Re:Public on Web

広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

ある「大学」への覚書

文サ連の学内機関紙『Re:Public Vol.1』に掲載した、サークル員の文章完全版をこちらにも掲載しますー

ある「大学」への覚書

 大学の「サークル」や「そのもの」を考えなくてはならないときに、まず大学というものが何かということを解さなければならぬ。大学とはそもそもなんなのか。大学がもつ本質とは何なのかということを解いていく。

 「大学」というものは、日本では奈良時代の官吏養成機関である。「大学」なる組織にさかのぼる、いわゆる現代型の大学の原点は西洋にさかのぼる。12世紀頃から誕生する、教授や学生の平等権組合としてのラテン語のウニベルシタス(universitas)に大学の本質がある。つまり組合員である学生そのものが「大学」になるというのが本来である。つまり大学に協力するも何も、我々そのものが大学であるのだから、従属も何もなく、大学の平等構成員同士の対立や衝突という(アンチ・オイディプス)が存在しているのである。

 一般的に大学は都市に存在するものであるが都市を構成する要因として、「共同体への志向」と「貨幣への志向」の二つに分類されると内田隆三は指摘する。この二つは「限度性」における違いが存在している。

 前者は、都市を空間として閉じられているし、後者は、都市をゲームの領域にしようとしている。

 都市は今日後者の方へと移行しようとしているがゆえに、「資本への欲望」が見える形、見えない形へと微積分されて浸透していると言えよう。都市の魅力的な部分として「資本への欲望が無限である」という部分がある。

 これは特許状をもらい形成された「自由都市」にも共通していえる部分なのだが、都市は貨幣の浸透により形成される。何故かというと経済開放には「共同体からの離脱志向」が介在するためである。

 農奴は束縛の共同体(例えば土地や血縁といったつながり)の中で、特定の価値(農業収穫、教会や領主への納税)を成員に共有させて、個々人の在り方を一定の範囲内に規制される「物」としているのである。共同体の力学では貨幣や資本の力にとりつかれ個人志向になる「個人的存在」は「異人殺し伝説」などの機制に見られるように厳しい排除の対象や呪われた存在になりかねない。

 

 だが、都市においては人々の欲望はこの種の共同体の力学からは自由になる。しかし同時に資本の欲望には限りない消費生体となるようなシステムの要請が負荷される。ここで「奇妙な視線の構造」をとりあげたい。

 「奇妙な視線の構造」とは以下のものである。たとえば家に住んでいる人は、自分の視点で住まいを見ていると当然思う。しかし、例えば中に入ると壁にアニメのタペストリーやフィギュアを飾っている家で、しかもそれが外窓から見える状態になっているとしよう。そうしたら、まさにそこに住む人間というよりは来訪者の視点に対応していることになる。つまり意識的には自分の見方で住まいを捉えているつもりではあるが、実は他者の見方に無意識になっている消費者が住人であるともいえる。これは実はガラス張りの大学会館やフィットネスクラブといったそれぞれに公共性をもった施設にも及んでいるのだろう。都市は人間というよりも、資本の欲望に媒介された抽象的な視点を具体化したものが住む場所となっている。

 

 しかしこの生体性は一種のアリバイにすぎない。資本の力学は「貨幣の欲望」が具体的に担っているのでそれを考えなくてはいけないだろう。「貨幣の欲望」。大学生には欲しいものでああろう。「~が欲しい」「~が食べたい」「~ちゃんは~を持っているから、自分も~が欲しい」とはよく聞く。実は空虚であらざるをえない。特に3例目。

 今日のように他人とは別に見えたい欲望と同時に、他人と同じものを持とうとする欲望が存在する時代はめずらしくない。しかし、この欲望は実は平均性を嫌い個性的であろうとする意志に直結するのである。というのは、例えば「私だけ」のものに既製品の臭いがする。「本当にあなたが欲しいものは何か」と聞かれると、「本当に」という言葉への虚しい響きが経験されるだけである。結果、「個性」は実は大量のパターンのヴェールに隠された画一的なものでしかなくなることがわかる。欲望の源泉が相互に絡みあって生成消滅している情報でしかなく、個人がその情報を行き交う交差点でしかなくなる。

 

 だから、(貨幣という「共通な形式」還元されている)欲望は無内容・無価値で、実に空虚な形式となってしまい、無数の欲望は貨幣という空虚な位相でしか共通性をもたない状態になってしまう。つまり都市の華やかな無限性は同時に答のない「虚しさ」で通底している。しかしこの言い知れない二重性が都市という存在の幻影の手ざわりである。しかし人間は都市というプレートの上に分節せざるをえない自分の存在についても感覚の狂いを覚えないわけにはいかないだろう。プレートの上にいると、どんな風物も確かな実在の感覚を見失い、共同体も実在性を抜き取られ、記号としてこのプレートの上に並ぶ異質なものに還元される。狂いというのは、実在感の狂いである。

 

 そのような中で「大学」という共同体闘争を行っているべき共同体が都市化してしまうと当然空虚な位相へと移行してしまうのである。このようであると実在性が失われ、情報体となってしまった大学にはもはやプログラムの原理の欠陥による「責任」の無所在と概念の曖昧化が進むのみである。近代思想の中で、「責任」が悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は自己存在が情報の網目へと解体され自己が情報になって組織化されることを示すのである。

 このような自己存在の解体が進むと、ある一つの結論へと至れる。それは「個」そのものが集団の中で作られていく作り物でしかなく、集団への個の解体が、個のそうしたフィクショナルな性格の露呈だといえる。しかし問題が、「責任」が曖昧化した個による集団の中の合意が果たして正しく明確な基準のあるものだろうか、ということがある。おそらく合意が完成され機能するものだとしても当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく「合意した」という事実だけがそれを合意したと機能化しているにすぎない。そういう意味で合意はファケーレ(作る作用)によって支えられた事実的なものにすぎなくなる。

 

 サークル問題の場合、基盤となるはずの未来世代との「道徳的共同体」は未だ存在せぬ者(「物」)たちと関わる限り、どうあっても虚構的性格を持たざるを得ない。「将来世代の状況、価値観、思考法、対処法」が我々にとっても原理的に予測できないこと、「我々が自分たちの利益を制限するのに対し、いわゆる(当局や学活)といった仮に束縛する所が何も返さない、未来においても同様だった、未来世代も何も考えない」ということなどは、そうした虚構性が露呈した場所として、実際この試みを否定しようとしている考えが入り込もうとする場所となる。これに対して、我々は思考を働かせるしかないだろう。つまり学生を「当局への共感と相互性」の中に持ち込もとする努力も想像でしかなくなり、一つの創作であるがゆえに、いわゆる大学に認められる「価値」という、作り物特有の人間臭さが露呈している。もとより個(自己)がそこへと溶解していく情報の網の目も相互に依存しあって、絶えず変わっていく非実体なものでしかない。そうであるならば、集団の中に解体していったとしても、個は、せいぜい借り物の居場所をつくっているだけにすぎなくなる。それで自由になったのだろうか。