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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

『シラート』公開記念:オリベル・ラシェ監督インタビュー

ガリシア出身の鬼才オリベル・ラシェが手がけた最新作『シラート』が、6月5日に全国公開される。2025年・第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、審査員賞を含む4冠を獲得、第98回アカデミー賞では国際長編映画賞および音響賞にノミネートされるなど、世界的に高い評価を受けている。

『シラート』(6月5日全国公開) (© 2025 LOS DESERTORES FILMS, A.I.E., TELEFÓNICA AUDIOVISUAL DIGITAL, S.L.U.,FILMES DA ERMIDA, S.L., EL DESEO DA, S.L.U., URI FILMS, S.L.,4A4 PRODUCTIONS)

 

本作は、失踪した娘を捜す父と息子の旅と、砂漠で繰り広げられるレイブパーティの狂騒とを交錯させながら、暴力、抵抗、そして生のあり方を描き出すロードムービーだ。タイトルの「シラート」は、アラビア語で「道」を意味し、宗教的には審判の日に天国と地獄の上に架けられる橋を指す。本作においてもその語は、死と再生、崩壊と跳躍という主題と深く結びついている。レイヴにおける身体の運動と、娘を追い求める父の孤独な彷徨はやがて交差し、一つの極限的な映画的体験へと収斂していく。東京国際映画祭ガラ・セレクション部門での日本初上映時に合わせて来日したラシェ監督に、本作に込めた思想と演出について話を聞いた。(註:編集部)

 

※本記事には、結末部分に触れたネタバレが存在します。

 

-まず、本作を制作するに至った原動力について伺いたく思います。

24歳でモロッコに行ったとき、自分の中に恐れや執着があることに気づきました。この土地では、誰かが亡くなったときや、作物がうまく育たなかったとき、あるいは疫病が発生したときなど、繰り返し口にされる言葉があります。アラビア語で「我々は神から来て、神のもとへ帰る」という意味の言葉です。それは、死に直面したときに人々を落ち着かせるための言葉であり、私たちがある意味で永遠の存在であることを理解するためのものでもあります。
人生とは、海の中にいる魚が一度水面から跳ねて空中に出て、再び海へ戻るようなものです。私の芸術的な実践は、まさにその方向へと向かってきました。そして『シラート』もまた、死を「敵」ではなく、「跳躍台(トランポリン)」として引き受けることを目指した作品です。それは苦い薬ですが、自由に生きるための基盤として必要なものだと考えています。

 

-本作では、第一に「音」が重要な役割を果たしています。こうしたサウンドクリエーションに至った背景について、教えてください。

この作品の制作は、まず「踊ること」から始まりました。レイヴのダンスフロアで踊り、目を閉じながらイメージを思い描き、それを発展させていったのです。私は、電子音楽を非常に幅広く聴いていました。音楽は、このプロジェクトの出発点そのものです。
脚本を書くときも、多くの音楽的参照を取り入れています。私は音楽家でもあるため、脚本の書き方は非常に「雰囲気的(アトモスフェリック)」で、そのスタイルは音楽に近いものです。ですから、私は「作曲家」ではなく「ミュージシャン」を求めました。作曲家は物語に適応しすぎてしまうからです。音楽と音は融合するべきであり、一方が他方に従属するべきものではありませんからね。

 

-名俳優セルジ・ロペスの演技も印象的です。

当初は、すべての出演者を素人の俳優たちにしたいと考えていました。私は人間そのものが好きであり、カメラの前での彼らの脆さに強く惹かれています。その脆さは非常に強いエネルギーを持っているからです。しかし、この作品は大規模なもので困難も伴うものだったため、プロの俳優も必要でした。そこでセルジ・ロペスを起用したのです。彼は非常に寛大で謙虚な人物であり、ラヴァー(レイヴの参加者)たちに対して深い敬意と愛情を持っていました。彼自身も、彼らと同じ「真実性」に到達するために努力しなければならなかったのです。ですから、全員が互いに学び合いました。また、彼らには私の家で共に過ごしてもらうことで、関係性を築いていきました。

 

-ラシェ監督の過去の作品と比較すると、本作は2015年の作品である『ミモーサス』(« Mimosas »)と類似点を感じさせられます。

まさにその通りです。『ミモーサス』を撮っていたとき、本当は『シラート』を作りたかったのです。その当時は、「死」と「永遠への跳躍」をめぐる映画作品として構想していました。しかし当時は資金も時間も限られており、技術的にもまだ成熟していませんでした。そうした制約のなかで完成したのが『ミモーサス』でした。その意味で、『シラート』は長年抱いてきた構想に、ようやく正面から取り組んだ作品だと言えるでしょう。自分が本当に作りたかった映画に、ようやく近づくことができたと感じています。私の長編第一作が公開されたのは2010年ですので、そこからすでに15年が経ちました。初めて自分の映画(註:『皆はキャプテンだ』« Todos vós sodes capitáns »)がカンヌに出品されたときの出来事は、いまでも強く印象に残っています。
振り返ってみると、自分の歩みは常に時代に逆らうようなものだったかもしれません。とりわけスペインにおいては、主流から外れた方向に進んできたという実感もありました。しかし今は違います。「いま、風が自分の帆を押してくれている(Y ahora el viento sopla mis velas)」という感覚がある。だからこそ、これからはより自由に、自分が本当に望む映画を作ることができると思っています。とはいえ、変化させていない部分もあり、その一例として、本作も16ミリフィルムで撮影されていることが挙げられます。

 

-本作は「旅」や「冒険」の映画としても捉えられると思います。とりわけラストシーンは、とても印象的です。さまざまな人々が列車に乗り込みながら、どこへ向かうのか分からないまま進んでいく。あの列車のイメージには、どのような意味が込められているのでしょうか。(王宏斌氏(映画研究者、ジャーナリスト)より質問)

登場人物たちは、自分たちがどこへ向かうのか分かっていません。それでも前へ進み続け決して諦めることはないのです。この場面は、観る人それぞれが自由に解釈すべきものだと思います。ただ、私自身はあの列車の中に「静けさ」を感じています。そこには、自らの運命を受け入れながら前へ進んでいくという、ある種の誠実さがあるからです。登場人物たちは皆、自分の内面と向き合い、その結果として、何らか変化しているのです。今、この場所をあの列車が通るならば、私もきっと乗るでしょう。

 

-最後に観客に向けたメッセージをお願いします。

観客のみなさんには、この映画に身を委ねてほしいと思っています。頭の中で鳴り続ける「雑音」を少し静め、自分の感受性を信じてほしいのです。理屈ではなく、「身体で」映画を観てほしい。私は観客を強く信頼してこの映画を作りました。シネフィルに限らず、すべての観客を信じています。そして、この作品は映画館で観るべきです。映画館は「寺院」のようなものであり、守らなければならない場所だからです。

(2025年10月30日、セルバンテス文化センターにて。
取材・文/小城大知、取材協力/王宏斌、通訳/比嘉世津子)

 

 

監督:オリベル・ラシェ

製作総指揮:エステル・ガルシア

製作:ペドロ・アルモドバル

脚本:オリベル・ラシェ、サンティアゴ・フィジョル

撮影監督:マウロ・エルセ

編集:クリストバル・フェルナンデス

美術:ライア・アテカ 

音楽:カンディング・レイ(デヴィッド・ルテリエ)

出演:セルジ・ロペス、ブルーノ・ヌニェス・アルホナ ほか

2025年/スペイン・フランス合作/スペイン語・フランス語・英語・アラビア語/115分/ビスタ/カラー/5.1ch/日本語字幕:杉田洋子/PG12

 

日本公開:2026年6月5日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラスト有楽町、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほかにてロードショー

配給:トランスフォーマー

後援:セルバンテス文化センター、スペイン大使館

 

© 2025 LOS DESERTORES FILMS, A.I.E., TELEFÓNICA

AUDIOVISUAL DIGITAL, S.L.U.,FILMES DA ERMIDA, S.L., EL DESEO DA, S.L.U., URI FILMS, S.L.,4A4 PRODUCTIONS

第79回カンヌ国際映画祭:Béranger Thouin『黄金時代(L‘age d‘or)』インタビュー

カンヌ国際映画祭クラシックス部門で上映された、ベランジェ―ル・トゥアン(Béranger Thouin)監督の初長編作品『黄金時代(L‘age d‘or)』はルイス・ブニュエルによる同名の作品と名前を共有しながら、アーカイブ映像とフィクションの融合、歴史上の人物の脱構築、そして映画史の再考とその栄誉への賛辞という大きな射程を持つ作品である。本作を制作した経緯について、監督を務めたトゥアンにカンヌで話を聞くことができた。

 

――ルイス・ブニュエルの1930年のシュルレアリスム映画『黄金時代』と同じタイトルを掲げた長編デビュー作ですが、この映画を作ろうと思った経緯と、タイトルに込めた意味を教えてください。

まず最初にあったのは、主人公の存在でした。複雑さを抱えた女性のヒロイン、ある種の冒険者を、とてもロマン的で小説的なかたちで描きたいと思ったんです。そこにアーカイブ映像が加わることで、彼女の旅に歴史的な背景を与え、小さなひとりの人物が巨大な20世紀の渦の中を進んでいく感覚を強めていきました。
タイトルについては、二つのスケールを同時に扱いたかったんです。一つは20世紀そのものという歴史的スケール。小さな村から始まり、最後は近代性の象徴であるオルリー空港へ至る。そのあいだに戦争や近代化など、20世紀のあらゆる出来事が横断されていくわけですが、そこには少しアイロニカルな感覚もあります。
そしてもう一つは、ジャンヌという個人の親密なスケールです。彼女はただ、自分の居場所や家族を探しているだけで、自分が通り抜けている「大きな歴史」そのものには、必ずしも自覚的ではありません。

 

――ギヨーム・ド・バラントという人物がとても印象的です。彼は実際の歴史上の人物像としてのギヨームをもとにしているのでしょうか。それとも寓話的な存在なのでしょうか。ジャンヌにとって彼はどのような役割を果たしていますか。

彼は完全に「アーキタイプ(原型)」として存在しています。映画はほとんど19世紀の終わりから始まります。そこには農民と貴族という旧来の社会秩序がまだ残っている。そしてヨーロッパでは、その時代を境に貴族階級が衰退し、かわって近代性やブルジョワジー、企業家たちの時代が到来していきます。つまり彼は、そうした歴史的移行を体現する人物なんです。ヨーロッパにおける貴族制の崩壊と、ブルジョワ社会の到来。その変化を象徴する存在として置かれています。

 

――この映画は、不可能な愛、政治的対立、かつての敵との協力など、多層的な物語が次々と現れ、小説的ともいえる飛躍を見せます。ジャンヌという架空のヒロインの人生を、どのように20世紀の歴史の中に構築していったのでしょうか。

ジャンヌ自身は、もともと何かを望んでいた人物ではありません。田舎の少女として、「自分に期待されている人生」を生きようとしていただけなんです。しかしギヨームとの出会いによって、彼女は突然、自分を超える大きな流れの中へ投げ込まれていく。そこで彼女は、自分自身の欲望や生き方を探そうとするのですが、経済的条件や、女性であること、社会的制約、そして20世紀そのものの激動によって常に妨げられてしまう。それでも彼女は、その巨大な歴史の渦の中でも、自分自身の場所を見つけようともがき続けているのです。

Béranger Thouin『黄金時代(L‘age d‘or)』

――現代の俳優たちと、およそ100年前のアーカイブ映像が融合している点が非常に印象的でした。忘れられた記録映像が、まるで新しいフィクションの運命へと組み替えられているようにも感じます。この企画は最初からアーカイブを元にした映画として構想されたのでしょうか。それとも、フィクション映画として始まり、徐々に歴史映像を組み合わせていったのでしょうか。

この映画は、最初から完全なフィクション映画として考えていました。すべては編集(モンタージュ)の原理に基づいています。アーカイブ映像もさまざまな出典から集められていますが、重要なのは、それらを使ってフィクションを構築することでした。アーカイブを扱うことで、映画は断片的な形式を獲得し、編集によって成立する映画になっていった。映画の「書き方」そのものが編集作業の中にあったんです。あらゆる断片を編集によって組み合わせ、再構築していく。ある意味では通常とは逆で、まず編集とアーカイブ作業から始まり、その後に俳優たちの撮影へ進んでいきました。

Béranger Thouin『黄金時代(L‘age d‘or)』

――作品を見ながら、ニコル・ヴェドレスの『パリ1900年(Paris 1900)』のように、アーカイブ映像を再構成して新しい歴史的想像力を生み出す映画を思い出しました。より広い意味でのアーカイブ映画の系譜を参照されたりしたのでしょうか。

はい、もちろんです。『Paris 1900』や、アラン・レネ、クリス・マルケルの作品などを参考にしています。実際、映画がオルリー空港で終わるのも、マルケルの作品へのオマージュ(註:『ラ・ジュテ』)になっています。私たちは、アーカイブ映像を扱う映画的伝統の中に自分たちを位置づけたいと思っていました。ただ、私たちの映画における大きな違いは、アーカイブを「純粋なフィクション」として扱ったことにあります。単なる歴史的再現ではなく、アーカイブ映像の内部に完全なフィクションの物語を流し込みたかった。その点で、従来のアーカイブ映画とは異なるやり方を目指していました。

 

――最後に、次回作について、すでにアイデアなどはありますか。

まだありません。この映画を完成させたのが本当に先週なので、次回作について考える時間はまったくありませんでした。ただ、この映画が日本で上映され、日本の配給会社に届いてくれたら嬉しいですね。

 

(2026年5月16日、カンヌにて 聞き手・構成:小城大知)

『急に具合が悪くなる』(第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門)短評

第79回カンヌ国際映画祭が、5月12日から開幕した。本記事は、コンペティション部門作品の一つ『急に具合が悪くなる』(濱口竜介監督)に関する短評をお届けする。

 

 書くこと、話すこと、演じること――映画の中へ身体(からだ)を適切になじませること。本作は、磯野眞穂と宮野真生子の同名の往復書簡を原作としている。2019年4月から、宮野が亡くなる同年7月まで、生と死、病のリスク管理、偶然の出逢いを通じて他者と関わることなど、多様な主題について交わされたこの書簡は、宮野の死後に刊行された。宮野は亡くなる8年前から癌を患い、長い闘病生活の只中にあった。その思索の軌跡を、ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒の二人を主演に据え、映画として結晶化させたのが本作である。

『急に具合が悪くなる』(© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners)



 同じ名前――Mari=Marie-Lou――を持つ二人の女性は、ともに身体をめぐる不安定さと向き合わざるを得ない。Mariは、進行癌によって余命を宣告されながらも、フランコ・バザーリアの精神を解き放つ旅を描いた一人芝居を演出する。精神病院の廃絶に人生を賭けたバザーリアの思想をめぐるその舞台は、長塚京三が一人芝居を担い、さらに黒崎煌大が、パフォーマンスと身体の関係性そのものを脱構築するように介入することで、演劇という形式を鮮やかに更新している。一方のMarie-Louは、母の喪失という根源的なトラウマを抱えながら、「ユマニチュード(Humanitude)」を実践するケア施設の運営に苦闘している。

 


 偶然の出会いを契機に、二人は日本語とフランス語を交錯させながら対話を重ねていく。重要なのは、途中から演出そのものが、このディスコミュニケーションの持続へと執拗に向かっていくことである。川辺で、部屋の片隅で、彼女たちは議論し、(マルクス主義の言うところの)交通関係の可能性を夢見ながらも、決して回収されることのない差異と向き合い続ける。フランスから日本へ、日本から再びフランスへ――その移動の軌跡の中で、本作は「互いをケアすること」という一貫した主題を静かに抱え込み続けている。

 この映画の最大の発見は、濱口竜介が本来的にはドキュメンタリー映画からフィルモグラフィーを発展させた作家であることを、改めて強く思い出させる点にあるだろう。「ケア」の映画という系譜は、フレデリック・ワイズマンやニコラ・フィリベールをはじめとして枚挙に暇がない。日本においても、羽田澄子や柳澤寿男、時枝俊江らによって、豊かな実践が積み重ねられてきた。とりわけ時枝俊江の『病院はきらいだ』(1991)は、濱口が本作で到達しようとしている地点を、すでにドキュメンタリーという形式の中で先駆的に切り開いていた作品であると言えるだろう。濱口がこれらの作品群を直接参照しているかは定かではない。しかし、「ケア」と映画の関係性を、身体と発話のさらなる純化によって押し広げることで、本作はこの系譜の最前線に屹立している。

 そして、この実践に決定的な役割を果たしているのが、黒崎という俳優の存在である。彼の身体は、この映画に宿る一種のハプニング性そのものに呼応している。彼の運動は、二人の〈マリ〉を出会わせ、患者たちから失われた力を呼び戻し、そして最後には、「真理」に対して、彼女が追い求めていた生のイメージをもぎ取ることを可能にしているのだ。上演後のトークショーにおける二人のマリー=真理によるParole(長塚はそこに、一切の通訳を拒絶すべきであるという意志を意図的に刻み込んでいる)は黒崎の運動に鋭く呼応している。本作は、その移行の瞬間を極めて繊細に、しかし確固たる意志をもって映し出していく。ここで描かれているのは、単なる「他者理解」ではない。むしろ、決して理解し尽くすことのできない他者と、それでもなお共に生きるための技法である。ケアとは、傷ついた身体を保護する制度的実践である以前に、他者の不透明性を受け入れる倫理的態度として提示されているのだ。



『急に具合が悪くなる』(© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners)


 だからこそ、本作において繰り返し現れる「話す」という行為は、情報伝達としてのコミュニケーションであること以上に、身体そのものを社会へと開いていく運動として機能しているのだろう。濱口はここで、言葉を透明化することを拒否している。むしろ発話の途切れ、沈黙、誤配、そして翻訳不可能性そのものを映画の内部へ留め置くことで、人間同士が共に存在することの根源的な困難を可視化しようとしているのである。そしてその困難のただ中において、身体は初めて「生きられるもの」として立ち上がる。本作が見据えているのは、個人の内面を越え、ケアと対話によって辛うじて編み直されていく共同体の可能性なのである。

 

(小城大知:映画研究、表象文化論)

入学おめでとうございます!(2026年度、文化サークル連合より新入生に向けたご挨拶)

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!

 いまあらゆる人が、戦争にいかなる立場をとるのかが問われる時代になりました。ウクライナの戦争は5年目に入り、イスラエルによるパレスチナ・ガザへの虐殺の継続、そしてベネズエラ政権の転覆、イランへの爆撃、さらにキューバへと世界全土を巻き込んだ戦争に拡大し続けています。そして、日本の高市政権の誕生、アメリカのトランプ政権の暴走により、日本も中国との戦争に向かって、(石油をはじめとする)ますます激しい物価高とインフレで苦しむ人々を怒りを横目に軍拡を行い、(健軍駐屯地への長射程ミサイルの配備に見られるように)自治体や農業、教育といった社会全体を戦争に動員できる体制まで構築されようとしています。こうした戦争・戦争政策と無関係な人はだれ一人としていません。

 多くの先輩方が、朝鮮戦争ベトナム戦争イラク戦争といった戦争に反対してきたように、私たちもこうした歴史的な戦争に立ち向かうべきときが来ています。

 戦争に反対することは、戦争を必要とする社会を変えるための取り組みでもあります。被爆地・広島から私たちが戦争に対してどういう立場をとるのか、どのような社会を展望し、行動していくかが、これからの社会を変え、歴史を変えていく—―ひとりひとりがそういう大きな存在なのだということを確認したいと思います。

 そうした皆さんとともに活動し、苦楽をともにできれば幸いです。

文化サークル棟内に描かれた壁画。先輩方が描いたものだろう。名前は不明。



現在、文化サークル連合に加盟しているサークルは

 です。気になるサークルがあれば、ぜひ気軽に連絡してみて下さい!
(※映研以外のサークルに関して、連絡が取れなかった場合は、映研にお気軽にお問い合わせください。対応いたします)

 また、もし自分で新しいサークルをつくってみたい、という方がいれば、文サ連に連絡していただければ、全力でサポートしていきたいと思います。

 私たちは、皆さんの情熱が何かに抑圧されることなく体現されるよう、何かを恐れずとりくめるような環境をつくっていけるよう努力していきたいと思います。何かあれば、ぜひお気軽にご連絡ください!

NIAFF2026:映画祭の転換を考える

 第4回目を迎えた新潟国際アニメーション映画祭(NIAFF)が、2026年2月20日から25日まで開催された。これまで「アジア最大の長編アニメーション映画祭」という明確な旗印を掲げてきた同映画祭にとって、本年はその理念と体制の双方において大きな転機となる年であったと言えるだろう。

 まず特筆すべきは、プログラム体制の変更である。第3回までプログラム・ディレクターを務めてきた数土直志氏に代わり、北條誠人氏(ユーロスペース)をはじめとする4名による共同プログラム・ディレクター体制へと移行した。さらに、日本のアニメーション映画祭には欠かせない存在となっているNEWDEERの土居伸彰氏がジェネラル・アドバイザーとして関与する新体制が敷かれた。個のキュレーションから分業的な編成への転換は、作品選定の幅を広げる新たな可能性を開拓する一方で、後述するように映画祭の美学や方向性をいかに担保するかという課題もまた生まれた形となった。

 加えて、2025年6月には、NIAFF開催の立役者であり実行委員長であった堀越謙三氏(ユーロスペース会長)が逝去した。長年にわたり日本のミニシアター文化を牽引してきた存在の不在は、本映画祭において単なる人事上の空白にとどまらなかった。映画祭の理念そのものを支えてきた精神的支柱を失ったことは、開催継続の是非を含め、実行委員会の再編を迫る重大な局面でもあった。

 こうした状況のもと、本年のNIAFFは従来の「長編特化」路線からの部分的転換を余儀なくされる。新設された「Indie BOX」部門(15分以上40分以内の中編作品)は、その象徴的な試みである。これまでアヌシー国際アニメーション映画祭を中心とする国際的潮流(つまるところ比較的商業的志向の強い長編作品)を射程に収めてきたプログラム構成から、より新人発掘の色彩を強めるコンペティションへと重心が移動した。
 結果として、Indie BOXは優れた作品の紹介という点で一定の成果を挙げたと言える。しかしその一方で、「長編アニメーションに特化する映画祭」という新潟独自のアイデンティティはやや希薄化した印象も否めない。実際、長編部門7作品においてジャパン・プレミアの比率が半数を下回るなど、プレミアの集積地としての訴求力に陰りも見えるように思われた。
 さらに、Indie BOX部門の創設は、新潟国際アニメーション映画祭の射程を拡張する試みであると同時に、その位置取りをより複雑なものにしている。とりわけ、短編コンペティションを主軸とする新千歳空港国際アニメーション映画祭やひろしまアニメーションシーズンとの差別化は避けて通れない問題である。これまで新潟は「長編特化」という明確な理念によって既存のアニメーション映画祭との差異を保ってきた。しかし、40分以内の中編を射程に含むIndie BOXの新設は、プログラム上の重心を分散させる契機ともなりうる。結果として、短編というフォーマットを中心に据える映画祭との棲み分けは、単なる上映時間の違いではなく、キュレーションの思想や発掘の方向性、さらには観客層の設定において再定義されなければならない。すなわち今後の新潟には、長編と中編をいかに有機的に接続しうるのか、あるいは「長編映画祭」であることの意味をどのように更新しうるのかという問いが突きつけられている。Indie BOXの創設は可能性であると同時に、他都市の映画祭との差別化を改めて構想し直す契機ともなったのである。

 長編に特化するというコンセプトから、多層的な発掘型フェスティバルへ。その移行は、危機への対応であると同時に、新潟という土地におけるアニメーション文化の再定義でもある。本稿では、こうした構造的変化を踏まえつつ、本年のコンペティション作品を具体的に検討していきたい。

・長編コンペティション部門

 多層的な発掘型フェスティバルへの転換を寿ぐ長編コンペ作品として、まず挙げるべきは『アニマノマリー オブザーブ|アブゾーブ|オベイ』(ホルヘ・エンリケ・バルデオン・トリアナ)である。本作は、長編でありながら、2022年から2025年の3年間にわたって監督自身が制作した7本の短編によって構成されたオムニバス形式の作品である。一本の長編を作り上げる制作手法にとらわれることのなく、断続的な制作の集積が結果として長編へと組み上げられている点に、本作のインディペンデントなあり方の意義が存在していると言えるだろう。

 物語は、ハイテクな拘留施設に捕らわれた異星人の存在を軸に展開する。彼は高度な監視・管理システムのもとで拘束され、その意識は次第に施設のネットワークと融合していく。機械から次々と送信される映像によって精神は侵食され、やがて主体と装置の境界は曖昧化する。七つの断片的なエピソードは、それぞれ異なる次元・視座から語られ、直線的な物語進行を拒む。

 

『アニマノマリー オブザーブ|アブゾーブ|オベイ』(ホルヘ・エンリケ・バルデオン・トリアナ監督)


 異星人のこうした「デジタルな悪夢」をモチーフに、生と死は等価のレベルへと引き下ろされる。そこでは、人類という種もまた「動物」の一形態にすぎず、その愚かな歴史は宇宙的スケールの俯瞰のもとに相対化される。オムニバス的構成は、監視社会、テクノロジーへの隷属、そして暴力的なイメージの氾濫という現代的状況を反映しつつ、3Dアニメーションという形式の可塑性を最大限に活かしている。長編というフォーマットを保持しながら、短編の集合体として再定義する本作の在り方は、まさにIndie BOX創設以後の新潟の方向性としての長さではなく生成過程や作家性に重心を置く姿勢と響き合う。長編特化の理念を単純に放棄するのではなく、長編の概念そのものを内部から拡張する試みとして、本作は本年のコンペを象徴する一本であったと言えるだろう。

 他方で、新潟がこれまで掲げてきた「長編」というフォーマットの強度に陰りが見えることも否定できない。その一例として挙げられるのが『ジュリエット&ザ・キング』(アシュカーン・ラハゴザール)である。物語は、イラン国王がフランスを公式訪問し、パリで『ロミオとジュリエット』の舞台を観劇することから始まる。主演女優ジュリーに興味を抱いた国王は、テヘランでも同作を上演してほしいと依頼する。ジュリーは友人ジャマルの助けを借り、その千載一遇の機会を引き受ける。しかし、イスラム国家における女性表象や舞台芸術をめぐる規制の壁に直面し、「女性は演劇に出てはならない」という抑圧と対峙せざるをえなくなる。

 

『ジュリエット&ザ・キング』(アシュカーン・ラハゴザール監督)


 パリという(形式的であれ)演劇の象徴と、テヘランという宗教的規範の強い空間。その対位法のなかで、古典悲劇『ロミオとジュリエット』が異文化間の政治的寓話が描かれているように思われる。一方で、本作は、ヨーロッパの植民地主義への批判が欠落していることに加え、イランという国家が抱える社会的・政治的緊張をコミカルな筆致で描写することに終始し、その諷刺性はしばしば緊張を欠く。抑圧の構造は物語の持つ課題として提示されるものの、演出は総じて楽観的で、政治的対立は軽やかに解消へと向かう。結果として、喜劇的軽快さが順当に批評性を希薄化し、歴史的・政治的現実の重みを引き受ける作業が後景へ退く(監督自らが、この国の病理が持つ深い悲しみを抱えていることを鑑みるならば(しかもこれは来日が叶わなかった理由でもある)、なおさら勿体なさを感じてしまうのだ)。

 長編アニメーションとしてのスケールを備えながらも、その批評的射程は意外なほど穏当である。このことが、「長編特化」という形で特異な位置づけを持ち続けてきた新潟の現在地を逆照射する。本作は決して完成度の低い作品ではない。だが、多層的な発掘型フェスティバルへと転換しつつある本年度の新潟の文脈においては、むしろその穏当さが、かつての「長編特化」というアイデンティティの揺らぎを浮かび上がらせている。


・Indie Box部門

 新設されたIndie BOX部門は、15分以上40分未満の作品10本を2プログラムに分けて上映するという構成をとった。形式上は「中編」枠でありながら、その実質は短編と長編の間にある可能性を開拓する試みである。
蓋を開けてみれば、「Indie」という呼称がむしろ控えめに感じられるほど、海外作家による充実した作品群が揃っていた。そうした意味でも、本部門は取り急ぎ第一次的な目的を果たしたと言えるだろう。

『クマと鳥』(マリー・コドリー監督)


 たとえば、テオドール・ウシェフの『愚者との生活』は、アルフレッド・シュニトケのオペラを大胆に翻案し、線画を基調としながら意図的にぼかしや抽象化を導入することで、音楽の不協和と視覚的エクリチュールを拮抗させる。物語を語るというより、描線そのものが思考する。ベテランならではの緊張感が画面を支配していた。

 ナタリア・ミルゾヤンの『ウインター・イン・マーチ』も重要な一本として挙げておく必要があるだろう。広島国際アニメーション映画祭での評価を経てなお、新たな表現へと歩みを進める本作は、現在進行形の戦争状況のなかで生きる人々の痛みを、声高に告発するのではなく、静かな観察の積層として描き出す。アニメーションの運動は抑制されているが、その抑制こそが現実の重みを支える。

 また、マリー・コドリーの『クマと鳥』は、絵本作家たる彼女の挿画の質感を活かしつつ、旅という主題を通じて世界の奥行きと他者への寛容を描く。線と色彩の柔らかさは、単なる児童向けの域を超え、境界を越えることの奥深さを静かに提示する。

 

 一方で、本部門は課題も露呈させた。つまり、日本作品において、「インディー」という語がしばしば制作規模の小ささや自主制作という形式にのみ還元され、社会的視座や批評的射程を伴っていないと言う課題である。

『LOCA!』(うったまー/みゃの 共同監督)

 例えば『LOCA!』(うったまー/みゃの)は、インディペンデントという語を最も誤読した例である。作品は「旅」を主題に掲げるが、その旅は空間的移動の羅列にすぎず、身体の変容を伴わない。登場人物の関係性もまた希薄であり、物語を駆動する必然性が欠落している。とりわけ問題なのは、社会的現実との接点が徹底して排除されていることだろう。(投射される)世界は背景として消費されるのみで、人物の描写に具体的な歴史的・社会的な与件が付与されない。結果として、本作品は閉じた自己陶酔の旅を描くだけに終わる。映画祭に出品される以上、思考の未熟さと批評性の不在を学生ならではの「若さ」や「自主制作」という言葉で覆い隠すことはできない。

 また、『ルサンティール』(小原正至)も、物語構築の責任から逃避しようとしている。対話を軸に進行する構成を採りながら、その対話は深化せず、人物の心理的蓄積も形成されない。観客が人物の感情を追体験するために必要な時間的厚みが与えられないまま、物語は唐突な結末へと収束する。その「オチ」は挑発的である以前に、単純に思考の短絡を示している。寓意を提示するには、まず戦争時代の生をより具体的に検討しなければならない。本作はその前提を欠いている。

 

 両作に共通するのは、「インディー=自由」という図式の誤読である。社会と接続せず、歴史とも応答せず、個人の枠組みのみで完結する物語は、どれほど熱量を帯びていても、公共的空間に提示される映画としての強度を持ちえない。その意味で、粗削りながらも人種の問題に正面から取り組み、後半にミュージカルという形式的飛躍を導入して主題を拡張した『ミュージカル・パイパーズ ::ザ・パイド・パイパー』(プ・ピョジョン)の誠実さは際立つ。この作品には、未完成であっても、世界と格闘しようとする意志が画面に刻まれていたからである。新聞を読み、歴史を学び、古典に触れ、社会の矛盾に向き合うこと。その基礎的な営為を経てはじめて、個人的体験は公共的意味を獲得する。Indie BOXが真に機能するためには、日本の若い作家たちがまずこの地点から出発する必要がある。

 

(小城大知:映画研究、表象文化論)



今後について(編集部小城よりご連絡)

読者・関係者の皆さま

 

Re:Public On Web編集部の小城です。
平素より、弊ジャーナルの活動に格別のご高配を賜り、誠にありがとうございます。

このたび、弊ジャーナルの発信元である、広島大学文化サークル連合(文サ連)の共用印刷機をめぐる事情により、皆さまにはご心配とご迷惑をおかけしております。まずは深くお詫び申し上げます。

文サ連印刷機:2024年12月から運用



印刷機は、単なる機材ではなく、執筆や編集、発信といった文化活動を支える重要な基盤です。
その共用物が十分な説明のないまま不当に持ち去られ、学生の継続的な利用が困難となっている現状は、一執筆者として到底看過できないものです。


なお、この件をめぐって、文サ連代表以下三役と私が現在対立状態でありますが、
Re:Public On Web は、当面小城が責任を取る形で、今後も変わらず映画祭等取材、映画・文化などに関する批評やレポート記事を継続して公開してまいります。
また、協力ジャーナリストの皆さまとの関係を一層強化し、新たな執筆希望者も引き続き広く募集いたします。
(直近ですと、3月にベルリン国際映画祭に関する記事を公開予定です)


編集部の発信はこれまでと変わらず継続してまいりますので、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

Re:Public On Web 編集部
映画担当 小城大知(映画研究、表象文化論

 

 

ANIAFF訪問記:あいち・なごやで開催された新たなアニメーション映画祭のコンペティションをめぐって

今年初開催となるあいち・なごや・インターナショナル・アニメーション・フィルムフェスティバルが、12月12日から17日まで、名古屋駅前のミッドランドシネマを中心とした3会場で開催された。新潟国際アニメーション映画祭のプログラム・ディレクターを務めた数土直志氏が本映画祭のアーティスティック・ディレクターに就任し、公式コンペティションを軸に、特別招待作品や監督特集としての細田守監督特集などを含む、世界各国・地域からジャンルや表現方法を横断した50本以上のアニメーション作品が上映された。さらに、数多くのトークイベントやシンポジウムも開催され、アニメーションの意義を学術的に検証する場も多数設けられた。

ミッドランドシネマへの入り口(筆者撮影)

なかでも、企画構想段階にある作品について関係者がプレゼンテーションを行い、フィードバックを受ける企画マーケット「ANIMART」の開催は、初開催となる本映画祭を特徴づける試みと言えるだろう。「クリエイター・ファースト絶対主義」をスローガンに掲げる本映画祭において、同マーケットは、「クリエイター・ファースト」の理念に基づく国際的な作品創出の場として位置づけられている。ここから生まれた作品をグローバルに発信することで、アニメーション文化および産業の発展と振興に寄与するという、本映画祭の意義を象徴的に示す場となっている。

ロゴマーク(筆者撮影)

筆者が驚かされたのは、初開催となる本映画祭のコンペティション部門に、初年度にもかかわらず29か国から45本の長編作品の応募があり、その中から11本が選出されたという事実である。これは、作り手たちが本映画祭に寄せる期待が、立ち上げの段階から大きいことを示している。IP映画が国内市場にとどまらず国際市場をも席巻する現在、日本において、審査員が口々に述べるような「大人向け」のアニメーションを紹介する映画祭を開催する意義は、ますます大きくなっていると言えよう。以下では、本映画祭のコンペティション部門について振り返ってみたい。

 

ANIAFFのコンペティション部門は、日本作品3本、海外作品8本とバランスの取れた選定であり、アヌシー国際アニメーション映画祭で上映された作品が多くを占めるなど、世界の映画祭で話題となった作品を積極的に取り上げる姿勢が特徴的であったと言えるだろう。また、アヌシー国際アニメーション映画祭での上映に先立ち、ベルリン国際映画祭(ジェネレーション部門)やカンヌ国際映画祭(批評家週間、監督週間)などで注目を集めた、国際性豊かな作品が厳選されていた点も印象に残る。こうした点から言えるのは、国際性と先進性、そして話題性が高い次元で結びついたプログラム構成であったことである。

コンペティション国際審査員団(筆者撮影)

 

ただし、こうした選定方針には一つの課題も存在する。それは、ANIAFF自体が「発掘」という点において新規性を打ち出しにくくなってしまうのではないか、という点である(この問題は、新潟国際アニメーション映画祭にも共通する)。実際、日本作品3本はいずれもアヌシー国際アニメーション映画祭や東京国際映画祭で上映され、すでに国内で公開中ないし劇場公開を終えた作品であった。また海外作品についても、カンヌやアヌシーでの上映後、トロントなど各地の映画祭を巡回してきた作品が含まれていた。

こうした傾向は、海外映画祭での経験が豊富な予備選考委員のラインナップや、アーティスティック・ディレクターの志向にも起因していると考えられるが、それでもなお、新潟と同様に、あいち・なごやという映画祭の新規性をどこに位置づけるべきかは、現時点では未だ明確ではないというのが筆者の率直な印象である。なお、筆者自身も今年はトロントを含む各地の映画祭を取材していたため、結果的に本映画祭のコンペ上映作品のうち未見作が半数を下回っていたことも付記しておきたい。こうした事情もあるため、本記事では過去公開記事では紹介していない作品を取り上げたい。

 

まず、本映画祭で発見できた重要な作品として『ニムエンダジュ』(タニア・アナヤ監督)が挙げられるだろう。社会学者カート・ウンケル(浅学にして、筆者は本作を鑑賞するまでその名を知らなかった人物である)は、20世紀初頭にブラジルへ渡り、先住民族の調査を行った学者である。「ニムエンダジュ」とは、彼が先住民族から与えられた姓であり、グアラニー語系アパポクバ族の言葉で「自らを故郷とした者」を意味するという。

 

『ニムエンダジュ』(タニア・アラヤ監督)

 

1923年から1924年にかけて、ウンケルはアマゾン川河口の大西洋諸島において科学的調査を行った最初期の研究者の一人となり、アルアの墓地で発掘調査を行うとともに、島民から口承による情報を収集した。さらに1929年から1936年にかけては、ブラジル中央高原北東端に暮らすゲ語族のカネラ・インディアンと約14か月間を共に過ごし、詳細な民族誌的研究を行っている。こうしたウンケルの調査と記述は、1930年代に同じくブラジルに赴き、サンパウロ大学で社会学教授として着任し、フィールドワークを行うことになる哲学者クロード・レヴィ=ストロースにも影響を与えたとされている。

本作は、ウンケル=ニムエンダジュが民族誌的調査の過程で遭遇した、先住民族に対する大規模な迫害の歴史を、ドローイングを中心とした技法によるアニメーションとして描き出した労作である。制作途中の中断などもあり、完成までに長い時間を要した作品でもある。また本作は、グラウベル・ローシャやネルソン・ペレイラ・ドス・サントスといった映画作家たちが切り開いてきた、『黒い神、白い悪魔』(ローシャ)に代表される植民地主義批判の系譜を踏まえつつ、それをアニメーションという表現形式へと昇華させた力作でもある。むろん、ニムエンダジュ自身の調査行為そのものが、結果として植民地主義的搾取の構造に加担していたのではないか、という批判的視点も、本作は決して回避していない。その緊張関係を内包したまま、歴史を一方的に断罪することも、英雄化することもせず、記録と加害、知と暴力が絡み合う複雑な歴史の層を、アニメーションならではの距離感で提示している点に、本作の大きな意義があると言えるだろう。

 

観客賞を受賞した岩井澤健治監督『ひゃくえむ。』は、日本アニメーションにおける珠玉の一作であった。本作は魚豊の同名漫画を映画化した作品で、100メートル走という人間のスピードの極点に挑む男たちの姿を描く。

『ひゃくえむ。』(岩井澤健治監督、画像提供:GKIDS)

 

映画史を振り返れば、1800年代中盤のマイブリッジやエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真から、リュミエール兄弟の初期映画、トーキー化の段階を経て、現代のレオス・カラックスや『ウマ娘』シリーズに至るまで、「走る身体」は映像メディアの発展と密接に結びついてきた。本作はその系譜を継ぎつつ、ロトスコープ技法によって「走る」身体の運動とリズムに執拗なリアリズムを与える。質感と速度の再現は、マノヴィッチ的な「リアリズム」を想起させるほどで、日本のアニメーションの技術的先端を示す試みと言えるだろう。

無論、その知覚しうるカタルシスのがまた音楽にも大きく依拠している点には課題も残る。しかし本作は、「走る」という行為自体をメディア史の文脈から再考させる稀有な契機を与える作品であり、競走がアニメーションによってどのように再び表象されうるのかを示した。走る身体がスクリーンを切り裂く瞬間、映画の根源的な快楽が現前する、そうした結果として多くの観客から支持されたのは、映画史的必然とすら言える。

 

(小城大知:映画研究、表象文化論)