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ベルリン国際映画祭2023+Cinéma du réel報告

2023年の映画祭シーズンもいよいよ1月下旬のロッテルダム国際映画祭からスタートした。その中で2月から3月にかけて、世界三大絵映画祭の一つであるベルリン国際映画祭及び、実験映画祭であるCinema du reelが開催された。本記事では二つの映画祭にオンラインで参加した文化サークル連合に所属する映画専門の記者による簡潔な報告をまとめていきたい。

 

ベルリン国際映画祭2023

ベルリン国際映画祭は2023年度は2月16日から27日まで開催され、延べ400本近い作品が上映された。その中で最高賞(金熊賞)を争う、コンペティション部門には21本の作品が集まり日本から新海誠監督『すずめの戸締り』が上映されたことは、日本国内でも話題になったと言える。しかしながら受賞結果を見てみると、「優れた映画」は物語に依存しない映像の芸術であることを審査員が示したものとなったといえるだろう。

 

例えば、銀熊賞審査員グランプリ)を受賞したクリスチャン・ペッツォルト『Afire』は自らの作品を制作するためにある田舎町のコテージにやってきた作家とカメラマンが、そこに住まう2人との関係を築きながらも山火事という大事件を媒介させながらあくまでも静かな断絶を経る過程を、過剰な物語性に依存することなく見事な映像を用いて描いた作品であったと言えよう。劇中で読まれるハイネのテクスト、火事による火(同性愛)と波が描き出す水(異性愛)という動と静の対峙が映画的なものをさらに盛り上げる点が極めて好感できるものであった。

 

そして何よりすぐれていた作品は、脚本賞にとどまったのが残念であったアンゲラ・シャーネレク『Music』であろう。オイディプス王を翻案したアンゲラ・シャーネレクの力量には圧倒される。コロナ禍の今、死が蔓延するこの世の中に向かって、拘置所からキッチンから森の中から「歌」の蜂起=抵抗の狼煙が沸き起こる。物語性を見事に排ししかしミニマルで有りながら、これらを包摂するリズムを作り出す躍動感ある演出こそ見事な大傑作であったと言えないだろうか。

 

故に、ヴィッキー・クリープスの演技だけでものを言わせたマルガレーテ・フォン・トロッタの作品の凡庸さや、9歳の子役の見事な演技をもって成り立つことしか言えない『20.000 especies de abejas』のもつ演技に依存する「物語の」空虚さが強調されてしまう。後者に関して言えば、昨年度の金熊賞を受賞したカルラ・シモン『アルカラス』しかり、スペインの農村/子供を軸とした映画には個性がなく、子供の作品と言えば『Totem』の方が秀逸であったといえるのではないだろうか。またアニメーション作品が、とりわけ物語に依存しているのも興味深い。その中で物語が歴史の修正に加担するという下劣さをまざまざと見せつけられたのが新海誠『Suzume(すずめの戸締り)』であった。この作品は東日本大震災を単なる消費の記号に貶めた卑劣極まりない作品である。地震を不可視とする事で、原発という真の人的災厄から目を背けさせようとする態度は、もはや資本の暴力がもたらすイメージの大虐殺に他ならない。

 

また映像重視においても留保しなければならない作品も存在していたことが挙げられる。それは、ジャコモ・アブラジーゼ『Disco Boy』の存在である。不法入国を目指す中で友人を失い、外人部隊での軍人採用によってフランスにアイデンティティを獲得しようとする男アレクセイと、ニジェール・デルタ植民地主義とのゲリラ闘争を行う男ジョモの物語を描きながら二人の交錯するさまを描くこの作品では、二人が戦闘するシーンでクリス・マルケルが『サン・ソレイユ』で呼称する「ゾーン」が使われることにより境界が薄まりなくなっていくという演出がなされる。しかし、あのような状況でアイデンティティを失わせる演出が果たして効果的であるかはやや不明と言わざるを得ない。むしろディスコの中でアイデンティティを失うというのはそれなりに面白く見たが...

 

Cinéma du réel 2023

コンペティション部門の報告ばかり書いていたので、Cinéma du reelの報告もかねてフォーラム部門の作品についての報告へと移っていきたい。まずその前に日本ではあまりなじみのないであろうCinéma du reelとは何かを簡単に説明したい。直訳すると「現実の映画」と訳されるこの映画祭は、パリの文化機関ポンピドゥー・センターが主催する実験系映画祭であり、主に実験映画、ドキュメンタリー映画を中心に世界中の作品からすぐれた作品を選ぶコンペ、フランスの作品のコンペ、特集上映とWIPから構成される映画祭である。今年は3月26日から4月2日に開催され、筆者はオンラインでほぼすべてのコンペ作品を試写で拝見する機会に恵まれた尚今年の特集は先日逝去したジャン=リュック・ゴダールと1968年にジガ=ヴェルトフ集団を結成したジャン=ピエール・ゴランについての特集であった。

この映画祭の傾向は近年ベルリン国際映画祭のフォーラム部門と類似している傾向があり(理由としてフォーラムは実験系映画の運営機関であるアーセナルが運営母体となるベルリナーレでも独立した立ち位置を持つからである)、フォーラム部門でワールドプレミアされた後に、cinéma du réelでフランス初上映となる作品も多からず存在する。以下、フォーラムとréelの両方で上映された二つのすぐれた作品を取り上げたい。

 

まずはやはり、大本命ジェームズ・ベニングの新作『Allenworth』に触れざるを得ない。ベニングは既に日本でも多くの作品が紹介され、吉田孝行の論考や実践創作によって認知度が高い映画作家である。アレンズワースというカリフォルニアの黒人コミュニティを舞台とした本作品は一か月ごとに映像が切り替わるという構成をとる。その中でコミュニティの軸となった建物の歴史的変遷をベニング特有の固定長回しのショットで浮かび上がらせる。『11×14』(先日建築映画祭2023で上映された)以来、ベニングの関心が向けられる都市、コミュニティ、建築物から歴史を静かに浮かび上がらせるという手法は本作品においても健在であり、また『RR』のように列車が運動の象徴となるのは本作品にも見事に継承されている(前作品『The United states of America』ではカーレースが特徴的だったが)。更に読み上げられるルシール・クリフトンのテクスト、ニーナ・シモン『Blackbird』も心にしみわたる。

 

次にクレール・シモン『Notre Corps』が素晴らしい作品であったことに触れておく必要があるだろう。『若き孤独』が山形国際ドキュメンタリー映画祭2021で上映されたシモンの新作は、パリ郊外の婦人科クリニックである。婦人科クリニックの診療の様子を舞台にした本作品は出産や癌治療、不妊治療と言った、(現代日本では特に)個人の問題に捨象されやすい問題を様々な対話を着実に積み重ねることで可視化し、女性の「身体」や生きることを描き考えることを目指す168分の大作であったと言える。被写体を被写体のままにしないためには、対話を引き出すことが必要なのでありシモンは忠実にしかし野心的にこの作業を積み重ねることで女性たちの生きていくための現実を顕現させる。エンディングで流れるカミーユTa douleur』もまさにテーマにふさわしい一品である。

 

最後にデボラ・ストラットマン『Last Things』は、実験映画そのものであるが、映画というのは実験から派生するということを改めて思い出させてくれる作品であった。生命の神秘、宇宙の巨大さを前にして映画は何ができるのか。その中でストラットマンは50分の本作品でその生に圧倒されるのではなくあえて付随することで映画が持つべき実験性を創造することに徹するという誠実さをもってこの問いに答えていたと言える。

 

最後にCinéma du réelのみで上映された作品から一作品を取り上げたい。常連のハインツ・エミグホルツの新作も素晴らしかったが今回最も素晴らしい作品であったと思わされたのがアラン・カサンダ『Coconut Head Generation』である。この作品はナイジェリアのイバダン大学で毎週木曜日開催されるシネクラブについてのドキュメンタリーであり映画が娯楽ではなく、政治的な手段であることを再確認させられる。シネクラブで上映される映画のテーマは多様であり、視点の交差性、脱植民地化、フェミニストの闘い、LGBTの闘い、少数民族、学生の権利、選挙などをテーマにした主にアフリカで制作された作品を鑑賞し、上映後に学生たちが映画を軸に議論を重ね政治性を高めていく過程が本作品では描かれる。その中で脱植民地化をテーマとした作品でクリス・マルケルアラン・レネが共作した『彫像もまた死す』が上映されていたことに驚愕した。活発な議論を通して学生たちは自分の位置を確認し、違いを主張し、一緒に考えることを学ぶ(ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが指摘するようなイメージの「位置取り」と類似したものであると言える)。そして現実と対峙する彼らは、実際の政治活動(デモ)にも参加することで映画と政治が交錯することに気づく。暴力や腐敗にほだされた世界を変革するのは、マルクス以降指摘されるような労働者、学生であることを映画は誠実に描き出す。「ココナッツヘッド世代(Coconut Head Generation)」に、ナイジェリア社会や世界と向き合う場を提供する映画のすごみを改めて感じさせる傑作であったと言える。

 

映画は社会と対峙するための芸術作品であることを、二つの映画祭は再確認させる良い機会であったと言える。しかし日本の映画業界を見てみるともはや物語るというコンテンツが重視され、映像で示す作家主義の抹殺が途方もないレベルで進行している。そんな中で今年は山形国際ドキュメンタリー映画祭が開催される。現実の芸術である映画の意義を再確認させるのは物語性ではなくフィクションからの逸脱であり、実験やドキュメントという「現実の映画」に回帰することではないだろうか。

(映画研究、表象文化論