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TIFF2021(第34回東京国際映画祭)+TOKYO FILMeX2021(第22回東京フィルメックス)参加報告

昨年に引き続き、今年度も東京国際映画祭東京フィルメックスが同時開催された2021年。しかも前者に至っては実に20年以上ぶりにディレクターの交代(矢田部吉彦氏から市山尚三前東京フィルメックスプログラミング・ディレクターに交代)、さらに六本木から日比谷・銀座・有楽町エリアへの立地移転が発生した(後者は朝日ホールがメイン会場である状態は変わらず、昨年度より朝日ホールでの上映回数が大幅に増加する例年通りに戻った状態になった)という変化の中で開催された今年の2大映画祭同時開催=TILMeX(ある映画研究者の言葉を拝借するならば)状態で行われた映画祭の状況を報告したい。しかしながら、全ての作品を挙げるのは一苦労であるので、今回は部門ごとに1~2作品に厳選する。

 

1.東京国際映画祭

TIFFコンペティション

オミルバエフ『ある詩人』に驚愕する。カザフスタンの巨匠が自らの言語で描く本作は、言語の消滅や人文学の危機という学術的で政治的な問題を絡めながら一人の苦の詩人が資本主義化する世の中に苦悩しながら、実在の18世紀の詩人に思いをはせるという壮大な物語である。とはいえ「詩の時代」は終わったという悲観や自然に身を任せられる昔はよかったといった懐古趣味に堕ちる映画なのではなく、その中で詩は継承されているということを一人の女性の朗読によって示してくれているだけである。オミルバエフは誇張を排することすることで壮大な物語を精密にこぎれいにまとめ上げているところに魅力がある。

『ヴェラは海の夢を見る』が東京グランプリ作品であることには驚きを感じつつ、その物語の現代との直結は再考しなくてはならないだろう。裁判官の夫を持ち自らも通訳者として職業エリートの道を邁進していたヴェラは、夫の死をきっかけに社会に巣くう男性優位と徹底的に戦うことを決意する。しかし男性のもつ容赦ない暴力はやがて彼女の精神をむしばんでいく。まさに男性優位社会への批判を明瞭な形でストレートに表現した本作が東京グランプリを獲得したことは、審査員の見事な政治性を表出していると言えよう。総じてこの映画祭が成功したと言える一端になる。

 

TIFFガラ・セレクション】

オープニング作品である、クリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』(2022年1月14日公開、ワーナーブラザーズ配給)のP&I試写に参加する。これが2大映画祭の私にとっての実質のオープニング作品となった。『クライ・マッチョ』はイーストウッドの新作であるが、彼が91歳という年齢であることを考えるならばとんでもない実験性あふれる映画であったことを指摘しておきたい。一見『運び屋』などに見られるロードムービーでありながらイーストウッドは自分のひ孫のような役者相手に自らが率いてきた「強い男」像の引導を引き渡させる。つまり自らの在り方を一旦否定させることで新たな「英雄」像を提示させるのである。これは91歳の監督が持つ貪欲さそのものであると言えよう。

 

アピチャッポン・ウィーラーセタクンMEMORIA メモリア』(2022年3月4日公開、ファインフィルムズ配給)を3日目に拝見する。予想通り、11月1日のよみうりホール上映は満席(ただしこれには半数制限でチケットを販売しているというトリックが存在しているという情報もあるが真相は不明)、何とプレス用席が30席しかないという異常な状況が発生した。筆者は前日立てた予定を急遽変更し、ゴバディの『4つの壁』のプレス上映を拝見してからよみうりホールへ向かった。すでに記者が2人並んでいた。上映一時間半前からどんどんプレスが並び始め上映一時間前にはプレス席が満席になるという異常事態に見舞われた。もう少し席数を用意してもよかったのではないだろうか。プレスの中には席数が少ないことへの不満を指摘する声も存在していた。
さて、作品であるがこれはまた素晴らしい作品であった。冒頭の重要な音から始まり、自らにしか聞こえない奇妙な音を追う女性と大地をつなげる不在と共時性、そしてその政治的図像学としてアピチャッポンの映画に多々登場する睡眠という要素が媒介される。それはタイでの映画製作が政治的に不可能になり、新たな土地を求めてさまよう中でコロンビアへと旅をするアピチャッポンとティルダ・スウィントンが演じるジェシカが重なり合うようかのごとく。カメラは沈黙しながら長く長く回り続ける。その中で我々は土地へとなおかつ奥地へと自らの身体を戻していく。土地の変換があろうと原点は変わらぬままで一安心させられた。

 

TIFF:ユース】

ユース部門からカンヌ・プレミア部門出品作であった、アンドレア・アーノルド『牛』を銀座で拝見する。一切のナレーションなく牛の搾乳、成長、出産、そして屠殺に至る乳牛農家もとい牛の姿を丁寧に描いており好感触の映画であった。牛の描き方では、影の中から出てくる牛の描き方の照明の使い方がうまいことで、牛に主人公として泰然としたキャラクター性を持たせていることに着目するべきだろう。

TIFF:ワールドフォーカス】
ミケランジェロ・フラマルティーノ『洞窟』を見る。ベネチア国際映画祭コンペ審査員特別賞を受賞したフラマルティーノ10年ぶりの新作で、撮影はストローブ=ユイレダニエル・シュミットの作品を支えている名匠レナート・ベルタであることも忘れてはならない。洞窟の調査と村の牛飼いのおじいさんの動きが直結する本作では、調査が進む中でおじいさんが病弱になり調査の終了と共に牛飼いのおじいさんが死ぬという完全なる直結は少し形式的でありすぎなのではという意見に激しく同意である。即ち映画が持つ動の意味をほとんどなさないことへとつながってしまうからである。とはいえ、ベルタのカメラワークには本当に驚かされてしまう。

他にもこの部門では『復讐は神に任せて』(エドウィン)、これはtiffで事前に拝見していたため今回はパスした。

 

TIFF:アジアの未来】

この作品は筆者の先生でもある、Han Yanli氏が審査員の一人を務められている部門でありすべての作品がワールド・プレミアという部門である。

この部門はなかなか作品を見る機会に恵まれておらず、今からまとめてオンライン試写で拝見する形になりそうだが試写を拝見することができた作品として、大賞を獲得した『世界、北半球』は、ホセイン・テヘラニの処女作としてしっかりとした作品に仕上がっていたことに驚きを隠せなかった。この作品は戦争という惨禍、その残存に対し人はどのように立ち向かうのかという人類史不変のテーマに基づいている。その中で一人の少年の見る光景は様々である。戦争、迫害、略奪、児童労働、共生血今、宗教の戒律。そしてそれと同時に技術が土地を侵食しているという点は、キアロスタミの初期作品にもない残酷な光景を示している。

 

TIFF:ジャパン・アニメーション】

同時刻の『アヘドの膝』の上映を見ようかと思ったがパスし、アスミック・エース側のご厚意で湯浅政明『犬王』(2022年初夏公開、アニプレックスアスミック・エース配給)のジャパン・プレミアを拝見する機会に恵まれた。ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールド・プレミアされトロント国際映画祭special presentation(これは、濱口『ドライブ・マイ・カー』と同じ部門での上映である)で上映されたのち、東京国際映画祭が初めて日本での上映となったという。今回アニメーションの新作は4作品上映されたが、何を持ってもこの作品の出来は別格であった。古川版平家物語のなかの「犬王の巻」をアニメーション映画化した本作。かの溝口健二でさえも実写映画監督作品(『新、平家物語』)として「失敗」したこの作品を湯浅は、ロックミュージカルという古典翻案物語映画には前代未聞の手法を用いて現在を起点にし、拾い集める作業から拾い投げ返す作業に注力することで、湯浅監督独自色を出しながら新たな平家像を出すことに成功していると言えよう。上映後のインタビューでは、湯浅が観客へと投げ返したい振舞や歌の重要性を説いていることが印象深く感じられた。まさに観客との対話という映画の意義を再確認するにふさわしい一本であったと言えるだろう。
本作は、2022年初夏に劇場公開される。

(余談だが、そのほかの作品はいしづかあつこの新作『グッバイ・ドン・グリーズ!』(2022年2月25日公開、KADOKAWA配給)も期待外れの凡庸な作風にとどまり、水島精二総監督の新作『フラ・フラダンス』も大震災の残り香の更なる風化を感じさせる残酷な作品であったと言える(後者はフィルメックスでヅァオ・リャン『行く当てもなく』が上映されたことが理由だと思うが)。アニメーション部門には正直心配しかないというのが実情だろう。)

 

TIFF:日本映画クラシックス

田中絹代特集。今回の上映では実は一本しか拝見できていない。その中で『乳房よ永遠なれ』を今回拝見した。『女ばかりの夜』と同じように田中澄江が脚本で描かれる本作は北海道を舞台に歌人としての才能がありながら日本の男性優位社会に苦しむ女性を朝丘雪路が見事に表現している。50年以上前の作品でありながら、田中絹代は女性監督のパイオニアとして6本の映画を制作しているが、どれも女性の強さと弱さを大胆にしかし繊細に描いている人物として今後の検証が楽しみである。

 

2.東京フィルメックス2022

 

【フィルメックス:コンペティション部門】

アレクサンドレ・コベリゼ『見上げた空に何が見える?』からスタート。これがまたとんでもない傑作であることに驚愕した。偶然に出会い恋に落ちた二人が、呪いにより顔が変わる。お互いをお互いにわからぬままでありながら、街は平然と時が過ぎていき、ワールドカップや映画の撮影が起こっていくという遊び心あふれながら、大地に根差す人々の姿を丁寧に描く魔法のような作品である。大傑作。

 

『ホワイト・ビルディング』はニアン・カヴィニッチのすぐれた作品として取り上げたい。ベルリナーレ・タレンツ出身であり、カンボジアプノンペンの集合住宅であるホワイト・ビルディングを拠点に前作『昨夜あなたがほほ笑んでいた』がドキュメンタリーとして、第20回東京フィルメックスに出品されたカヴィニッチは、本作品ではフィクションの舞台として再びホワイト・ビルディングを舞台に少年たちの青春のつかの間の輝きともろさを、ホワイト・ビルディングの東海と交錯させながら見事に描いている。冒頭の空撮から引き込まれていく作品である。

 

【フィルメックス特別作品】

フィルメックスのオープニングである濱口竜介監督の最新作『偶然と想像』(2021年12月15日公開, incline配給、配給協力:コピアポア・フィルム)のジャパン・プレミアのため朝日ホールに移動するが、シネスイッチから朝日ホールまでの徒歩での移動時間を計測すると10分であることを確認。朝日ホールでは久々にお会いした知人たちとだらだら入場しながら近況を話す。これが映画祭の醍醐味であることを再確認。

『偶然と想像』は初めて見たのがベルリン国際映画祭のワールド・プレミアオンライン上映だったので今回3回目にして初の劇場鑑賞となった。第一部『魔法:あるいは不確かな』はモデルとアシスタントの友情関係、そしてアシスタントと恋人、恋人と過去の関係を持つモデルという三つの物語が展開されるが、全体的の冗長的な印象をぬぐえず、最後のズームアップの登場で空虚な笑いが起こるだけの映画なのだが、2部『扉は開けたままで』では人生の意味を失いかけている女学生と行き遅れの仏文学者の奇妙な交流とその破滅というこれまた空虚なのだが人間味あふれて面白い作品、3部の『もう一度』は実は全く知らない人間同士が自らの友人の記録をミメーシスし、それが新たな世界を作り出すという本作の極地のような作品で引き込まれざるを得ない。総じて素晴らしい作品だったと言えるだろう。

 

ナダヴ・ラピド『アヘドの膝』

実はこの作品は7月8日から16日に東京渋谷ユーロライブ及び映画美学校試写室で行われた、Marché de film 2021 Cannes in the city Screening in Tokyo(これについては拙論「COVID-19感染拡大かにおける映画祭の状況について」(『REPRE』43号)に詳しい)で7月8日に事前にスクリーンで拝見したうえに、9月のtiff(トロント国際映画祭)で再度(2回も)拝見していたため本上映ではパスした。しかしながら、やはりこの映画の凄さを語らずにはいられない。
この作品はベルリン国際映画祭銀熊賞を取った『シノニムズ』がアンスティチュ・フランセ日本「批評月間」の中でオリヴィエ・ペール氏のセレクションにより上映されたことで知られるようになったナダヴ・ラピド監督の新作である。映画監督である男Yは、パレスチナの少女のアイコンである「Ahed」についての次回作を構想する中で、砂漠化する村に前作を上映する旅に出る。その中で文化省の役人との出会いを経て、自らの母親が死んだという事実と、軍隊経験の中でもたらされる故郷の喪失や愛国心、そして表現の敵といえる検閲の問題と戦いながら、次回作の構想に苦しむ。スタイリッシュなカメラワークを武器に死んだ母親にヴィデオレターを送る形で展開されていく物語は、やがてこの映画の崩壊を示唆する形で終了する。映画そのものの意義を問うという形にあるのはやはり監督自身の亡命という意識が前作から貫かれる形で存在しているが故なのであろう。賛否両論わかれるだろうが、この作品に対して惜しみない拍手を送りたい。

 

オムニバス『永遠に続く嵐の年』を拝見する。ジャファール・パナヒ(実はコンペ作品の『砂利道』は実息子パナー・パナヒの作品である)が製作総指揮を務め、前述のアピチャッポンも含めた7人が集まりコロナ禍の今を舞台に製作された短編が集結した。存分退屈なこの作品の中で唯一別格だったのが、デヴィッド・ロウリーが、今ではなく生者の話ではなく、過去や死者という真逆の表象を用いることで災害への抵抗を見せたことである。ロウリーのみが生者ではなく死者の話を用いた点は奇特ではあるが、これはコロナ禍でジョルジョ・アガンベンが指摘するような埋葬の禁止という点と直結するかもしれない。我々には悼むことさえも認められなくなり、死者としての位置づけもあいまいなものとなったことで人権が奪われているとアガンベンは指摘するが、ロウリーはあえて死を迎えた夫の送る妻の振舞から人間の尊厳とは何かを提示しているのではないだろうか。

 

【フィルメックス:メイド・イン・ジャパン】

オムニバス『Made in Yamato』 は後日試写で拝見したためここでは簡単な記述にとどめていくが神奈川県大和市の地域振興のために個性的な映画作家たちが集まって制作された奇跡のような作品。その中で、『大和カリフォルニア』などで自らの故郷を用いた作品制作を行ってきた宮崎大祐作品は、自らが慣れ親しんだ大和市を埋め、コロナ禍で転覆させた新たな大和(YAMATO)像を提示する点として別格であると言える。

 

【総論】

コロナ禍から2年たった今年度の映画祭は、映画祭のセレクションに変化があったのは確かだと思われる。実際、TIFFオープニングとエンディングは実に久々に外国語映画のみで構成され、新設されたガラ・セレクションではこれまでとは異なり、アピチャツポンの作品がTIFFに来るなど大きな変化が見られた。しかしその一方で、日本映画スプラッシュがなくなったことにより日本映画の軽視が見られたのは看過できない。また、場所の移動により特に読売ホール上映回のプレス席が少ないのは極めて問題である。

フィルメックスは総じて、ディレクター交替の年の一年目の年であったこともあり、なかなか課題が残るセレクションとなった。しかしこの課題は、来年以降いくらでも取り返せると信じている。コンペティション部門は新進気鋭の作家性を示す監督作品を集めることに今後とも注力していってもらいたいと思っている。ただIDパスホルダーの予約システムには是正が必要であると思わされる。

しかし何であれ、対面の映画祭を守るために今後何ができるかを考えていくのが我々の使命である。