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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

アラン・バディウ『哲学宣言』を読んで【社会科学研究会】

皆さん夏休みいかにお過ごしだったでしょうか?

社会科学研究会では、この間夏休みや春休みの長期休暇に、週一回程度で古典的名著の読書会を行っています。

今年の夏休みにはアラン・バディウ『哲学宣言』を読んできました。短い著作ではありながら含蓄深く、全11章のうち6章までで夏休みが終わってしまいました。

今回は、『哲学宣言』を6章まで読んだ各位の感想を持ち寄って議論した内容について、執筆者の方で一定編集して、参考までにここに書き残しておこうと思います。

※はじめにお断り

基本的にメンバーはバディウは初読です。加えて全体で読むことができたのは『哲学宣言』の6章まで。ここに書いていることが正しいとは限らないので、鵜呑みにしないでください💦

あくまでバディウ『哲学宣言』を読む際の参考程度にしてもらえれば幸いです。

1.近現代の哲学の見取り図

バディウはリオタールやハイデガーら哲学者自身が「哲学の終焉」について言及していることを出発点にして、近現代の哲学を広く概括しながら「哲学が可能になる条件」を検討して「哲学は可能だ」とバディウは主張する。この過程においてバディウは、近現代の哲学の見取り図として重要な視点を提出しているのではないか。

バディウは、数学素・政治的創意・詩・愛の四条件が同時に存在することを哲学の条件として設定した。これらが同時に存在しないときに、哲学は停止するとみる。主に、これらがいずれか一つの条件に代補されることによって、哲学が停止するのだとする。これを「縫合」という。

バディウは「実証主義」=数学素(科学)による縫合や、「マルクス主義」=政治(+数学素)による縫合が行われてきたことで、近代において哲学は停止した、という。これに対し、西欧の哲学者ハイデガーらは詩への縫合を目指したが、これもまた縫合であり、同時代に別々の縫合が行われ、全体として哲学が停止しているのが、近代の問題なのだとみている。

「哲学は終わった」のではなく、縫合によって停止したと考えるべきで、ポストモダンのいうような「脱構築」を目指すのではなく、「脱縫合」=哲学の四条件が同時に成立する場を再形成することが問題だというのだ。

1-1. 哲学の停滞=市民社会スターリン主義の限界の露呈では?

二度の世界戦争によって、自由や平等をうたった市民社会の限界性が露呈し、一方でこの市民社会の限界を超えて、搾取のない「真の民主主義」を実現するとした共産主義もまた、スターリンの恐怖政治によって逆のものとなった。

こうしたもとで、それまでの哲学を総括したヘーゲルマルクスに体現された、歴史主義的な世界観の停滞、歴史の前進を単純には望めなくなったのが、近代という時代の特徴なのではないか。ポストモダン、として、近代との関係がいまだに問題になっているのは、こうした歴史主義との関係としても考えるべきではないか。

1-2.ヘーゲルがそれほど尊重されていない現在

『哲学宣言』の本文でも、ハイデガーナチスを肯定したことを哲学の終焉と結びつけて議論されることが多いことが問題になっていたが、ヘーゲルについても、その弁証法的世界観のもと、「反対や対立も肯定される」ため、「戦争も肯定する」思想として扱われ、現在あまり位置づけが高くない状況があるように思われる。こうしたところにも哲学が可能かどうか、の問題があるだろう。

1-3.科学と哲学の関係

哲学は「諸科学の科学」とも言われるが、現在においては科学と哲学は結びつかないものになってしまっているように思われる。哲学者は難解な言葉(≒詩)で自己満足的な傾向に陥っており、もう一方で科学者は一面的に技術的知見のみを深め、哲学と結びついていないように見える。これは詩や科学への縫合という状態と言えるかもしれない。

かつてホッブズは「哲学は科学に従属する」と言い、カントもまた、哲学が学たる条件を検討した。カントはもともと科学者であったし、ニーチェも文学者として見られてきたのであった。哲学はそれ単体で浮いて存在する学問ではなかったはずだ。科学と哲学の関係を改めて誠実に追い求める努力や誠実さが求められているのではないか。そうしないことは哲学者の「罪」とさえ言えるだろう。

1-4.プラトンの位置

バディウプラトンの「詩人追放」を問題にしながらも、プラトンから続く哲学の継承を訴える。ソクラテスが非論理の「民主主義的決定」によって殺されたことへの裏返しとして、形而上学や論理学の体系を築き、これを政治の基礎として再構築したのがプラトンだ、とも言われる。師匠のソクラテス弁証法(⇔形而上学)の使い手だったが、彼の弟子だったプラトンアリストテレスから形而上学が形成され、哲学が体系だって発展してきたのは面白い点だろう。プラトンに立ち返って、現代における論理学(数学素)や政治的創意、詩といった哲学の条件について再検討する必要がある。

2.<一>と<多>

バディウは、存在は本質的に<多>なものとして、<一>(例えば「神」など)から説明する在り方を否定する。ニーチェが「神は死んだ」と言い、<一>を解体したことを引き継いでいるように思われる。しかし、ニーチェはもう一方で永劫回帰という別の<一>を持ち出したことに問題があったと言えるのではないか。バディウは、ニヒリズムの方法論を建設的にとらえ返したともみることができる。

また、バディウは存在そのものは<一>なしの<多>なのだとして、存在論の立場をとる。ここにこれまでの哲学を継承する独自の立場があるように思われる。

2-1.倫理学の問題としても

倫理学は「絶対善」という<一>を想定した体系であり、このバディウの問題意識がまっすぐ問題になるところのもの。しかし、漠然とした<多>に対応するであろう相対主義ということになってしまっても、議論の位置が定まるものにはならない。

こうした問題が、一方で<一>によって物事を説明することが哲学だと考える傾向になったり、あるいはそれに反発して定まらない議論になってしまう結果になってしまうのではないか。こうした状況が、ヘーゲルの「対立を肯定する」思想が位置づかない、という話にもつながっている点では。

2-2.「個人」は<一>かつ<多>が可能な場なのでは?

「絶対善」は<一>であって<多>ではないものだろう。それに対して、「個人」というものは、複数の所属が可能であるなど、社会的に多様な在り方が同時にできるとともに、それとしては一人でもある。こうした意味で、社会に生きる個人は<一>かつ<多>が可能な場として考えることができるのではないか。

これは、バディウが近代の哲学の主問題とした、「主体」という領域の問題として考えることができる領域かもしれない。

3.バディウの議論は何をもたらしてくれるか

バディウの議論は、そのまま何をするべきか、という議論には結びついていないように思われるが、「これはいけない」というような、哲学のとらえ方の誤りについて、考えるものになっているだろう。脱構築ではなく脱縫合が問題なのだ、というのが一つの例。

バディウは哲学界においては、異端的な位置にある。『哲学宣言』のような、比較的読みやすい文献であっても、邦訳がでるには非常に時間がかかった。

日本における哲学の扱いにおける課題も大きい。基本的には高校の「倫理の授業」で扱われ、「いいことを言っている」くらいの印象で片付けられてしまう。倫理学に回収されない領域があることが覆い隠されてしまう。<一>に回収されてしまう問題はこうした点にもあるだろう。

 

今後の社研

以上、6章までの読書会ではありましたが、バディウ『哲学宣言』は、メンバー各位の認識を深めるうえで非常に良いものになったと思います。

そのため後期に入っても、各章の担当者を決めて部会で発表していく、というスタイルで学習を続けることにしました。ぜひ関心ある方は社研(@HUSS_5G)までお気軽にご連絡下さい。社会科学研究会は後期も引き続き知的好奇心旺盛な新入部員を募集中です!