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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

アニメーションの現在地点: 新潟国際アニメーション映画祭2024からAnimeJapan 2024まで

2024年も1月下旬のロッテルダム国際映画祭を皮切りに、2-3月から世界各地で本格的に国際映画祭が開催されるようになる。2月には世界三大映画祭の一つであるベルリン国際映画祭が開催され、大波乱をもたらしながら様々な形で注目されたことが言えるだろう(これに関しては後日掲載予定の記事で振り返りたいと思う)。

それと同時に1-3月は、たとえばアメリカでは昨年度の映画の総決算としてゴールデングローブ賞アカデミー賞が開催され、フランスでもセザール賞が開催されるなど様々な国で受賞レースが行われる時期でもある。

では日本では1-3月に映画界にどのような動きが生じるのか。まず重要なのが、日本アカデミー賞(3月上旬、2024年3月8日)の開催であろう。これは米国アカデミー賞をモデルに業界内で労苦をねぎらうための賞レースとして開催されているもので、2024年の最優秀作品賞には『ゴジラ―1.0』(山崎貴)が輝いた。次に大手雑誌社が開催しているキネマ旬報ベストテン(2月発表)が挙げられるだろう。これは映画批評家・編集者・及び読者の投票によって決められるベスト10作品が発表されるもので(2023年度の邦画ベストは『せかいのおきく』(阪本順治)であったという)、その年の優れた映画を選ぶ一つの指針としての機能を果たしていると言えよう。ただ、賞レースでにぎわう一方で日本映画界の国際性を示す映画祭が開催されていないのはまた事実である。

しかしながら、このような映画賞レースで軽視されることの多いアニメーションという分野に目を向けるならば、1-3月に日本で開催される映画祭として、アニメーション映画に特化した映画祭が3月に日本で二つ開催されていることを見落とすことはできない。そして3月下旬には日本最大級のアニメーション見本市であるAnimeJapanも開催されている。このようにとりわけ3月はアニメーションに大きな動きが生じる月である。本記事は、とりわけ昨年から開催されている新潟国際アニメーション映画祭(2024年3月15-20日)及びAnimeJapan 2024(2024年3月23-24日)の取材を通して、映画とアニメーションの現在を検討する映画専門記者による報告である。

 

〇地方の「国際化」?:第2回新潟国際アニメーション映画祭(NIAFF)報告

世界最大級の国際アニメーション映画祭として、アヌシー、オタワなどの映画祭があげられるが、これら映画祭が所属するASIFA(国際アニメーションフィルム協会)の日本支部が唯一公認していた映画祭として、広島国際アニメーションフェスティバルの存在があげられる。この映画祭は、地方都市広島で1988年以降、2020年まで二年に一回のペースで開催され、日本におけるアートアニメーションの国際的な窓口として機能してきた。しかしながら、広島市の共同開催の撤退方針により2020年を最後に終了し、2022年からはより商業寄りとなったイベントである「ひろしま国際平和文化祭」の一イベントとしての「ひろしまアニメーションシーズン」が2年に一回開催されるようになっている(ただしASIFAはこの映画祭を公認団体として認知していない)。この映画祭のセレクションは、従来アートアニメーションを軸にしていたこともあり、後継となったアニメーションシーズンも前身同様アートアニメーションのコンペティションが開催されているが、特集上映等では商業寄りの作品がセレクションされるようになったという変化は生じた。

このこと自体を完全に否定的に考えることは、残念ながら困難である。海外のアニメーションに関して言えば、日本では、アートととどまらず、ディズニーやイルミネーションスタジオといった米製の大型スタジオによるアニメの例外を除いて、商業的な長編アニメーション映画ですらもほとんど受容されぬままであるため、国際アニメーション映画祭という場を維持し拡充するためには多少の譲歩が迫られることは仕方ないと考えている部分もあるからだ。しかしながら、地方都市で脈々と形成されてきた芸術受容の空間が商業主義の跋扈によって崩壊させられたというのは大問題である。映画祭というのは、えてして大都市に開催場所が集中しがちであり、地方都市の芸術的強みを生かした映画祭が開催されなくなることは、結果として日本という国の文化的多様性を衰退させ、極論申し上げれば適切な国際的競争力も衰退させることにもつながるからである。

さらに言えば、日本のアニメーション映画のレベルが(一部の作家を除いて)国際的な基準を満たしていないことも一つの事実として挙げられるだろう。実際に、2021年から大幅な改革を行ってきた東京国際映画祭は、2023年(第36回)にこれまで実施してきたジャパン・アニメーション部門(日本アニメ・特撮)の部門編成を行い、「アニメーション」部門へと名前を変更したうえで、上映作品を日本のアニメーションと特撮だけだったものを、特撮の上映を廃止したうえで海外のアニメーションの上映を追加するという変更をおこなった。この変更が初めて適用された2023年の新作アニメーションの上映ラインナップは日本作品4本、海外作品5本という内容になったが、これによって明らかになったのは、日本の劇場アニメが、(近年のアヌシー国際映画祭で受賞した山村浩二といった一部の例外を除いて)海外アニメ作品と比較すると映画作品としての国際競争に耐えうることができないほどの低いレベルの作品ばかりであったという残酷な事実であろう(これに関しては第36回東京国際映画祭に関する拙稿を参照してほしい)。

 

hirodai-bunsa.hatenablog.com

そして2024年3月8日から4日間にわたって開催された、東京アニメーションアワードフェスティバルの長編コンペティション作品は、東京国際映画祭で上映済みの作品が2本セレクションされ、4本のうち1本も日本のアニメーションはセレクトされなかったのである。当然の結果であると言わざるを得ない。
(ちなみにTAAF2024長編コンペグランプリを受賞したのは『リンダはチキンが食べたい!』(2024年4月17日公開、アスミック・エース配給)であった。この作品については前記事ですでに紹介しているためここでは割愛するが、制作手法としてレコーディングで周辺の生活音まで録音した後、それに基づいて線画のみで表現するという手法をとったことが分かった。アニメーションの既存の枠組みにとらわれない柔軟な作品に賞が授与されるのは、まったくもって正当である。)

 

そのような中で、2023年に新潟国際アニメーション映画祭は、東映動画(現:東映アニメーション)の設立者大川博の故郷新潟を開催都市とし、「長編アニメーション」に特化したアジア最大級の国際アニメーション映画祭として幕を開けた。映画祭の主な3つの目標として、①アニメーション文化と産業を統合するハブ、すなわちアニメーションのアートと商業の両方の性質を検討する場として位置付ける、②本映画祭に集結した感性とエネルギーを、作家的創造に寄与させるだけではなく、産業的規模のグローバル・アニメーションの創造へと結びつける映画祭をめざす(これは①と理念はほぼ一緒)、③アカデミー・プログラムで国際的価値づけのハブ、すなわち次世代のアニメーション作家を育成する場として位置付けるということが理解できる。これは前述したひろしまアニメーションシーズンとはまた異なる立場であり、とりわけ③のあり方は新潟大学や日本アニメ・マンガ専門学校という国内最大規模の教育施設が充実している新潟ならではのユニークなあり方であるといえる。地方都市から、国際的な視野でアニメーションに目を向ける映画祭の第2回目が、3月15日から20日の6日間にわたって開催された。

報告者は後半三日間(18-20日)のみ足を運んだため、トークやマスタークラス、学術研究発表への取材が残念ながら叶わなかった。そのためここからの内容報告は、主に長編コンペティション部門を中心に作品の内容について簡潔にまとめたものになることをご容赦いただきたい。

新潟国際アニメーション映画祭 公式看板(新潟日報本社:3月18日)

本映画祭の上映プログラムは、主に長編アニメーション映画作品を中心に12作品がセレクションされ最高賞(グランプリ)を競う「長編コンペティション部門」、世界のアニメーションの現在を知るために特定のテーマを設定し招待上映する「世界の潮流」、作家や古典映画作品を回顧する特集上映「レトロスペクティブ」(今年度は高畑勲監督のほぼ全作品回顧上映)、テーマを設定しオールナイトで上映する「オールナイト新潟」、前述した大川博と、同郷のアニメーション作家蕗谷虹児の名を冠し、アニメーション制作に寄与した人物・会社を表彰する「大川博賞・蕗谷虹児賞」、その他イベント上映・トークショー、フォーラム企画(今年度のテーマは「ドキュメンタリーとアニメーション」)といったものがあげられる。このように多様な上映プログラムがそろっており、上映作品も6日間で60作品以上もあるため、3日間ではすべての企画を回ることは困難である。報告者は「長編コンペティション」を中心に作品を拝見するとともに、「世界の潮流」の作品の一部を拝見する機会に恵まれた。以下簡単に振り返っていきたい。

 

・長編コンペティション部門

長編コンペティション部門は、2022年以降に制作された40分以上の作品から、49作品の応募の中から12作品がセレクションされた。そのため制作国も日本作品が2作品にとどまり、アジア(タイ)、北米(アメリカ、カナダ)、南米(ブラジル・コロンビア)、ヨーロッパ(フランス・スペイン)など多様な国家の作品がセレクションされていることが特徴的である。また、アニメーション作品であれば手法が問われないということもあり、作品の構成も商業アニメーションからアート・エクスペリメンタルなど範囲も広く、テーマも政治問題・ドキュメンタリー・恋愛メロドラマ・探偵物・SFなど多様な範囲をカヴァーしていたといえるだろう。その中で以下、とりわけ優れていたと思われる作品をピックアップしていきたい。

まずはやはりサム&フレッド・ギヨーム『オン・ザ・ブリッジ』が野心的な傑作であることを挙げなくてはならない。本作品は、末期患者の会話音声を収録し、それをもとにアニメーションを制作するアニメーション・ドキュメンタリーの手法を用いている。物語の構築のうまさもあるのだろうが、実際に死にゆく者の音声から映像の境界を超えた生の蜂起を表現するというのにはうならされる。彼らは死す前に声によって新たな生を衝突させ、単一的な叙述に抵抗する。音声を拾い上げる作業に向き合い、アートアニメーションを融合させることで雄大な世界を描き出した監督たちの作業に、大きな拍手を送りたい。

『オン・ザ・ブリッジ』(サム&フレッド・ギヨーム監督)

次にマラオン『深海からの奇妙な魚』。本作品は、ブラジルのアニメーションではほとんど使用されることのないハンドドローイング手法に集中し、カットアウトによるブラジルの既存のアニメ史に挑戦状を叩きつける力強い映画表現を有する作品であった。物語もさながら、ナラティブにとらわれることなく海中の神秘をドローイングによる長回しを彷彿とさせる映像によって表現する態度は作家の誠実さを感じさせ、タイトルにこだわらない様々な動物が邂逅するさまは、旧ボルソナロの右派的な独裁政治へのカウンターとしての効果も十分発揮している点でもすぐれた作品であるといえよう。

『深海からの奇妙な魚』(マラオン監督)

今回グランプリを受賞した、ジョエル・ヴォードロイユ『アダムが変わるとき』は、10代の成長とともに対立による暴力の表象を、シュールなアニメーション映像で表現した力作であったことは間違いない。むろんいじめっ子や片思い相手の女の子の発言によって、主人公の気持ちの変化が体形の変化へとつながるというのはかなり凡庸な紋切り型の表現のように思われるが、それでもシュールさと冷徹な暴力を一貫し続けることの苦労は計り知れない。戦争による暴力に満ち溢れた現代で、それでもどこかウィットに富むことで希望的な未来を信じる本作がグランプリを受賞した意義は大きいだろう。

『アダムが変わるとき』(ジョエル・ヴォードロイユ監督)

また期間中、時間が合わなかったがゆえに泣く泣くオンライン試写で見た作品にも一作品言及しておきたい。ディエゴ・フェリペ・グスマン『アザー・シェイプ』は、近未来における監視社会の中でその規範的枠組みから抜け出し抗おうとする青年の姿を、一切のセリフなくアートアニメーションの表現だけで重厚に表現した意欲作であった。映像にすべての情報が込められることには、得てしてフレームの外の思考を失わせる危険が隣り合うのだが、本作はスピード感と映像の作りこみが融合されることによってその危険を受け入れながら、独特の世界空間の構成に成功していた作品であったといえる。スクリーンで見られなかったことが残念でならない。

『アザー・シェイプ』(ディエゴ・フェリペ・グスマン監督)

 

しかしながら、このような芸術的なアニメーションが充実しているラインナップだったにもかかわらず、受賞結果という審査員たちの選択は、グランプリ作品を除いて残念ながら映画祭の持つ三つの理念のうちの一つ「芸術と商業の融合」を、悪い意味で解釈することに加担してしまったといえよう。以下受賞作品について簡単に触れておきたい。

 

例えば「境界賞」を受賞したジェレミー・ペラン『マーズ・エクスプレス』と、「奨励賞」を受賞したジム・カポビアンコ/ピエール=リュック・グランジョン『インベンター』は大手映画会社MK2 Films(近年だとジュスティーヌ・トリエ『落下の解剖学』などの海外セールス会社)が海外セールスを担い、ラインナップの中で多額の予算がかけられ制作されたアニメーションであるといえる。声優も、前者はレア・ドリュッケール、マチュー・アマルリックマルト・ケラーといったフランスの国民的俳優、後者もスティーブン・フライ、マリオン・コティヤールデイジー・リドリーといったハリウッドを代表する俳優たちがキャストを務めており、作品への力の入れようが理解できる。

『マーズ・エクスプレス』(ジェレミー・ペラン監督)



しかしふたを開ければ、前者は『攻殻機動隊』などの日本のSFアニメーションに対するオマージュは理解できるが、異邦人の描写がクリシェでしかなく、白色化されたフランス市場向け映画祭映画の再生産でしかない点にげんなりさせられる(実際この作品のプレミアはカンヌ国際映画祭だったことからもこれらはすぐに理解できることだ)。また後者はアメリカ製の人形アニメと、一方でヨーロッパ市場を意識した平面アニメのあまりに中途半端な融合に不気味さしか感じず、ヨーロッパ科学史観の焼き増しも重なって、どこに向かって何を伝えたいのかも理解不能な凡庸極まりない作品にとどまっているとしか感じられない。結果として両作品の受賞理由は、潤沢な予算の計上によるアニメーション表現と物語性の順当な出来でしかない。これらはアートアニメの持つ、冷徹さやメディア批判の要素と相いれるはずがない。

 

また日本映画の受賞理由も、正直理解不能である。今回「傾奇賞」を受賞したのは、岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』であるが、仮に日本映画に賞を授与する必要があるのであれば、潤沢な予算とコンテンツ制作のスタジオによって製作された「大作」としての本作品よりかは、映像表現には難はあるが二度のクラウドファンディングによって執念をもって作品を作り上げ、弁士を起用することで独特のナラティブを作り上げる野心を見せた塚原重義『クラユカバ』の方がよっぽど傾奇者としてふさわしい。ある意味『アリスとテレスのまぼろし工場』は、工場の人災がテーマとなりながら、1950年代以降の社会問題やそれに対して土本典昭や佐藤真らが行ってきた映画実践から遠く離れ、あくまで10代の痴情のもつれに仕上げるという点では傾奇であるといえるのかもしれないが、岡田の作風に特段の変化が生じたわけでもなく、また現実の諸問題から目を背けようとする主人公たちの態度を果たして映画的といえるかは疑問でしかない。かくして受賞結果はアートではなく商業としてのアニメーションこそが、「映画祭向け」の作品であるとお墨付きを与える保守的なものとなってしまった残念極まりないものとなってしまったのである。

『アリスとテレスのまぼろし工場』(岡田麿里監督)

・「世界の潮流」部門

今年のフォーラム部門の特集は、「ドキュメンタリーとアニメーション」というものであったという。ドキュメンタリーとアニメーションの関係について、例えばコンペ部門で上映されたイザベル・エルゲラ『スルタナの夢』(本作品については第36回東京国際映画祭に関する拙稿を参照してほしい)は、スペインのトランスジェンダーリズムの哲学者ポール・B・プレシアドとの共同作業を通して、ドキュメンタリーからアニメーションへのトランジションと彼からの手紙をナレーションに活用することによる両者の融合を果たしていることがわかる。両者は切り離されない関係であり、また得てして同じ方向を向くことができる点において同志的な関係性を有するのである。


その中で、山形国際ドキュメンタリー映画祭2023で審査員特別賞を受賞し、大きな反響を呼んだエキエム・バルビエ/ギレム・コース/カンタン・レルグアルク『ニッツ・アイランド』は、ドキュメンタリー&アニメーション(ゲーム)によるメディア批判であったことがあげられるだろう。本作品は、全編オンラインゲームのプレイ映像によって構成されており、映画クルーは舞台となるサバイナルゲームにログインし963時間にわたってキャラクターへの取材を試みる。彼らはゲームの中で自らの人生や哲学を語りそれをゲームや現実の中でどのように実践しているかを見せていく。しかしながら、コロナ禍によるロックダウンが背景となる本作品は、徐々にこれがゲームか現実かというメディウムそのものを思考するようになっていく。ハルーン・ファロッキの晩年の作品のようにゲームというメディアを思考する中で、作家や対象たちがドキュメンタリーかフィクションかを思考するようになるダイレクト・シネマの系譜を受け継ぐ本作品は、アニメーションとドキュメンタリーの二項対立を拒み、映画の在り方そのものを考えさせていくようになるだろう。

『ニッツ・アイランド』(エキエム・バルビエ、ギレム・コース、カンタン・レルグアルク共同監督)

まとめ

新潟には初めて足を運んだが、映画祭の立地も大変よく(余談ではあるが山形同様食事や酒がおいしいという楽しみもある)、また取材することができなかったが、アニメーション・キャンプも充実したものであったという。XといったSNSでは映画祭運営に対する問題点も指摘されていたが、個人的には些末なことであり来年以降回数を重ねることで改善されていくだろう。作品ラインナップだけではなく、教育的なあり方や特集企画といった古典回顧の立場も含めて、来年以降「アニメーションの首都」としての新潟に映画関係者はもっと着目するべきであるといえる。
ただ同時に、アニメーションは「アート」なのか商業なのかという広範な議論は重ねられるべきである。その中で今回の受賞結果は後者の側面が大きく、報告者はそのことに対し一方的な批判を重ねていることが問題点としてある。より発展的に応答するためには、後者の最先端にも触れておく必要があるだろう。それは、次節であるAnimeJapan 2024取材報告に委ねたい。

〇アニメーション「コンテンツ」の未来とは?:AnimeJapan 2024報告

2024年3月2日に東京で開催されたCrunchroll Anime Awards(クランチロール・アニメ・アワード)の受賞結果は、報告者に一つの衝撃を与えた。ソニー・グループが保有する米ストリーミングサービスCrunchrollが2016年から開催している本アワードは、日本のアニメーション作品を対象に、アニメ・オブ・ザ・イヤーなど様々な賞を授与し功績をたたえる祭典として、ジャパン・アニメーションに特化した国際的に高い位置づけを持っている賞レースであると言えよう。

報告者が驚いたのは「最優秀長編アニメーション部門」作品のノミネート作品に、ある作品がノミネート候補作品にすら選出されていなかったことである。それは当然ながら『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)のことである。トロント国際映画祭で北米プレミアされたのち、Goodfellas(旧Wild Bunch International)のワールド・セールスの元、アメリカでもGKIDS配給で2023年12月8日に公開され、ゴールデングローブ賞アカデミー賞のダブル受賞、宮崎作品の過去の興行収入を塗り替える成績を出すなど高い評価を得たこの作品が、なぜCrunchrollアワードのノミネート作品にすら選出されていないのか、多いに疑問が残るのは想像に難くないだろう。

実際本部門の受賞作品である『すずめの戸締り』(新海誠)は、日本で2022年11月に劇場公開されたのち、第73回ベルリン国際映画祭コンペティション部門(2023年2月開催)の一作品としてセレクションされ、海外配給をWild Bunch International(当時)が担ったことで、アート系アニメーションとして全世界でライセンスソールドアウトするという大きな結果を生み出した(これは、先述した『君たちはどう生きるか』と完全に同じである)。このことは、新海誠というアニメーション映画監督を、世界が「シネアスト」(映画作家)として受容したことを意味する。では新海、ひいては細田守といった海外でシネアストとして受容されるアニメーション監督たちの先駆けとなった宮崎の作品は、アワードを受賞した新海の作品とは真逆にどうしてノミネート候補にすら選ばれなかったのだろうか。

その理由として、アニメーション産業研究の専門家である一藤浩隆氏は「ジャパン・アニメーションがアート以上にコンテンツであることを訴求しているから」だと端的に推測する。一藤の指摘では、宮崎駿はアートアニメーションの紛れもない作家として大衆の人気を誇ったのは紛れもない事実だが、それはスタジオジブリというブランドの保持というIP(知的財産)コンテンツの保持とは真逆の在り方であるのだという。自らが最前線に立つことは、アート>コンテンツの関係を生み出してしまう。商業アニメーションとは「コンテンツ」であり、アニメーション産業の長期化やひいてはファンが望むのは、「世界観」の保持と「メディアミックス」化の柔軟さである、それが「コンテンツ」としての戦略につながる。Crunchrollはまさしく「コンテンツ」としてのアニメーションの位置づけを重要視しており、それと相反する宮崎の作品は評価の対象外になってもおかしくはない。一藤の指摘を簡潔にまとめるとこのようなことが挙げられる。

それには、アニメーションが映画以上に集団制作であることが一つの要因としてあるだろう。その中でテレビアニメーションにおいては90年代以降の製作委員会方式への転換が、既存のファン獲得の戦略の変化を促したと言える。つまり「一パーセントのコアなファン」ではなく「二次市場の拡大」という形への変化である。映画とアニメーションには、映像表現で何かを追い求めるという点で本質的な差異は存在しないが、こうした変化に映画界は全く追随できていないがゆえに作家であれブロックバスターであれ訴求力を生み出せていないということに、残念ながら映画人や映画批評家、研究者は自覚的にならなければならないのである。

実際、昨年に開催された第36回東京国際映画祭に併設されたマーケット(TIFFCOM)において最も商談成立件数が多かったのが、テレビアニメーションに関する分野だったことも報告されている(詳細は、TIFFCOM2023マーケットレポートhttps://tiffcom.site/wp-content/uploads/2024/02/Market_Report_2023.pdfを参照せよ)。割合を見れば理解できるように、テレビアニメーションは映画(実写)の約2倍の商談件数を打ち立てたことが理解できる。そうした現状の中で映像メディアの現在を考える時、映画を専門にしている者も「コンテンツ」としてのアニメーションの議論から逃避することはできないだろう。

そこで報告者は、「コンテンツ」としてのアニメーションの最大の祭典であると言える3月23日から24日にかけて開催されたAnimeJapan 2024のパブリックデイを取材する機会を得た。パブリックデイを通して「コンテンツ」が観客にどのような訴求を生み出しているか、そして「それでもなお(malgré tout)」どのように「コンテンツ」から「作家」性を見つけることが出来るかを少し考えてみたい。

 

・AnimeJapan 2024

そもそもAnimeJapan とはどのような祭典なのか。このイベントは、2013年まで開催されていた2つのアニメイベントである東京国際アニメフェアとアニメ・コンテンツ・エキスポを統合させる形で2014年から開催されているイベントである。このイベントの前身の性質から理解できるように、2004年から開催されている前者の「日本のアニメーションを世界に発信し、商取引の場を」(発起人:石原慎太郎)というコンテクストが受け継がれているイベントであり(註:それが故に国威発揚と結合することもあり、本年度はアニメーション制作会社「サテライト」ブースで、2025年に大阪で開催される万博の広報活動がなされていた。理由としては河森正治が関与しているためである。だが、様々な問題が指摘されている中で、果たしてうまくいくのかは不透明なのではないだろうか)、パブリックデイ(3月23-24日)とビジネスデイ(3月25-26日)の二部構造に分かれながら、一般公開されている前者でさえも各会社によるプロモーション見本市の性格を持つ巨大展示(+トークイベント)によって展開されていることが特徴である。

 

報告者は本業が映画研究の専門家である以上、どうしても映画会社がどのようなブースを設置しているかに目が向いてしまった。今回パブリックデイに出展していた主な映画会社は東宝東宝映像事業部)、東映東映アニメーション)、KADOKAWA(アニメ)、松竹(松竹ODS)、日活、アスミック・エース(J:COM)といった会社である。ブースを見学してみると、例えば東宝は『呪術廻戦』や『SPY×FAMILY』といった大型コンテンツを保有しながらも、映画監督山下敦弘がアニメーション作家久野遥子とタッグを組みロトスコープの形式を用いて日仏共同製作するアニメーション映画『化け猫あんずちゃん』(2024年7月公開、共同制作:Miyu Productions)といった野心的な新作発表もなされており、バランス感覚のあるラインナップであると感じさせられた。

Toho Animationブース(AnimeJapan 2024)


松竹は配給という形で様々なアニメーションの劇場公開に携わっている経験を活かし、今年度も『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(2024年1月26日公開、バンダイナムコフィルムワークスとの共同配給)や、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編』三部作(一作目は2024年9月6日公開、バンダイナムコフィルムワークスとの共同配給)といった既存のテレビアニメーションの劇場版から、アニメーション映画単体としては、敷村良子の同名小説の初のアニメーション映画化となる『がんばっていきまっしょい』(10月25日公開)や、片淵須直監督の新作『つるばみ色のなぎ子たち』(制作中)のプロモーションなどが存在感を示し、松竹の重厚な配給作品のラインナップの一端を示していたといえるだろう。また日活は、ブース自体は小ぶりでありながらも制作にかかわったアニメーションのキャスト声優陣のトークショーを行うことで存在感を示しており、期間中6回実施したトークショーで多くの来場者を集客していたのが特徴的であった。

松竹ブース『がんばっていきまっしょい』(AnimeJapan 2024)

日活ブース+ステージ(AnimeJapan 2024)


トークショー
コミックマーケットの企業ブースと異なり、AnimeJapanの場合、ブースでの展示や物販以上にトークショーが充実しているのが特徴的であろう。通常、作品ごとに時期や場所が分かれて実施されるトークショーが、AnimeJapanでは主に3つのステージ(+Exhibitorのブースでの整理券配布による無料のステージ)で集合的に実施される。そのため観客は、多くのアニメーションの最新情報に触れることができる(一部ステージはオンライン配信の視聴も可能)。アニメーションのファン(アニメフィルとでも呼称すれば良いのだろうか)にとっては、またとない機会になっているのではないだろうか。報告者も、映画作品に関連する5つのステージを取材する機会に恵まれた。以下特徴的なものに関して簡単に内容をまとめていきたい。

 

まずはやはり新作映画としては、23日にBlue Stageで実施された、長井龍雪監督と岡田麿里脚本による長編4本目『ふれる。』(2024年秋全国公開、東宝アニプレックス共同配給)に関するトークステージが重要である。最新情報では、長井本人から長編3本目『空の青さを知る人よ』までの舞台であった秩父という場所から、高田馬場(東京)へのトポスの移行が発表されたが、長井によるとこれは脚本の岡田が長く住んだ場所であることが理由であるという。三本目までの舞台であった秩父という土地も、彼らの住んだ場所であり、今作もトポスが変化するものの、制作者の足跡史を駆け回ったあとの、いわば一つの「方法」を示す映画作品になると考えることができるかもしれない。

『ふれる。』(2024 年 秋 全国ロードショー (C)2024 FURERU PROJECT)トークショー(2023年3月23日)

公開された映像を拝見する限り、ややホモソーシャル的ではあるという所感は感じつつも、今作のテーマとして幼馴染の関係の変化や上京の物語というこれまでにはあまり見られてこなかった要素が示されていることも特徴的であろう。前作までに描かれてきたキャラクター間の関係の変化と今作がもたらすトポスの変化という2重の変化、ひいては『空の青さを知る人よ』のメインキャストとして本トークショーに登壇した若山詩音からの問いかけに際し長井が応答したように、キャストの選出に何かしらのフレッシュさをもとめるという実験を重ねていく手法が作品にどのような映画的逸脱をもたらすのか。今後注目していくべき作品であるのは間違いない。

また同日Green Stageで実施された『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』キャスト陣によるトークショーでは、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第一章』(2024年9月6日公開)に関する最新情報とともに、前作である『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 NEXT SKY』(2023年6月27日公開)が、2024年4月20日・21日に開催される島ぜんぶでおーきな祭 -第16回沖縄国際映画祭- アニメーション部門へ正式出品(Official Selection)されることが発表されたことも特徴的であろう。既存のテレビアニメーションの劇場版が国際映画祭のセレクションに選ばれることは近年では稀な事態であり、また『ラブライブ!』シリーズの劇場作品が国際映画祭で上映されることは本作が初めてのことである。映画作品として国際映画祭で上映され、いかに受容されるか注目していきたい。本作品は4月21日15時10分より上映が予定され(入場無料)、キャストによる舞台挨拶及びレッドカーペット登壇が予定されている。

oimf.jp

 

24日にCreation Stageで開催されたツインエンジン社が制作・配給に関わっている映画作品の監督鼎談は、作家としてのアニメーション映画と、コンテンツとしてのアニメーションをいかに融合していくかについて映画作家たちのそれぞれの立場が示された場として重要な意義づけを持つだろう。『劇場版モノノ怪 唐傘』(中村健治監督、2024年7月26日公開、EOTAとの共同配給)を除き、他3作品となる『好きでも嫌いなあまのじゃく』(柴山智隆監督、5月24日劇場公開及びNetflix世界独占配信)と『クラユカバ』・『クラメルカガリ』(塚原重義監督、4月12日同時公開、東京テアトルとの共同配給)は完全にオリジナルのアニメーション映画となっており、今トークショーではオリジナル映画が苦戦している現状の中でそれでも彼らが作品を作ることの意義、そして作家としての意地が語られた。オリジナル映画作品制作の意義として、中村はテレビフォーマットからの逸脱であり、ひいては「映画とは何か?」という思考を通してアニメーションというメディアの省察へとつながることを示唆し、柴山は原作のアダプテーションという形式からの逸脱の面白さ、塚原は探ることや共有して議論することによって修正に修正を重ねていく作業を通し、既存の思考から逸脱していくということにあると指摘している。この三者に共通する「逸脱(Écarts)」というテーマが、作家たちがアニメーション映画の技法を洗練化させ、コンテンツとアートの間の懸隔を埋め合わせる大きな可能性に満ちているのではないかと思わされる。

ツインエンジン監督鼎談(AnimeJapan 2024)

踏み込んで指摘するならば、報告者はNIAFF2024で『クラユカバ』を事前に拝見する機会に恵まれていたこともあり、偶然ではあるが塚原監督とお会いし、弁士である坂本頼光氏の起用理由について伺う機会を得た。塚原が私に語るには、坂本は塚原が「インディーアニメ」を試作していた時からの仲間の一人でもあり、坂本の起用によって作品の時代感を構成することが可能になったという。坂本の弁士としての在り方は、作品全体を通して芸術的なナラティブ構築の重要な要素となりうる。その内容は、劇場でぜひ体験してほしい。

 

また映画作品が公開された後に再び放送が開始されるアニメーションについても少しふれておきたい。2018年から放送されているテレビアニメシリーズ『ゆるキャン△』は、2022年に『映画 ゆるキャン△』(2022年7月1日公開、松竹配給)として第二期(2021年)の後の成長した後の主人公たちのキャンプ場建設の姿が描かれるストーリーを経て、2024年4月7日より再び高校生偏としての第三期が描かれるという形式をとっている。
『映画 ゆるキャン△』はそれぞれの進路をとった主人公たちが、再結集によりキャンプ場を作り上げる姿を描き出したが、2023年に濱口竜介ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した『悪は存在しない』(4月26日公開、Incline配給)はまさしく本作品への一つの映画的回答を示したのかもしれない。どちらも新型コロナウイルス感染拡大による閉塞感が作品の背景に存在し、前者はキャンプ場建設による労働の充足と同時に存在する一つの疎外が交錯するさまを、後者はキャンプ場の誘致によって苦慮する土地の人々への受苦と誘致する側の疑心が一つの事件とともに奥深い台森の中で交錯するという様相を描いた。どちらも結果として大地の抵抗にあらがうことはできない人間のさまを映画というフォーマットを通して描こうとするが、無垢の積極的な側面を拾い出して希望を見出そうとする前者に対して後者は無垢が故の絶望を映し出すことで空間からの逸脱を見出した点でやはり映画的であると言わざるを得ない。この映画的応答がなされた今、2024年4月から放送がスタートする三期はいかなる大地の抵抗を示していくのか、今後の展開に注目していきたい。

『悪は存在しない』(濱口竜介監督)



『映画ゆるキャン△』(京極義昭監督)


3月23日にGreen Stageで開催されたトークショーの中で黒沢ともよが言及する「こたつ」(第二期)は、初歩的ではあるものの、文化資本格差の中で「他者のハビトゥスを共有しようと試みる」という点で極めて興味深く、また花守ゆみりによる第一期一話への言及も本作品における一つのブリューゲル的なもののポイエーシスとしての立ち位置へと回帰しようとする点では重要である(cf. J. Rancière, Mallarmé : La politique de la sirène, Paris, Fayard, coll. « Coup double », 2012)。トークショーには彼女たちの「ゆるい」トークの振舞ではなく、一つの政治学が存在していた。

 

まとめ

このように、AnimeJapanの内容をざっくり報告していったが、とはいえ「コンテンツ」としてのアニメーションの現在が示された場を「芸術」の現在として論じることの難しさも痛感させられた。結果としてプレス取材はトークショーやブースの内容紹介報道に注力せざるを得ず、発展的な議論の喚起は難しくなるだろう。

そこで一つ暴論ではあるが、AnimeJapanに提起してみたいことがある。それは、ステージのようなシステムを利用し、近隣の劇場を借りてアニメーション作品の先行上映を行うとともに、同じ作品のプレス向けの試写を実施するということである。映画やアニメーションのジャーナリズムは、作品を「コンテンツ」以上に充実した「作品」として論じることによってはじめて成立する部分が一つの側面として存在している。「作品」として紹介されることでアニメーションファンにとらわれない新規の層を獲得することが可能となり、結果として文化的な位置づけを可能にすると思われる。メディアの分裂によって、「国民的なもの」が消え去った今、メディア文化史のコンテクストを踏まえながらもアニメーションを越境する形で考えるためには、アニメフィル消費社会の中の内輪ノリは維持されながらも結果として大衆によって「忘れ去られる」ことへの抵抗が必要である。「コンテンツ」が中核となるがゆえに映画やテレビジョンのように公共的なアーカイブ構築が難しい現状、多くの書き手の参入を促す点では効果的でなないだろうか。

また映画的な観点から考えれば、なぜ映画会社が実写映画ではなくアニメーションに力を入れるのかということを考えるために、銀幕というフィールドでアニメーションを検討することも十分効果的であろう。要因を「興行やマーケットの問題」という業界の問題のみで浅考するのではなく、あくまでも映像の美学的分析を行うことで、作品から映画会社の美学的立ち位置を論じることも重要である。それこそ映像研究者・ジャーナリストのあるべき姿ではないだろうか。

 

終わりにかえて

「アート」と「コンテンツ」のせめぎあいの中で、日本におけるアニメーションの在り方はまだまだ不明であると言わざるを得ない。しかしながら2つのイベントの取材を通して、その現在地点の一端は見えてきたと信じたい。

 

※2024年4月9日5:06 一部記事内容を修正しました。(更新)

 

(小城大知:映画研究・表象文化論