ニコラ・パリゼール監督の『Un peu avant minuit』は、人生の岐路に立つ一人の男を通して、恋愛と政治の関係を描いた作品である。49歳のレオは、東フランスで暮らすパートナーとの別離を目前に控え、これまで会ったことのなかった実父の死を知らされる。遺産の処理のためイタリアへ向かう前、パリで自らの人生を振り返るなか、活動家である娘との会話や過去の女性たちとの再会を通して、自分がこれまで何を選び、何を見過ごしてきたのかを問い直していく。
アウト・オブ・コンペティション部門で上映されたマリアノ・ジナス監督の『The Life of Jorge Luis Borges』は330分にわたる圧巻の作品であったと言える。膨大な資料やボルヘスが読んだ本、訪れた場所などを手がかりに、その生涯をたどっていく。だが、これは単純な伝記映画ではない。ジナスはボルヘスそのものを、一つの「国」のようなものとして捉え(とはいえ、こうしたアプローチ自体は、決して新しいものではないにせよ)、その未知の領域を探検するように映画を作り上げている。
しかし、である。プレスパスをもらっておいて何も書かないというのは、さすがに良心が咎める。いや、良心というより、もっと世俗的な何かが咎める。恩義とか義理とか、そういう種類のものだ。そして、カンヌの熱が冷めてくると(不肖筆者が寄稿した某誌のカンヌレビューは7月31日に出た)、今年の前半に試写を見ていった映画祭たちのことが、じわじわと記憶の表層に浮かび上がってきた。ベルリン、Cinéma du Réel、全州——いずれも、様々な課題を抱えながら映画祭としての自律性を有した時間だったという気がしている。だから書く。遅ればせながら、しかし総括的に書く。これは怠惰な人間の、せめてもの記録である。
今年も水準の高いラインナップが揃った全州。本誌でも以前取り上げた、リタ・アゼヴェード・ゴメスのFuck the Polisなど、今年も韓国に様々な作家主義の作品が出そろった。
ウジェーヌ・グリーンの新作A Árvore do Conhecimento(The Tree of Knowledge、101分)は、ポルトガル語圏を舞台にした三度目の作品。リスボン郊外に育つ少年ガスパルが悪魔と契約した「食人鬼」に捕われ、ロバと犬とともに逃げ出す——バロック演劇の文法と現代ポルトガルの政治寓意とが奇妙に共存するこの作家らしいファンタジア。広島国際映画祭でも上映されたグリーンのこの新作は、現代映画とメディアの関係性を思考する一作でもあり、ミニマルな映画作りはどこまで限界を押し広げることができるか、フレームの外にこれまでの作品以上に意識を向けた作品であったと言える。また作家についてのドキュメンタリーも見逃すことは出来ない。バーバラ・ハマーという映画作家がいる。実験映画の歴史においてその名を外すことはできない、このフェミニズム映画作家に捧げられたドキュメンタリーBarbara Foreverの存在も忘れることができない。
まさにその通りです。『ミモーサス』を撮っていたとき、本当は『シラート』を作りたかったのです。その当時は、「死」と「永遠への跳躍」をめぐる映画作品として構想していました。しかし当時は資金も時間も限られており、技術的にもまだ成熟していませんでした。そうした制約のなかで完成したのが『ミモーサス』でした。その意味で、『シラート』は長年抱いてきた構想に、ようやく正面から取り組んだ作品だと言えるでしょう。自分が本当に作りたかった映画に、ようやく近づくことができたと感じています。私の長編第一作が公開されたのは2010年ですので、そこからすでに15年が経ちました。初めて自分の映画(註:『皆はキャプテンだ』« Todos vós sodes capitáns »)がカンヌに出品されたときの出来事は、いまでも強く印象に残っています。 振り返ってみると、自分の歩みは常に時代に逆らうようなものだったかもしれません。とりわけスペインにおいては、主流から外れた方向に進んできたという実感もありました。しかし今は違います。「いま、風が自分の帆を押してくれている(Y ahora el viento sopla mis velas)」という感覚がある。だからこそ、これからはより自由に、自分が本当に望む映画を作ることができると思っています。とはいえ、変化させていない部分もあり、その一例として、本作も16ミリフィルムで撮影されていることが挙げられます。