オーストラリアが世界に誇るアニメーション・シネアスト、アダム・エリオット監督が、15年ぶりの長編作品『かたつむりのメモワール』を携えてアヌシーに帰還した――この知らせは、世界中のアニメーション愛好家たちに大きな喜びをもたらした。そして日本でも、2024年10月に開催された東京国際映画祭でのジャパン・プレミアを皮切りに、新潟国際アニメーション映画祭での上映と続き、全国公開前から大きな反響を呼んでいる。
アヌシー国際アニメーション映画祭で最高賞(クリスタル)に輝き、アカデミー賞長編アニメーション賞及びゴールデングローブ賞にもノミネートされた本作は、生きづらさを抱える人々への人生賛歌であると同時に、ストップモーション・アニメーションの鬼才として知られるエリオット監督の作風に、新たな変化を感じさせる作品でもある。本作の意義とは何か。そして、映画作家アダム・エリオットの美学とは何か。今回アニメーション研究者・浜渦理起氏を特別ゲストに迎え、エリオット監督にとって初の参加となる新潟国際アニメーション映画祭期間中に実現したインタビューの模様をお届けする。(註:編集部)
アダム・エリオット監督:オーストラリア、メルボルンを拠点に活動するアニメーター、ビジュアルアーティスト。短編『ハーヴィー・クランペット』(03)でアカデミー賞短編アニメーション映画賞を受賞したほか、全世界で100以上の受賞歴を持つ。その他の代表作に『メアリー&マックス』(09)がある。15年ぶりの長編となった最新作『かたつむりのメモワール』(24)は、アヌシー国際アニメーション映画祭でワールド・プレミア上映され、最高賞(クリスタル)を受賞。第97回アカデミー賞長編アニメーション映画賞ノミネート、第3回新潟国際アニメーション映画祭傾奇賞受賞など、世界各国で高い評価を得ている。

浜渦理起(聞き手):東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。学術修士(東京大学)。現在、同大学院博士課程在学中。東京大学SPRING GXプロジェクト生(2025―)。専門はアニメーション研究。スターリン期ソ連アニメーションを中心に、自然表象やナショナリズムに着目した研究を行っている。アニメーションというメディアの持つ多様性に強い関心を持ち、様々な映画祭、上映に足を運んでいる。
※以下、物語の内容についてのネタバレが一部含まれています。
インタビュー(太字部分がエリオット監督。以下:敬称略)
編集部:まず、この作品がどのようにして作られたのかについてお聞きしたいと思います。本作品がデビュー作『メアリー&マックス』から15年経ったということには、やはり長い年月の経過を感じさせられます。もちろんクレイ・アニメーションの制作には複雑な工程があることは重々承知していますが、なぜこれほど時間がかかったのか、制作に至る背景を教えてください。
→実は、脚本や予算の確保(ファイナンシング)自体はすでに準備できていました。かかっても3~4年だろうと思っていたのですが、最終的に8年という長い年月がかかってしまった背景には、コロナによるロックダウンという重大な障害を乗り越える必要があったからです。オーストラリアでは非常に長期間にわたってロックダウンが実施され、それが撮影開始を大きく妨げていました。先ほど申し上げたように、脚本も予算もロックダウン以前にすでに整っていたのですが……。
もう一つの理由としては、私自身が非常に遅筆だということもあります。この作品では、脚本を16回書き直しました。それだけ本作が非常に濃密で複雑だったということです。物語の構成(プロット)と語り口(ナラティブ)が非常に緊密に絡み合っており、その複雑さが執筆作業を遅らせる一因となっていました。執筆中は、常にバランスを意識していて、喜劇と悲劇、明るさと暗さのちょうどよい塩梅を見つけ出すのに時間がかかりました。もし純粋にコメディだけを書いていたらもっと早かったかもしれません。でも、私は明るさと同じくらい、暗さのある作品も好きなんです。
浜渦:視点の変化についてご質問させていただきます。エリオット監督のこれまでの作品では、映像に登場しないナレーターが語りを担うことが多かったように思います。しかし、『かたつむりのメモワール』では、物語が一貫してグレースによって語られており、どの視点から物語を語るかという点で、これまでの作品とは異なる変化が見受けられます。
また、タイトルにおいても変化が見られます。これまでの作品では、主人公の名前、あるいは『おじ』(1996)や『いとこ』(1998)など、特定の誰かを指すものが多かったように思いますが、本作のタイトルには「かたつむりのメモワール」とあり、「メモワール(回想録)」という言葉が用いられている点、そして「かたつむり」が「おじ」や「いとこ」といった直接的に人を指す言葉ではない点にも注目されます。こうした変化は、どのような理由によるものなのでしょうか。作品制作に対する姿勢やアプローチに、何らかの変化があったとお考えでしょうか。
→映画作家として心配なことのひとつに、「同じことを繰り返してしまわないか」という不安があります。決まった方程式に基づいて(画一的に)作品を制作することは、私は好んでいません。
その一方で、私の作品にはよく似た部分が存在しています。その一例として、主人公たちが社会的には「はみだしもの」、いわば負け犬のような存在であるという点が挙げられます。ナラティブにも、そうした側面が表れています。これまでの作品同様、今回の作品でもナレーションを用いています。ですが、自分自身の限界を超えていきたいとも思っていて、これまでとは異なるやり方を取りつつも、自分の美学やスタイル、手法は保っていたいと考えていました。
そういう意味で、今回は単なるヴォイス・オーヴァーを使うのではなく、主人公のメモワール(回想録)という形式を取ることでより親密になり、また主人公の立場に深く入り込めるのではないかと考えていました。この形式を通して、主人公の心の声を直接聴くことができますし、非常に詩的(ポエティック)であるがゆえに、人々の心に響くのではないかと思ったのです。

浜渦: 逆に、監督の作品群に共通するテーマについてお伺いさせてください。エリオット監督の作品には、本作『かたつむりのメモワール』におけるかたつむりをはじめとして、動物が頻繁に登場します。それは、単なるペットのような愛玩の対象としてだけではなく、本作のギルバートのように、ヴィーガンであったり、動物の解放を目指すような、動物と人間の関係性を批判的に問いかけるキャラクターをも描かれているように見受けられます。監督ご自身の、動物に対する思い入れというのは、どのようなものなのでしょうか。
また、映画史的に見ても、アニメーションには動物を描いた作品が非常に多いと思われますが、そうしたアニメーションの系譜との関係においても、本作における動物へのまなざしや思い入れは影響を受けているのでしょうか。
→自分の中でひとつのルールを決めているのですが、それは、動物が映画に登場しても決して人間の言葉をしゃべる設定にはしない、ということです。アニメーション作品では、動物が人間の言葉をしゃべる例があまりにも多いと感じており、人とは違う存在であること、新しさを観客に提供するという観点から、この約束を守るようにしています。
自分自身、成長する中でさまざまな動物を飼ってきました(亀、馬、モルモット、ウサギ、鳥、魚、ロブスター、トカゲ)。ただ、彼らとの死別は残念ながら避けられない運命にあります。どんなに一生懸命に飼育しても、思いもよらないアクシデントで亡くなってしまうことが多かったんです。そうしたこともあって、動物に対しては深い思い入れがあります。
実は、子どものころは獣医になりたいと思っていた時期もありました。でも、あまり成績が良くなかったこともあって、結果的にアニメーターになったという経緯があります。今でも動物は大好きで、現在は犬を飼っています。本当はもっとたくさんの動物を飼いたいのですが、住んでいる場所があまり広くないこともあって、今は犬だけを飼っています。
今はヴィーガンではありませんが、以前はヴィーガンだったことがあり、またいずれヴィーガンに戻りたいなとも考えています。そういった意味では、初期の作品において、たとえばハーヴィー・クランペットが、動物解放運動に参加する活動家であるという点にも、かつての自分が反映されていると思います。
浜渦:本との関係からご質問させてください。本作品では、ピンキーとグレースが出会う場面や最後の二人の再会のシークエンスなど、本がたくさん出てくる場面が多いと思います。特に、グレースたちの幼少期にはギルバートが(カタツムリの名前の元になる)シルヴィア・プラスや、サリンジャー、カフカなどを読んでいて、彼らがかなり文学らしい作品を読んでいるなと思いました。本作自体、何かしらの文学作品から影響を受けているのか、もし受けているとすればどのような作品であるかを教えてください。
→私自身、まず本を読むことが大好きなんです。そのことを踏まえたうえで、ご質問に二つの観点からお答えしたいと思います。
まず一つ目ですが、本作では、二人の父親であるパーシーが非常に読書家であるという設定があります。パーシーは二人に本を読むことを勧めていて、私自身がそう教えられたように、本を通して世界を知ることができると同時に、現在直面している悲惨な現実や問題から逃避することもできる、ということを父親から学ぶのです。つまり、痛みや苦しみ、トラウマから一時的に逃れるために本を読む、読むことを通じて心の問題に向き合う、ということですね。やがてグレースは、文学的な本よりも内容の浅いロマンス小説を読むようになり、そうした自分を恥ずかしく思ったりもします。ただ、最後のシークエンスで彼女が読んでいるのは『アンネの日記』(アンネ・フランク)なんです。対照的にギルバートの方は、かつてグレースが読んでいたような三文小説を読んでいる、という演出にしています。
二つ目は、キャラクターが読んでいる本が、それぞれの置かれた状況を反映するようなものになっているという点です。パーシーが読んでいるのはスタインベックの『怒りの葡萄』や『二十日鼠と人間』のように、苦境や闘争を映し出すような本です。グレースが読んでいるのは主に回顧録(メモワール)で、ギルバートが読んでいるのは『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング)のような「勇気」や「勇敢さ」に関連する本です。彼らは単に古典文学を読んでいるのではなく、キャラクターの内面や境遇を象徴している本を読んでいるのです。一つ付け加えると、現実には存在しない本も登場しています。たとえば、グレースが訪れる図書館にある本の中には、自分が創作した、ちょっとおかしなタイトルのものもあります。
編集部:本というメディアとの関係からのご質問が出ましたので、私からも、映画と言う観点からご質問させてください。この映画を観ると、オープニングが『デリカテッセン』(ジャン=ピエール・ジュネ)のオープニングシークエンスと類似しているように、映画からのオマージュがいくつか存在しているように見えます。その中で、フランス映画史という観点で、例えばルネ・クレールやジャン・ルノワールの映画群などを想起しました。あなたはパーシーの過去を表現する中で、パリのノスタルジアを描いています。その中で、例えば20世紀に開催されたパリ万国博覧会を連想させるような描写もありますが、こうしたものは念頭に入っていたのでしょうか?
→もちろん、私自身、パリが大好きで、これまでに何度もフランスを訪れています。また、ジャン=ピエール・ジュネ監督とは親しい友人で、私たちは似たような感性を共有していると思っています。たとえば、「過去」や「ノスタルジー」に対する愛着、現代にはもう存在しないような世界を舞台にした物語を描くことへの共通の情熱などです。
ただし、ひとつ気をつけているのは、特定の国を映画の中で描くときに、安易なステレオタイプに陥らないようにすることですね。どの国にも「らしさ」や「お決まりのイメージ」が存在していて、それがクリシェになってしまうことがある。実際、フランスを扱うにあたっても、「たとえば、マイム(パントマイム)を登場させるのはクリシェにならないか?」「ボーダー柄のシャツはどうか?」といった点について、ジャン=ピエールや他のフランス人の友人たちと多く議論しました。そうした表現が“いかにも”になってしまわないよう、とても慎重に考えたつもりです。
また、今回の映画でフランス的な要素を取り入れた理由のひとつに、出資者の中にフランスの会社があったという事情もあります。私の作品はフランスで特に好評をいただいているという背景もあり、パーシーというキャラクターをフランス人として描くのは自然な流れでもありました。

編集部: 映画における語りの技法に関してお尋ねします。本作では、ナレーション・テキストによる語りが一貫して過去形で構成されており、シネ・エッセイ(ドキュメンタリー映画の形式の一つ)の系譜を想起させるような、内省的かつ個人的な語りのスタイルが特徴的です。こうした語りの形式には、どのような意図が込められているのでしょうか。たとえば、従来の道徳的なストーリーテリングに対する批判的姿勢や、それとは異なる物語構造を志向する姿勢が背景にあったのでしょうか。
→私は過去形の語り方が好きなんです。というのも、フラッシュバックやバックストーリーといった手法を通して、登場人物の「過去」を細かいところまで描きたいと考えているからです。観客にキャラクターを好きになってもらうには、まずその人物を理解してもらい、共感してもらう必要があります。共感を引き出すには、観客がそのキャラクターを「身近に感じる」ことが大切で、そのためにはできるだけ多くの背景情報を伝える必要があると思うんです。ただ、それを退屈に感じさせず、魅力的に伝えるのはとても難しい作業でもあります。
たとえば今回の映画では、ピンキーというキャラクターを観客に強く印象づけ、好きになってもらいたいと思っていました。彼女をとても魅力的で面白く、そして愛おしい存在にするために、10分ほどのセグメントを使って過去のエピソードを盛り込みました。たとえば、フィデル・カストロと卓球をしたり、ジョン・デンバーとヘリコプターの中で恋に落ちたりといった、ちょっと突飛でユーモラスなエピソードを通じて、彼女の魅力を伝えようとしたんです。そうしたエピソードも、ただの情報ではなく、観客を楽しませるものでなければならなかったんです。
構成面でも、本作では過去・現在・未来という時間軸を行き来するような語りを採用しています。物語は現在から始まり、そこから過去に遡り、再び現在に戻って、やがて未来へと向かう――という流れです。こうした構成は、たとえば(エルトン・ジョンを描いた)『ロケット・マン』(デクスター・フレッチャー監督)や、ジェフリー・ラッシュが主演した『シャイン』(スコット・ヒックス監督)などにも見られるもので、時系列を直線的に追うのではなく、よりダイナミックな語りを目指しました。私自身、これまでの作品では比較的直線系で時系列通りの構成が多かったのですが、今回は少し違ったスタイルに挑戦してみたかったんです。とはいえ、時間軸を飛び越える構成にはリスクもあって、観客を混乱させてしまう可能性もあります。そのため、脚本を書く際にはその点にも細心の注意を払いながら、何度も練り直しました。こうした複雑な構成が、脚本の執筆に長い時間がかかる理由のひとつでもあります。
編集部:名残惜しいのですが、最後に、今、映画やアニメーションを作ろうと志している若者や学生たちに、何かアドバイスをいただけるとありがたいです。
→なんとアドバイスすればいいか難しいのですが、30年やってきて思うのは――結局「すべては「脚本」である」に本当に尽きると思います。映画学校に入った初日、アニメーションの先生が言ったんです。「観客は、音楽が多少ダメでも、編集が雑でも、演技が微妙でも、撮影がイマイチでも許してくれる。でも、脚本がダメな映画だけは絶対に許さない」って。もう、その言葉がずっと残ってるんです。
つまり、映画は何より「脚本」なんです。で、面白いことに、脚本って映画制作の中で一番コストがかからない工程なんです。もちろん時間はかかるけど、基本的に自分とノートパソコン(あるいは紙とペン)さえあれば始められる。だから私は、時間をかけて脚本を書くことをとても大事にしています。とにかくストーリーを、できる限り練って、磨き上げる。とはいえ、完璧な脚本なんて永遠に書けません。そんなものは存在しない。でも私は、たくさん本を読んできたし、映画も観ています。アニメーションは実はあまり観ないんですが、ドキュメンタリーはたくさん観ます。リアルな人生、リアルな語り方は、フィクションよりもずっと面白かったりする。まさに「事実は小説より奇なり」ですね。
それから、古典的な作品――映画も文学も――を観て、読んで、学ぶこと。私は何度も(スタンリー・)キューブリックを観返してます。『時計じかけのオレンジ』も『2001年宇宙の旅』も。あと(マーティン・)スコセッシとか、いわゆる映画界の巨匠たちですね。「彼らはなぜ成功したんだろう? 何が違うんだろう? 秘訣ってあるのかな?」って考える。でも、結局のところ“秘訣”なんてない。ただひたすら努力して、何度も脚本を書いて、試して、失敗して――その繰り返しです。
不思議なもので、私は今53歳なんですが、会計をうまくやることには自信を持っています。でも、脚本家としては、いまだに「自信がある」とは言えない。むしろ、自信を持ちすぎたときにうまくいかなくなるって感覚があります。だからこそ、謙虚でいないといけないし、脚本っていうのは一生かけても完璧になんてできない芸術だってことを理解して、学び続けるしかない。でも、その中で、観る人の心に届く映画、共感される物語が生まれる可能性はあるんです。さっきも言ったように、すべては「共感」なんです。観客がキャラクターに感情移入してくれたら、それだけで物語の半分は成功してるって言えるんじゃないかな、と思います。
最後に大変すばらしいアドバイスをいただき、本当にありがとうございました。
※謝辞:インタビューに際し、NIAFF(新潟国際アニメーション映画祭)の多大な協力を得たことに関して、この場をお借りして深く御礼申し上げます。(編集部)
(2025年3月19日 新潟国際アニメーション映画祭:新潟市民プラザにて)
通訳:長谷川博美
構成:小城大知(映画研究・表象文化論)
記事特別協力:原田遠(美術史・表象文化論)
『かたつむりのメモワール』6月27日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネマート新宿 ほか全国順次公開
<STORY>
1970年代のオーストラリア。グレースは、父と双生児の弟ギルバートと一緒に暮らしていたが、父が亡くなり、弟は遠くに引き取られて、ひとりぼっちに。彼女は、かたつむりの収集と、弟との文通を心の拠りどころに孤独な日々を送っていたが、ある日、陽気な老女ピンキーと出会い、友人になっていく。
<STAFF&CAST>
監督・脚本:アダム・エリオット 声の出演:サラ・スヌーク(グレース)、コディ・スミット=マクフィー(ギルバート)、ジャッキー・ウィーバー(ピンキー)、ドミニク・ピノン(パーシー)、エリック・バナ(ジェームズ判事)、ニック・ケイヴ(ビル)
配給:トランスフォーマー