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第36回東京国際映画祭報告

釜山国際映画祭から帰国し、一週間足らずで10月23日から11月1日まで開催された第36回東京国際映画祭に参加することになった。そのようなわけで、今年も文化サークル連合に所属する映画専門記者の報告を簡単にお届けする。

 

同じ月に2度も映画祭に対面参加するというのは初めてであり、体力との戦いでもあったことは予想できた。幸いなことに、今回も主要な作品が釜山国際映画祭と東京国際映画祭でラインナップが被ったこと、そしてフィルメックスとの同時開催が無くなったため東京国際映画祭の参加に集中することがかなった。そのため、釜山国際映画祭で見ることを逃した作品、及びコンペや日本独自の部門であるアニメーション部門、ガラ・セレクションで日本のみで上映される作品を主軸として試写を拝見するという戦略の下、今年も以下のように作品の状況をまとめていきたい。

 

オープニング

今年度は、ヴィム・ヴェンダース監督がコンペティション部門の審査員長、日本映画特集をヴェンダースが敬愛している(やがて『東京画』というマルケル『サン・ソレイユ』との比較でよく知られるドキュメンタリー作品を作るまでに至った)小津安二郎の生誕120周年特集を実施することになったこともあり、オープニング作品はヴェンダースの新作長編劇映画であり、役所広司カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した『Perfect Days』がアジアン・プレミア上映された。当初プレス&インダストリー用の上映試写が行われる予定はなかったらしいが、開幕前日に知人から連絡があり、23日の午前に日比谷東宝で緊急でプレス向け上映が行われることになったという連絡を貰う。しかしスケジュールに記載されていなかったこともあり、当日の参加者は30人ほど(しかもQR認証すらなし)。あまりに物寂しい緊急試写であったことが言える(実際インダストリーパスホルダーやゲストパスを所持していた知人の大半は、試写が行われたことすら把握していなかったという)。スケジュールに記載するなど、きちんと関係各所に連絡する必要があったのではないか。

さてこの作品、制作会社がMaster Mind(つまりユニクロの系列会社)、制作支援もユニクロ、ローソンといったいわゆる資本主義お抱えの会社、舞台も渋谷再開発によって設置されたおしゃれなトイレ、役所広司の演じる平山という男は下町に住み、渋谷まで首都高を走っておしゃれなトイレの掃除を仕事にしているという設定であり、巨匠ヴェンダースに金を与えて新自由主義の「日本」らしさを演出させる困った映画であったのは事実。男優賞を受賞した役所広司の演技(とくにニーナ・シモンを聞きながら運転する役所のラストの顔演技)と音楽のセレクトは素晴らしいのだが、畳の部屋の意図的な造形など小津安二郎の神格化が極端であり、浅草の地下の居酒屋などはもはや『東京画』の繰り返しでもありゲンナリさせられる。また短編映画『Somebody comes into the night』は、ホームレスを演じた田中泯がそのままの格好で舞踊をするという短編であるが、田中泯の素晴らしい舞踊はさておき映画としては完全にミュージックビデオで、映画ではなかったのも残念。

 

コンペティション部門

今年度は日本映画3本、イラン映画3本、そして昨年度は全部門通じて一作品もなかった中国映画が3本と、15本のうち3か国で6割を占めるという異様なセレクションとなり、更にPDである市山尚三氏がフィルメックスPD時代に高く評価してきたペマ・ツェテン、グー・シャオガン、ヒラル・バイダロフといった監督たちが東京国際映画祭にやってくるという市山尚三氏好みの野心的なセレクションであったことは認めざるを得ない。しかしながら、今年のコンペは稀に見るレベルの低さであったと言えよう。

例えば、ペマ・ツェテン『雪豹』は、雪豹の侵入を巡る周辺住民の葛藤と自然の雄大さを描いた作品であることは理解できるが、雪豹がわかりやすいディープフェイク映像であり、豹が持つ暴力性が無くなった「ネコチャン」になってしまったことに辟易させられる。またファイト・ヘルマー『ゴンドラ』は、言語の欠落を通じて人間同士の対話を生み出すことを狙っているものの、肝心な人間の交錯に関してはごまかされ、政治性の欠落した単なる遊戯的な結合にすぎない。更に言えばガオ・ホン『ロング・ショット』に至っては、最後に突如予定調和のようにやってくる銃撃戦は、これまでの空間の造形を完全にぶち壊す質の悪いものであり、人間の苦闘も実は丁寧に描かれているわけではない。これまでの蓄積の無さが、最後の派手な銃撃戦を空虚なものにしていると言える。

日本映画の出来も富名哲也『わたくしどもは。』を見れば惨憺たるものであることが理解できよう。佐渡金山跡地という自然の持つある種の雄大さと人間の運動が全くかみ合っておらず、松田龍平小松菜奈の演技も演劇を意識しながら映画的な運動が存在しない。完全に「表層的な」ものを映し出したにすぎず、深みが欠落した映画作品であった。

しかしながら、フェリペ・ガルデス『開拓者たち』は映像の退屈さはさておき、インディオ虐殺の隠蔽や最後のチリ史を巡るアーカイブ映像は大変興味深く、またヒラル・バイダロフ『鳥たちへの説教』は詩的なナレーションと、切るべきところを理解していない映像の構成、そしてカラーと白黒映像、運動と非運動という対称性が奇跡的に組み合わさり、意外な深さを持っている作品であると言えよう。また粗が残るものの、小辻陽平『曖昧な楽園』はミニマルさに特化し、物語さえも曖昧にすることで言葉を超えた人間の動きを取ることに集中した作品であり、かなり健闘していたと思われた。そして筆者にとって、コンペ作品で最も優れていたのはバルバラ・アルベルト『真昼の女』であった。作品自体の動きは単調なものの、女性の微細な運動を描き出すことに模範的で忠実的な本作品は、他の作品に比べて映画であることの意義を再確認させてくれる作品であったと言えよう。

 

アジアの未来部門

またもや、今年度も一作品も見る機会に恵まれず…。後日の鑑賞機会に期待。

 

ガラ・セレクション部門

釜山国際映画祭で、主要な作品を既に事前に拝見していたこともあり、今回の上映では未見だった作品のみを拝見した。その中で2つの作品に触れておく必要がある。

まずは塚本晋也『ほかげ』。近年戦争情勢における狂気を禍々しい勢いを伴って描き続けている塚本の新作は、終戦闇市を舞台に、戦争の狂気が戦後においても続くことを赤裸々に告発した映画である。
「映画においては、目的(表現内容)は手段(表現形式)を正当化しない」(葛生賢氏(映画批評家)1030ツイート)という指摘は真っ当である。このことが映画において守られなければ作品として成立しないというのは、映画史がそのことを示してきた。だが、あえて私がこの作品をきちんと評価するべきであると考えた理由は、手段が武器にならなければならないほど世界中で生じている戦争情勢が切迫しているからである。ウクライナパレスチナ、世界で様々に生じる戦争情勢を映画は反戦闘争への決起を伴って引き受けなければならない。塚本は、映画の文法を破るというリスクを引き受けながら、反戦をストレートに訴えることで映画の武器の部分を真摯に強調したと言えないだろうか。

そしてもう一つが、マルコ・ベロッキオ『RAPITO』。1858年に生じた「エドガルド・モルターラ事件」を題材に、サルデーニャ王国VSローマ・カトリックによるイタリア統一戦争という激動のイタリア史を大胆に描き出す作品である。ベロッキオ特有の個人史と宗教史、そして倫理というものをテーマにしながら、単なる個人にフォーカスを充てる伝記映画ではなく、イタリア史における難題に向かい合う83歳の巨匠の貪欲さを垣間見ることが出来るだろう。

 

ワールド・フォーカス部門

この部門からは3本取り上げたい。
まずはラテンビート映画祭と共催された上映からロドリコ・モレノ『犯罪者たち』の出来が大変素晴らしかったことを指摘しておく必要があるだろう。完全犯罪を成し遂げようとする男たちの息もつかせぬ見事なサスペンス映画としての本作は、ラファエル・フィリィペリへ捧げられ、劇中でもロベール・ブレッソンラルジャン』が流れる(ゴダール『イメージの本』のポスターも映っている)など、アルゼンチン映画史の豊饒な文脈を継承しながら作り出した見事なショットや、西部劇、バカンス映画(ジャック・ロジエ)などが融合された空間造形にほれぼれさせられた。

次にイザベル・エルゲラ『スルタナの夢』。ベーグム・ロキアの同名短編をモチーフとして、女性とは何かということをフェミニズム的に検証するアニメーション。今年のアニメーション作品の中では最も出来が良い作品であり、無論ポール・B・プレシアドが本人役で登場するなどややTransとの関連が紋切型なイメージは否定できないが、それでも大胆で政治的なアニメーションの力作。

最後にアイラ・サックス『パッセージ』。フランツ・ロゴフスキ、ベン・ウィショー、アデル・エグザルホプロスら実力派俳優たちが見せる人間悲喜劇。生活、会話の中から映画的運動が生じることを理解したサックスは、一切の誇張なく淡々と3人の痴話、セックス、愛を描き出す。そこに真の喜劇を楽しむことが出来る。

 

アニメーション部門

今年度から、日本作品にとどまらず海外作品もセレクションする路線へと切り替えた本部門。4本の日本作品(そのうち三本が劇場公開済みで、一本も11月10日に公開される)と5本の海外作品によって構成されている部門だが、ほとんどすべての作品を拝見し、日本と海外の映画に対する意識の差、出来の差をまざまざと見せつけられた結果となった。

まず中国のアニメーション『深海レストラン』。宮崎駿へのオマージュ、純粋無垢な少女像は紋切型であるものの3Dアニメーションの持つ情報の暴力と圧倒的な画は見事な作品であった。またフランスのアニメーション『リンダはチキンが食べたい!』は、線画による前衛的なアニメーション以上に、フランス資本の入った白色化された映画祭向けのフランス映画であり、近年よく見るフランス映画の演出、セリフ回しがアニメーションでも描くことが出来ることを知り感心してしまう。

しかし日本アニメーションの出来は最悪に近く、唯一の日本プレミア『駒田蒸留所へようこそ』はオタク向けアニメーションであり映画ですらない。P.A Worksの「お仕事ものシリーズ」は労働者のリアリズムとはかけ離れた世界であり、本作に至ってはもはやウイスキー工場の単なる経営の問題でしかない。地方活性化という当初の政治的な目的すら薄められ、どこかで見たことのあるアニメ作画、どこかで聞いたことのある声優の声という作家主義のかけ離れた業界内政治としてのジャパン・アニメーションの未来はどこへ。作家ではなく、声優のレッドカーペットや舞台挨拶といった陳腐なイベントも、ジャパン・アニメーションの作家性の堕落を助長している。日本初上映の作品は確かに必要かもしれないが、最低限の映画のクオリティーが担保されていないものは映画祭に出品される必要はない。

また日本アニメーションが4本も入っていたが、来年仮に新作を9本上映するのであるならば、日本作品は1-2本程度で十分であろう。新潟や新千歳とコンセプトが被るかもしれないが、もっと海外の優れたアニメーションをノンコンペティション形式で紹介する部門として、独自の立ち位置を持っても問題ない。

 

日本映画部門

杉田協士『彼方のうた』に対する違和感を、2回目の鑑賞で拭い去ることが出来たことが印象深い。この作品は2回目を見て、小川あんの演技に対する違和感を観客が引き受けて初めて傑作として結実する。

そしてクラシックス部門では、小津特集は時間が合わず一品も見ることが出来なかったが、おそらく本特集最大の目玉であった『雄呂血』4K版を活弁付きで拝見。先日修復され時代劇専門チャンネルで放送されたばかりの本作品、これが本当に素晴らしい。坂本頼光師の活弁も素晴らしいが、何より阪東妻三郎があれだけ立ち回るパワフルな運動が1925年に作られていたことに驚愕するとともに、別格の素晴らしさを持つ作品であることを理解できる。修復されたことを喜びつつ、いつかフィルムでこの作品を見てみたいという気持ちにもなる。

 

終わりに


本映画祭に関して、映画のセレクションとは別にいくつかコメントすることがある。
第一にホスピタリティーやシステムが明らかに悪くなったということである。一般客からチケットが取れないという嘆きを今年は多く目にした。見るとチケット取得のサービスの質が低下したことが原因だという。これは改善の余地があると思われる。P&I の認証システムも故障している光景を何度も目にした。簡単には壊れないようなきちんとしたシステムを導入する必要があると思われる。
更に、今回プレスとして一言言わなければならないのが、紙でのパンフレットの配布が停止されたことは大問題であるということである。筆者もそうだが、紙のパンフレットに書き込んだりすることもあり、また今後の上映に向けた窓口が記されているパンフレットを熟読するプレスやゲストも少なくない。スポンサー収入が増えたというならば、どうしてこのような重要な部分の予算を削減するのか全く理解に苦しむ。

第二にパスホルダー向けの上映であるP&I上映に関して。昨年よりさらに会場が増えたことに加え、過剰で過密、更に偏った日程のスケジュールによって、見損なった作品も少なくない。さらにP&I上映が行われる基準が全く不透明である。オープニング作品が当初P&I上映が行われる予定がなかったのもそうだが、昨年、一昨年とガラ・セレクションにおけるアート系作品のP&I上映が行われたものの今年度はそれに該当するベロッキオ『Kidnapped』がP&I上映がなく、またこの作品は英語字幕付きでの上映ですらなかった。国際映画祭であるならば英語字幕がつかない上映は行うべきではない。
更に言うならば、今年度はアニメーションのP&I上映が追加されたが、日本映画クラシックスはまたもや上映がないというのもよくわからない。『雄呂血』など重要な作品は活弁の無いバージョンでもP&I 上映に追加出来たのではないのだろうか。古典映画軽視と言われても文句は言えないだろう。

第3に交流ラウンジについてである。交流ラウンジを利用しようとしたら、開いているはずの時間にしまっていてサービスが利用できなかったことも問題だが(情報伝達の齟齬が多い)、それ以上に気になったのが、一回利用したときにあまりにガラガラだったことである。これのどこが「交流」なのか、疑問である。「交流ラウンジ」は、会期中パスホルダーしか使用できないことになっているが、これがそもそもの間違いである。本当に必要なのはファンと映画人の素朴な交流である。来年度も設置する場合、まずパスホルダーだけに入場を限定するのではなく、一般客の入場も認める必要がある。そうでないと活発な交流は生まれない。そしてそれが難しいというならば、場所を変える必要があるということだ。
実際に昨年も指摘した通り、この場所はプレスセンターからもやや遠く、更に言えば上映会場からも、角川シネマ有楽町以外距離が近くない。昨年までは、有楽町よみうりホールの上映回があったため比較的に利用する可能性もあったが、今年はよみうりホールでの上映がなくなり、ヒューレックホール(旧東宝日劇)に会場が変更になったため、角川シネマでの上映回を見ない限り行くことは難しい。場所の変更は急務である。

 

このように、三点改善するべき点を指摘したが、無論上映本数、観客来場者数が昨年度より25パーセント程度増(暫定値)したのは喜ばしいことである。コロナウイルスの感染対策が五類になったことで、私が先日釜山国際映画祭に訪問できたように、今回多くの海外ゲストの来日が叶ったというのも喜ばしい出来事であった。その中で審査員の一人アルベール・セラ氏が、P&I上映の中で、審査員にあてがわれた2階ではなく、一般のパスホルダーの座る一階で映画を心底楽しもうとしていた光景も忘れることはできない。
今回のコンペのセレクション、そして受賞結果が市山尚三氏やヴェンダース監督率いる審査員団の映画への一つの愛なのであるならば、本記事も映画への「ひとつの愛」をつづったものとして正当化されることを願いたいものである。

 

(映画研究・表象文化論