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広島大学文化サークル連合の公式ブログです。

新芸術復興宣言 ここに発布します

新芸術復興宣言

広大文サ連が学生支援グループによる一連の言論弾圧、芸術破壊を受けて発表した、芸術復興の宣言書です。

新芸術復興宣言

「いつ? おお いつなのだ? 形にとらわれぬ創造物が存在したのは?
ではいつなのだ? 創造物が運命を…それは夢もなく 覚醒でも眠りでもなく
ほんの一瞬 1つの歌 一度きりのはかない声 微笑の呼び声
かつて子供がいた ある日創造があった いつかそれは偶然にとらわれぬ奇跡となろう。」
                  ヘルマン・ブロッホ (ウェルギリウスの死)

 

芸術における絶望とは何かを考えるとき、それは創造である。必ず滅びるものから永遠に滅びないものを作る行為、言葉や音や色や物を活用して時代を超越する事物を作り出す行為。

我々文化人は常に絶望と対峙する営みを送ってきたはずだ。人間の苦悩に対して芸術は冷酷であったことは間違いない、芸術にとって苦悩など一時の飾り物でしかないという事実がありながら。

芸術には二つ類型が存在するとされる。それは人生のための芸術である魔術芸術と芸術のための芸術である娯楽芸術という類型である。魔術芸術とは芸術がもたらすさまざまな感情の刺激によって人々を実際の政治や商業などの実際的な狙いを持つ活動へと仕向ける種類の芸術と定義される。魔術芸術は例えば教会のための芸術や軍楽などを含む概念である。また娯楽芸術とは逆に実際的な狙いがない活動へと仕向ける単に感情を高揚させるだけの芸術である。娯楽芸術の概念はその定義に基づけばさまざまな大衆芸術を含んでいる。我々はどちらの芸術をやってきたのだろうかといわれると実は両者ともである。前者が「事物を前にして」かくということ,後者が「想像力にそれに思い浮かべながら」かくということ。この両者にある区別が芸術家に開かれた二つの道の可能性を示すのである。どちらにしろあるのは「処女堕胎」であり、広大無辺の空間を創造することである。

だが現在の世界(特に大学)では文章を脈絡なく並べ、無限に交錯して重ねあうことすら不可能になっている。無知という悪霊が権力を持つことが絶望以上の何か‐単数定冠詞として?‐名状しがたい何かであるであることを思い知らされる。ここは創造の世界を一時的に休ませる空間でも創造の絶望と対峙する空間でもない。世界との通信が遮断されたただの廃墟である。我々はただ「ああ私を許したまえ、私を憐れみ賜へ」と無知に懇願し、自ら監獄に入るための操り人形になっているだけである。

だが操り人形には主権が存在しない。操り人形には虚構的な性格しか存在しない。人間的次元にあり、自由にふるまい、自律的に、主権的な力で応答することは不可能である。それゆえに操り人形のファルス、その勃起に機械的なものが存在するのなら、至高者性に固有的なものは存在しないのである。

ゆえに我々は操り人形から脱却し、再び処女堕胎としての芸術の絶望に立ち向かうことを宣言するしかあるまい。言論を生み出し無限の空間を作り出すためには無知や監獄に許しを請うのではなく無知を破壊し創造が休まる場所を作り出すほかあるまい。

芸術は現実との境界線を越え、間断なく偶然と戯れること。支配はせず、無限に反復する。延長するも終焉へと向かい、神聖なるは操り人形なのではなくそれから脱却した実在性を持った人類のみ。かくして美の陶酔が出現するのである。

 

                        平成30年6月25日
                        広島大学文化サークル連合