケースにするのが一番であると感じさせられた。

 

(参考:5点満点での星取)

Because I hate Korea(オープニング・開幕作品): 2.5

Green Night(ハン・シュアイ):1.0

Do not expect too much from the end of the world(ラドゥ・ジュデ): 4.5

The Last Summer(カトリーヌ・ブレイヤ): 4.5

A brighter tomorrow:(ナンニ・モレッティ)3.5

Youth(ワン・ビン): 3.0

The Beast(ベルトラン・ボネロ):4.0

Past Lives(セリーヌ・ウォン):1.0

In our day(ホン・サンス):3.0(+0.5)

Pictures of the Ghosts(クレベール・メンドンサ・フィリーオ):2.0

Dogman(リュック・ベッソン):1.5

Here(バス・デヴォス):4.0

The Plough(フィリップ・ガレル):2.0

Following the sound(彼方のうた, 杉田協士):2.5

Menu Plaisir Les Troisgro(フレデリック・ワイズマン):4.0

Close your eyes(ビクトル・エリセ):5.0(満点)

On the Adament(アダマン号に乗って、ニコラ・フィリベール):1.5

Anatomy of fall(ジュスティーヌ・トリエ):2.0

About dry grasses(ヌリ・ビルケ・ジェイラン):2.5

Moro(ブリランテ・メンドーサ):2.0

Critical Zone(アリ・アフマザデ):1.0

Poor Things(哀れなるものたち、ヨルゴス・ランティモス):1.5

The Shadowless Tower(チャン・リュル):3.0

Kyrie(キリエのうた、岩井俊二):0.5

Evil does not exist(悪は存在しない、濱口竜介):1.5

Promised Land(ニコライ・アーセル):2.5

The Killer(デヴィッド・フィンチャー):4.0

Eureka(リサンドロ・アロンソ):3.5

The Movie emperor(ニン・ハオ:閉幕作品):1.0

The Last night pf Amore(アンドレア・ディ・ステファノ):1.0

Elegies(アン・ホイ):3.5

Remember All Night(すべての夜を思い出す,清原惟):3.0

Music(アンゲラ・シャーネレク:クロージング):4.5

September 1923(福田村事件、森達也):1.5

 

(映画研究・表象文化論

釜山国際映画祭訪問記(前編:前哨戦から4日目まで)

愚かにも新型コロナウイルス対策の一環で5月から感染症対策が五類に移行した。しかしこのことが、海外渡航の本格解禁という一種の光明をもたらしたのもまた事実である。本記事はこれを利用して、海外映画祭への対面参加を初めて行った映画専門の記者の報告を前後編でお届けする。

 

例年奇数年には、10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭という世界最大級のドキュメンタリー映画祭が開催される。多くの映画ファン、研究者、業界関係者が10月に一堂に山形に結集するというある種の奇祭は、日本が誇る映画文化の豊かさの一端でもあると言える。

 

しかし、10月の同時期に、韓国の釜山広域市で釜山国際映画祭が開催される。1996年から開催されているこの映画祭は、国の資金援助などの後押しもあり今ではアジア最大級の映画祭としての位置を確立した映画祭である。2011年に、「映画の殿堂」(釜山シネマセンター)という世界最大級の映画祭専用施設(+フィルムアーカイブシネマテーク)がセンタムシティ(Centum City)に建設され、現在はそこをメイン会場としながら近隣のシネコンやホールも貸し切って25スクリーン(Communityという旧作の上映含める)の規模で開催されている。またアジア最大級のコンベンションセンターであるBEXCOで開催される併設マーケット(AFCM)は、アジア最大級の映画マーケットとして全世界の映画が売買される貴重な機会であると言えよう。

 

筆者は2021年以降、東京国際映画祭など日本の映画祭は対面で参加しながら、カンヌ・ベルリンといった海外の映画祭にもオンラインで参加してきた。そのため海外映画祭に関しては、「不完全」な参加という状況が続いていた。そのため渡航制限が無くなった今、海外映画祭に今年こそ対面参加しようと画策していた。しかし山形国際ドキュメンタリー映画祭のセレクションも野田真吉監督特集など捨てがたい。どうするべきか迷っていた。

釜山国際映画祭から取材認証が下りたことで、釜山渡航へとかじ取りを切ったのが9月20日。10月出発では飛行機も船も取れない。そのため飛行機の安さを優先し、開幕の4日前である9月30日に筆者は釜山の地に降り立つことになる。

しかし大阪で2024年開催が予定されている万博(戦争体制強化のためでしかないことが見え見えの資本主義の後の祭り)を、2030年釜山で開催を目指しているとのことで空港に着いた瞬間から最終日に至るまで、万博に関するCMやポスターなどをいたるところで目にし失笑することとなった。

 

前哨戦

釜山到着後、映画祭の開幕まで3日あったため早速色々と見学。まずは映画祭が開催される釜山映画センター「映画の殿堂」を下見。とても大きい。国を挙げて出資しているなど映画祭への力の入れ方が、東京と違うことを身にしみて感じる。殿堂の中には様々なシネアストたちの手形が保存されているが、最も興味がひかれたのはやはりコスタ・ガヴラスの手形である。

その後に釜山市立美術館で展示を見て(立て替えすることが決まっているため、解体と保存をテーマにしたクオリティーの高い2つの展示が何と両方タダ!)、さらに別館で日本でも高い人気を誇る美術家イ・ウーファンの展示空間も堪能。その後、2000年代前半まで映画祭が開催されていたナンポ地区に移って釜山映画体験博物館を見学。これも無料の特別展示がクオリティーが高く(映画批評家に関する展示)、釜山の映画への力の入れようを肌身で感じる。近くにある釜山タワーにはさほど惹かれなかったが、目の前にある李舜臣像を見て、在りし日の日本史を勉強していた時を思い出しながら、朝鮮を侵略した日本が償うべき負の歴史を感じる。

博物館や釜山タワーがある公園を降りた後、偶然BNK(釜山銀行)が運営する映画館(ミニシアター)の前を通りかかり、時間がちょうどよかったこともあって、クリスチャン・ペッツォルト監督の新作『Afire』を再見。ベルリン国際映画祭の時期に見た試写はオンラインだったのでスクリーンで見たいと思っていたが、釜山にも東京にも映画祭での上映作品のラインアップになかったので諦めていたため、今回この傑作をスクリーンで見ることができたという至福の一時。さらに上映後映画館のスタッフ(上司が今まさに山形に行っているらしい)から、日本から来てくれたからと『突然炎のごとく』の韓国版ポスターをいただくというサプライズも受け、釜山国際映画祭の参加準備が整った。
10月2日にはキム・ジウン監督の新作『Cobweb』をハダンのCGVで見て韓国のシネコン文化を体験し、開幕前日10月3日、映画の殿堂に行ってプレスパスを受け取る。ゲスト用土産にリュックをいただき、東京国際映画祭とプレス歓迎キットのホスピタリティの違いを感じた。

 

パスについて

筆者は今回プレスパスで参加したのだが、プレスには主に四つの種類がある。

 

赤:審査員、スポンサー、バイヤー、各国映画祭のプログラム・ディレクター級に与えられる最上級パスである。(映画祭チケットが一日5-9枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

黄:ACFMなどマーケットに参加する人間に与えられるパスである。映画祭に加え、マーケット業務、マーケット用の試写などを見ることのできるパスである。(映画祭チケットが一日5枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

青:プレス、業界関係者に与えられる一般的なパスである。筆者に与えられたパスはこの青パスのうちの一つであるプレスパスである。ただしプレスだけには別途赤、黄パスがアクセスできるビデオ・ライブラリーやプレスだけ別途行われる開幕、閉幕、ガラセレクションの三作品の試写上映へのアクセスも可能になるという権利が与えられる。(映画祭チケットが一日4枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

緑:シネフィルパス。映画を学ぶ学生向けに発行されるパスである。(映画祭チケットが一日4枚与えられるが、対面でのチケット予約しかできない)

 

このように多様なパスが存在するのだが、特に緑のパスホルダーの存在が、映画祭を活気づけていると言えよう。後述するが、この映画祭では観客の大多数が20代から30代の若者であり、ボランティアやスタッフも若い人が多く、映画への若者の熱い情熱を感じることができる。

それではここから、作品の紹介をしながら各日の内容報告に移っていきたい。

 

1日目

オンラインチケット予約システムでは翌日の分まで取ることが出来るため、この日からP&I用のわずかなチケットを争奪する争いが11日まで続くことになる。早速翌日の分からラドゥ・ジュデ、ナンニ・モレッティワン・ビンのチケットを確保したものの、ケン・ローチが満席で取れず。近年の作品は微妙なのだがやはり社会派映画の巨匠としてのローチの人気の根強さを垣間見る。

そこからオープンング・セレモニー前に、開幕作品『Because I hate Korea』のプレス向け試写。インディペンデント系の制作ながら立派な娯楽作品として作られている。様々な理由から韓国が嫌になりオーストリアへの移住を決断する女性の成長物語でありながら、過去と現在を交錯させ複層性を描き出している良作であったと言える。上映後のプレス会見の後に、日本を代表する映画ジャーナリストに初めてお会いする機会を得る。開幕式をプレスセンターから眺め見し、アンディ・ラウやチョン・ユンファ、ソン・ガンホ、パク・ウンビンなどスーパースターが登場するたびに沸き起こる歓声を体感する。筆者の一番のツボは、マスター・クラスに参加するために来日していた原一男監督の楽しそうなレッドカーペット。ここから往復2時間かけて映画祭に参加するというハードな戦いが始まることになる。

 

2日目

オンラインチケット予約のために、朝早起きし7時25分ごろ映画の殿堂の中に入ると、直接チケットを買わなければならないシネフィルパスの学生たちが150人以上列をなしていることに驚愕。事前に携帯のSIMカードを入れ替え、8時にチケットを取る。これが後で大惨事になることを筆者はまだ知らない。

悪戦苦闘しながらチケットを確保し、まずは9時から『緑の夜』(ハン・シュアイ監督)のプレス向け試写。中国の名女優でありながら、近年脱税疑惑で一線を引いていたファン・ビンビンの復帰作品だったが、あまりに中身の無い物語の引き延ばしや動きの無さに唖然とする。

怒りに震えながらも、2本目の再見作品、ラドゥ・ジュデ『Do not expect too much from the end of the world』を800人収容規模の大スクリーンで見る。大傑作。あるPR動画の制作のために彷徨う女性の肖像と1981年の『Angela merge mai departe』 (Lucian Bratu)を交錯(対話)させながら、撮影と配信という行為を通して映画そのものへの疑念を呈しウクライナ戦争と東欧危機をぶった斬る。映画が映画たらしめる意義を再確認。

3本目もこれもまた再見ナンニ・モレッティ『A brighter tomorrow』。多くの映画の作り手に送るばかばかしくも最高の映画賛歌であり、映画が集団の産物であることを示すラストシークエンスの大団円も重要な要素である。その後ビデオ・ライブラリーで見たかった作品を見て、その円熟ぶりを堪能した(これは後述する)が、その時に携帯が突然おかしくなり、セキュリティロックがかかって使用できなくなるという大惨事が発生した。

このことに打ちひしがれながらも、何とか気持ちを取り直して最後に王兵ワン・ビン)『Youth(Spring)』を見る。初のカンヌコンペ入りをした中国のドキュメンタリーの鬼才王兵の新作は『苦い銭』の内容を若者向けに特化する形で2014年から2019年に撮影された映像で構築されている。だがいつもの王兵の作品にしては、テイストがかなり軽快であることに違和感を覚えた。カメラは真摯に被写体を捉える。そこに映し出される労働者の彼らは、年齢に比して幼く見える。酸いも甘きも知らないまま、労働に従事させられている彼らのせめてもの楽園としての対話、休憩、食事の姿をカメラは捉える。軽快であるというのは、安い賃金で働かされている日々の裏側なのかもしれない。王兵は、あえて実態から離れた本当の人々の裏側を真摯に撮影するというリスクをとることを選んだのだろう。意欲的な作品であると言える。

 

3日目

オンラインチケット予約に悪戦苦闘した後、走ってベルトラン・ボネロの『The Beast』のプレス向け試写。これがまた素晴らしい傑作であったことを記しておく必要があろう。レア・セドゥ演じる女性がある実験室に幽閉され、様々なキャラクターを演じながら一人の男を追い求める中で自らの野性を見いだしていく様を描く。トリプル・エクラン、ビデオ撮影など映像の実験を巧みに刊行しながら、男と女の放浪と消滅による絶望を見事に炸裂させ、映画の持つべき運動の空間形成が見事な作品であった。

しかしながら2本目に見たセリーヌ・ソン『Past Lives』は、アメリカに移住した韓国人女性と韓国に留まる韓国人男性の初恋の終焉までを描くメロドラマなのだが、あまりに紋切型な移民映画の設定に加え、中身の無い内容の引き延ばしが重なって(とりわけラストの女性が泣くシーンなどが該当するだろう)空虚極まりない作品だったことで失笑してしまった。これだったらキム・ソヨンの『霧(Mist)』を見ればよかったと後悔。

その後、3本目に待ちに待ったホン・サンスの新作『In our day』。いつものホン・サンスの映画でありながら、かなりコメディテイストが強い作品(酒とたばこをやめながら、取材を受けていく中でその欲望が再び出てくるお爺さんの詩人などが特に挙げられるだろう)だったのか、爆笑している人が多く韓国でのホン・サンス映画の見方を学ぶ。

その後ビデオ・ライブラリーで『バクラウ 地図から消された村』で日本でも知られるようになったクレベール・メンドンサ・フィリーオ『Pictures of the ghosts』を見る。この作品は監督自らの映画作りへと移る過去を描く一部、ブラジル映画産業界の歴史を語る第2部、そしてサン・パウロの老舗映画館(現シネマテーク)を軸とした映画と観客の関係性を語る3部構成になっている。ブラジルの映画史を巡るドキュメンタリーとしては興味深いが、シネマ・ノヴォの鬼才グラウベル・ローシャネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの映画が引用されないなど、作家主義へのこだわりが薄いことが疑問視されてもおかしくはないドキュメンタリー作品ではあった。

三日目の最後にはBIFF Theaterという3-4000人が収容できるという超大型の野外劇場でリュック・ベッソンの新作『Dogman』を見る。上映前にベッソンが登場したことで、観客のボルテージがマックスになりながら映画がスタート。親兄弟に虐待を受け、犬と不思議な共存関係を形成する男の犯罪遍歴を描く。しかしながら、動物的な狂気も平坦で凡庸なものにとどまっており、今更感ある設定もとどまって新しさを感じない作品であった。これがゆえにケイレブ・ジョーンズの熱演もあまり報われていなかったこともまた残念極まりない。

 

4日目

この日からしばらく朝9時からのプレス向け試写がない(厳密にいうと朝9時30分から是枝裕和の『怪物』の試写があったようだが、筆者は既に公開時に見ているため見る必要がなかった)ため、すこしゆっくり目に朝7時ごろ起きて、8時に今映画祭最難関の作品のチケットを予約し、無事成功。

まずは一本目バス・デヴォス監督『Here』を見たところ、これが傑作であった。どこか脆さを抱えたスタンダードサイズの映像が、人々の偶然的な出会いを通して語りを始める。その多種多様な映像の言語でもたらされる本作品は、断絶されていた都市と山野部の結合の運動をもたらす。苔という事物が、正しく映画のテーマである生き延びというものの見事な象徴になっておりうならされた。

2本目に見たのはフィリップ・ガレルの新作『Le grand chariot』。ザンジバル集団期以降からガレルの映画通底している家族共同体の形成と崩壊というテーマは、本作にも継承されており、ある家族経営の人形劇団が家父長の死によって崩壊していく様を描く。しかし本作品は、ガレルの作品の中によく見られた放浪があまり見られない代わりに、家族共同体が崩壊へ向かう足取りが軽く、いささか不気味に感じざるを得なかった。

別の映画館に移動し、3本目に先日開催されたヴェニス・デイズでワールドプレミアされた杉田協士監督『彼方のうた』。杉田の12年ぶりのオリジナル作品となる本作は、女優小川あんを主演にある謎の悲劇的過去を持つ女性が多摩地区を彷徨い、様々な人間との邂逅を経て自らの音、そして打ち消そうとした忘却不可能な過去と向き合うということを暗示するさまを描く。杉田はこれまでどこか強さを持ちながら脆い人物たちとの対話を描いてきた。今作品もその路線は継承されるが、小川の演技が冒頭からほぼ映画から浮世離れした感覚がぬぐえず、ようやく地に足の着いた人物となるラストシークエンスの前まで終始違和感を覚え続けた。

上映後杉田監督の挨拶が行われたが、写真だけ撮ってそそくさと失礼し(杉田さん、ごめんなさい)、そのまま4本目となるフレデリック・ワイズマン『Menus Plaisirs les Troisgro』という4時間の大作ドキュメンタリーを見る。ダイレクト・シネマの系譜を受け継いだ対話型ドキュメンタリーの巨匠ワイズマンの新作は、パリの老舗レストラン「トロワグロ」についてのドキュメンタリーであり、食をテーマとした政治的・社会的・文化的な対話が描かれる。そこには料理人だけではなく、消費者(お客)、生産者、近隣のレストラン、そして市民の存在が浮かびあがり、カメラは丁寧に彼らの対話や労働風景を映し出す。レストランについてのドキュメンタリーと聞いてワイズマンの作風が変わってしまうのかと心配していたが、そこは変わらずであったので一安心した。ただし、撮影監督が常連のジョン・デイビーではないのでご注意を。

 

後半戦は、世界三大映画祭の最高賞を受賞した作品や、日本公開直前の話題作品など内容が目白押しである。後編に続く。

 

(映画研究・表象文化論