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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

【映研】 ジャック・リヴェット、没5年の今

 現在アンスティチュ・フランセ東京にて『批評月間』特集の第3回目の特集が開催されている。(https://www.institutfrancais.jp/tokyo/agenda/cinema202103120418/)第3回目となる今回は2020年に新体制を迎えたカイエ・ドゥ・シネマの新編集長マルコス・ウザル(Marcos Uzal)のキュレーションによる充実したラインナップであるといえるが、その中で目玉を引くのは、やはり来年没30年を迎える映画批評家セルジュ・ダネー(1944~1992)をめぐる特集(Serge Daney, 30ans après)なのは間違いない。カイエ・ドゥ・シネマの編集長を務め、ゴダールをはじめ多くの映画作家と対話しを行い、自らを「映画の息子」(Cine-fis)であり、「渡守」と称したこの特異な映画批評家について、ジル・ドゥルーズがこのように言っていることを忘れてはならないだろう。

 

真の夢想家とは、プルーストが言うには、何かについての真実を追い求める人物のことである。ではここであなた(ダネー)について考えるのであるならば、旅の中であなたが追い求めようとしていることは、世界は映画に極めて似たものを作ろうとしていること、休みなくそうしている。そしてテレビが、全世界を映画にしてしまうことなのである。旅をすることが、都市や特定の都市が「メディアの歴史におけるいかなる瞬間」に属するのかを観ようとすることである。(«Pourparlers», Minuit, 1990, p.110) 

 

 

    そしてドゥルーズはダネーが持つ映画批評のオプティズムとして映画における「絶対的な旅」の存在を挙げている。それはダネーによれば映画というメディアをめぐる絶対性の否定と、同時に映画が「代補」という機能を保持による抵抗により美や思考の独自性が生まれることの可能性を見つめていることに他ならないのである。彼にとってテレビというメディアは現状の補完という領域にほかならず、絶対的な孤独な旅として映画を位置付けることが可能なのである。
 話は戻るが、この特集の中で上映されている孤独な作家についてのドキュメンタリーについて語る必要があるだろう。クレール・ドゥニが、「現代の映画作家」シリーズの一環として制作した『ジャック・リヴェット 夜警』(Jacques Rivette, le veilleur, Cinema, de notre temps)という1990年のドキュメンタリーである。この作品でセルジュ・ダネーヌーヴェルヴァーグ運動を支えた監督の一人でもあり、また優れた映画批評家として「カイエ・ドゥ・シネマ」の草創期を編集長として支えた映画作家ジャック・リヴェット(1928~2016)の信頼にこたえ、彼が過去に製作した映画や映画理論、映画空間を巡る旅に出ながら、リヴェットという作家の哲学を追求するドキュメンタリーを製作するのである。その中でリヴェットの過去の作品(『パリはわれらのもの』、『狂気の愛』など)を引用しながら、俳優という存在のセクシュアリティー(とりわけビュル・オジエやジャン・フランソワ・ステヴナン)、身体の把握(顔や身体の撮影)、都市の表象(車上撮影されたパリ)、そして卑劣さ(『卑劣さをめぐって』というテクストに詳しい)の問題について、閾に目を向けながら極めてラディカルな議論を行うのである。
 少しリヴェットという作家について、没5年たったことに際し私個人としての少しばかりの感慨を述べておきたい。5年前の1月、ジャック・リヴェットが亡くなったという情報が駆け巡った時私は高校三年生だった。受験生でありながら勉強を放棄し、映画に耽溺していた愚かな高校生は、ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは船で行く』に衝撃を受け、『北の橋』で映画における若さと老いの対立を垣間見、そして大長編『アウト・ワン』に驚愕を覚えながら、ただただ受験をやり過ごす日々を過ごしていた。そして浪人時代に観た『狂気の愛』を一つの模範とし、またリヴェットのバイオグラフィーについて調べる中で彼が偉大な映画批評家の一人であったことを知ったのである。そして2017年に広島で開催されたコテクール特集で、死後に発見された3本の短編(『気晴らし』、『カドイーユ』、『四隅にて』)を観てその事実は私の中で確証へと変化したのである。
 とはいえ、2016年当時リヴェットの映画批評は、リヴェットの方針もあったのかほぼすべての論考が収録された雑誌でしか読めないという状況であった。『カイエ・ドゥ・シネマ』や『トラフィック』に収録されていたフランス語のテクストを一から集めるのは骨が折れる作業であるのは想像に難くない。そんな中日本でアンドレ・バザンをはじめとした作家主義の再考ブームが沸き上がる中で、2018年にジャック・リヴェットの批評を集めた全集がフランス本国で刊行されたという知らせが入った(Textes Critiques, post-éditions, 2018、アマゾン等でも入手可能)。喜び勇んで入手し、その重厚なテクストを見ていく中で彼がやはり優れた批評家であることを再確認できる(とりわけロッセリーニの批評は一読の価値がある)と同時に、彼に今まで取りつかれていたイメージのひとつである映画と批評の断絶という懸念を払しょくしてくれることは容易であろう。今回没5年に際して、彼が多くの批評を残している映画作家フリッツ・ラングの代表作である『月世界の女』に関し、リヴェットが1956年にカイエ・ドゥ・シネマに寄稿した短い論考を訳出した。拙い訳出ではあるが読んでいただき、彼が極めて優れた映画批評家であったことをまずは知っていただく一助となればこの上ない喜びである。

 

 

 『月世界の女』ジャック・リヴェット著(Frau im Mond(La Femme sur la Lune, Cahiers du cinéma, no57, mars 1956 , 2018, p.149)  

シネマテーク」―常々フリッツ・ラングは何10年も先ゆく人であるが『月世界の女』は補われた総体のほぼすべてがそこにあるが故に一つの「第一の光景」がそこに存在しているのである。ある部分において、十分な説明が与えられなければならないだろう。この場合、映画の歴史において監修になっているわけではないからだ。テア・フォン・ハルボウの脚本は『スピオーネ』(ラング)以前に記されたシナリオと同じ価値を持つことには程遠い(『スピオーネ』はかつて『39夜』(ヒッチコック)や『バルカン超特急』におけるいくつかのシーンがすでに発露しており、『月世界の女』において同様に、前-ヒッチコック的な構想がまさに存在している)。ここで記すことに関しては、あなた方は驚かない(あるいは予期してはならない)と思いますが、ラングの演出は厳格な正確さと動作における分析それ自体を制する極めて抽象的で非人間的なものであり、それが故に観客に観客に嫌気をもたらす。私はほとんど理解していないのだが、もしドイツ映画が年月を経る毎にその魅力を失い、今日もそうであるのであるならば、我々が想像しうる演出のもっとも完璧な手法にとどまるのである。まさに真剣さと重厚さによって(例えこれらが一つだけでは少し手法として重々しいように思われることはあるだろうが)、映画作家(ラング)が根本的な問題に着手し、分析し、検討吟味しそして最終的に総括することで、純粋で単純な技術から形而上学が意味するところに至るまで、『月世界の女』は『ファウスト』や『サンライズ』と同時期に製作された映画、映画総体に至るまで、これまでに先行した空間における空間の問題全体を解決したことで、フリッツ・ラングは明瞭な精神性と、冷酷な思想性を持った映画としての統合というたくらみに着手するのである。