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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

釜山国際映画祭訪問記(前編:前哨戦から4日目まで)

愚かにも新型コロナウイルス対策の一環で5月から感染症対策が五類に移行した。しかしこのことが、海外渡航の本格解禁という一種の光明をもたらしたのもまた事実である。本記事はこれを利用して、海外映画祭への対面参加を初めて行った映画専門の記者の報告を前後編でお届けする。

 

例年奇数年には、10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭という世界最大級のドキュメンタリー映画祭が開催される。多くの映画ファン、研究者、業界関係者が10月に一堂に山形に結集するというある種の奇祭は、日本が誇る映画文化の豊かさの一端でもあると言える。

 

しかし、10月の同時期に、韓国の釜山広域市で釜山国際映画祭が開催される。1996年から開催されているこの映画祭は、国の資金援助などの後押しもあり今ではアジア最大級の映画祭としての位置を確立した映画祭である。2011年に、「映画の殿堂」(釜山シネマセンター)という世界最大級の映画祭専用施設(+フィルムアーカイブシネマテーク)がセンタムシティ(Centum City)に建設され、現在はそこをメイン会場としながら近隣のシネコンやホールも貸し切って25スクリーン(Communityという旧作の上映含める)の規模で開催されている。またアジア最大級のコンベンションセンターであるBEXCOで開催される併設マーケット(AFCM)は、アジア最大級の映画マーケットとして全世界の映画が売買される貴重な機会であると言えよう。

 

筆者は2021年以降、東京国際映画祭など日本の映画祭は対面で参加しながら、カンヌ・ベルリンといった海外の映画祭にもオンラインで参加してきた。そのため海外映画祭に関しては、「不完全」な参加という状況が続いていた。そのため渡航制限が無くなった今、海外映画祭に今年こそ対面参加しようと画策していた。しかし山形国際ドキュメンタリー映画祭のセレクションも野田真吉監督特集など捨てがたい。どうするべきか迷っていた。

釜山国際映画祭から取材認証が下りたことで、釜山渡航へとかじ取りを切ったのが9月20日。10月出発では飛行機も船も取れない。そのため飛行機の安さを優先し、開幕の4日前である9月30日に筆者は釜山の地に降り立つことになる。

しかし大阪で2024年開催が予定されている万博(戦争体制強化のためでしかないことが見え見えの資本主義の後の祭り)を、2030年釜山で開催を目指しているとのことで空港に着いた瞬間から最終日に至るまで、万博に関するCMやポスターなどをいたるところで目にし失笑することとなった。

 

前哨戦

釜山到着後、映画祭の開幕まで3日あったため早速色々と見学。まずは映画祭が開催される釜山映画センター「映画の殿堂」を下見。とても大きい。国を挙げて出資しているなど映画祭への力の入れ方が、東京と違うことを身にしみて感じる。殿堂の中には様々なシネアストたちの手形が保存されているが、最も興味がひかれたのはやはりコスタ・ガヴラスの手形である。

その後に釜山市立美術館で展示を見て(立て替えすることが決まっているため、解体と保存をテーマにしたクオリティーの高い2つの展示が何と両方タダ!)、さらに別館で日本でも高い人気を誇る美術家イ・ウーファンの展示空間も堪能。その後、2000年代前半まで映画祭が開催されていたナンポ地区に移って釜山映画体験博物館を見学。これも無料の特別展示がクオリティーが高く(映画批評家に関する展示)、釜山の映画への力の入れようを肌身で感じる。近くにある釜山タワーにはさほど惹かれなかったが、目の前にある李舜臣像を見て、在りし日の日本史を勉強していた時を思い出しながら、朝鮮を侵略した日本が償うべき負の歴史を感じる。

博物館や釜山タワーがある公園を降りた後、偶然BNK(釜山銀行)が運営する映画館(ミニシアター)の前を通りかかり、時間がちょうどよかったこともあって、クリスチャン・ペッツォルト監督の新作『Afire』を再見。ベルリン国際映画祭の時期に見た試写はオンラインだったのでスクリーンで見たいと思っていたが、釜山にも東京にも映画祭での上映作品のラインアップになかったので諦めていたため、今回この傑作をスクリーンで見ることができたという至福の一時。さらに上映後映画館のスタッフ(上司が今まさに山形に行っているらしい)から、日本から来てくれたからと『突然炎のごとく』の韓国版ポスターをいただくというサプライズも受け、釜山国際映画祭の参加準備が整った。
10月2日にはキム・ジウン監督の新作『Cobweb』をハダンのCGVで見て韓国のシネコン文化を体験し、開幕前日10月3日、映画の殿堂に行ってプレスパスを受け取る。ゲスト用土産にリュックをいただき、東京国際映画祭とプレス歓迎キットのホスピタリティの違いを感じた。

 

パスについて

筆者は今回プレスパスで参加したのだが、プレスには主に四つの種類がある。

 

赤:審査員、スポンサー、バイヤー、各国映画祭のプログラム・ディレクター級に与えられる最上級パスである。(映画祭チケットが一日5-9枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

黄:ACFMなどマーケットに参加する人間に与えられるパスである。映画祭に加え、マーケット業務、マーケット用の試写などを見ることのできるパスである。(映画祭チケットが一日5枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

青:プレス、業界関係者に与えられる一般的なパスである。筆者に与えられたパスはこの青パスのうちの一つであるプレスパスである。ただしプレスだけには別途赤、黄パスがアクセスできるビデオ・ライブラリーやプレスだけ別途行われる開幕、閉幕、ガラセレクションの三作品の試写上映へのアクセスも可能になるという権利が与えられる。(映画祭チケットが一日4枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

緑:シネフィルパス。映画を学ぶ学生向けに発行されるパスである。(映画祭チケットが一日4枚与えられるが、対面でのチケット予約しかできない)

 

このように多様なパスが存在するのだが、特に緑のパスホルダーの存在が、映画祭を活気づけていると言えよう。後述するが、この映画祭では観客の大多数が20代から30代の若者であり、ボランティアやスタッフも若い人が多く、映画への若者の熱い情熱を感じることができる。

それではここから、作品の紹介をしながら各日の内容報告に移っていきたい。

 

1日目

オンラインチケット予約システムでは翌日の分まで取ることが出来るため、この日からP&I用のわずかなチケットを争奪する争いが11日まで続くことになる。早速翌日の分からラドゥ・ジュデ、ナンニ・モレッティワン・ビンのチケットを確保したものの、ケン・ローチが満席で取れず。近年の作品は微妙なのだがやはり社会派映画の巨匠としてのローチの人気の根強さを垣間見る。

そこからオープンング・セレモニー前に、開幕作品『Because I hate Korea』のプレス向け試写。インディペンデント系の制作ながら立派な娯楽作品として作られている。様々な理由から韓国が嫌になりオーストリアへの移住を決断する女性の成長物語でありながら、過去と現在を交錯させ複層性を描き出している良作であったと言える。上映後のプレス会見の後に、日本を代表する映画ジャーナリストに初めてお会いする機会を得る。開幕式をプレスセンターから眺め見し、アンディ・ラウやチョン・ユンファ、ソン・ガンホ、パク・ウンビンなどスーパースターが登場するたびに沸き起こる歓声を体感する。筆者の一番のツボは、マスター・クラスに参加するために来日していた原一男監督の楽しそうなレッドカーペット。ここから往復2時間かけて映画祭に参加するというハードな戦いが始まることになる。

 

2日目

オンラインチケット予約のために、朝早起きし7時25分ごろ映画の殿堂の中に入ると、直接チケットを買わなければならないシネフィルパスの学生たちが150人以上列をなしていることに驚愕。事前に携帯のSIMカードを入れ替え、8時にチケットを取る。これが後で大惨事になることを筆者はまだ知らない。

悪戦苦闘しながらチケットを確保し、まずは9時から『緑の夜』(ハン・シュアイ監督)のプレス向け試写。中国の名女優でありながら、近年脱税疑惑で一線を引いていたファン・ビンビンの復帰作品だったが、あまりに中身の無い物語の引き延ばしや動きの無さに唖然とする。

怒りに震えながらも、2本目の再見作品、ラドゥ・ジュデ『Do not expect too much from the end of the world』を800人収容規模の大スクリーンで見る。大傑作。あるPR動画の制作のために彷徨う女性の肖像と1981年の『Angela merge mai departe』 (Lucian Bratu)を交錯(対話)させながら、撮影と配信という行為を通して映画そのものへの疑念を呈しウクライナ戦争と東欧危機をぶった斬る。映画が映画たらしめる意義を再確認。

3本目もこれもまた再見ナンニ・モレッティ『A brighter tomorrow』。多くの映画の作り手に送るばかばかしくも最高の映画賛歌であり、映画が集団の産物であることを示すラストシークエンスの大団円も重要な要素である。その後ビデオ・ライブラリーで見たかった作品を見て、その円熟ぶりを堪能した(これは後述する)が、その時に携帯が突然おかしくなり、セキュリティロックがかかって使用できなくなるという大惨事が発生した。

このことに打ちひしがれながらも、何とか気持ちを取り直して最後に王兵ワン・ビン)『Youth(Spring)』を見る。初のカンヌコンペ入りをした中国のドキュメンタリーの鬼才王兵の新作は『苦い銭』の内容を若者向けに特化する形で2014年から2019年に撮影された映像で構築されている。だがいつもの王兵の作品にしては、テイストがかなり軽快であることに違和感を覚えた。カメラは真摯に被写体を捉える。そこに映し出される労働者の彼らは、年齢に比して幼く見える。酸いも甘きも知らないまま、労働に従事させられている彼らのせめてもの楽園としての対話、休憩、食事の姿をカメラは捉える。軽快であるというのは、安い賃金で働かされている日々の裏側なのかもしれない。王兵は、あえて実態から離れた本当の人々の裏側を真摯に撮影するというリスクをとることを選んだのだろう。意欲的な作品であると言える。

 

3日目

オンラインチケット予約に悪戦苦闘した後、走ってベルトラン・ボネロの『The Beast』のプレス向け試写。これがまた素晴らしい傑作であったことを記しておく必要があろう。レア・セドゥ演じる女性がある実験室に幽閉され、様々なキャラクターを演じながら一人の男を追い求める中で自らの野性を見いだしていく様を描く。トリプル・エクラン、ビデオ撮影など映像の実験を巧みに刊行しながら、男と女の放浪と消滅による絶望を見事に炸裂させ、映画の持つべき運動の空間形成が見事な作品であった。

しかしながら2本目に見たセリーヌ・ソン『Past Lives』は、アメリカに移住した韓国人女性と韓国に留まる韓国人男性の初恋の終焉までを描くメロドラマなのだが、あまりに紋切型な移民映画の設定に加え、中身の無い内容の引き延ばしが重なって(とりわけラストの女性が泣くシーンなどが該当するだろう)空虚極まりない作品だったことで失笑してしまった。これだったらキム・ソヨンの『霧(Mist)』を見ればよかったと後悔。

その後、3本目に待ちに待ったホン・サンスの新作『In our day』。いつものホン・サンスの映画でありながら、かなりコメディテイストが強い作品(酒とたばこをやめながら、取材を受けていく中でその欲望が再び出てくるお爺さんの詩人などが特に挙げられるだろう)だったのか、爆笑している人が多く韓国でのホン・サンス映画の見方を学ぶ。

その後ビデオ・ライブラリーで『バクラウ 地図から消された村』で日本でも知られるようになったクレベール・メンドンサ・フィリーオ『Pictures of the ghosts』を見る。この作品は監督自らの映画作りへと移る過去を描く一部、ブラジル映画産業界の歴史を語る第2部、そしてサン・パウロの老舗映画館(現シネマテーク)を軸とした映画と観客の関係性を語る3部構成になっている。ブラジルの映画史を巡るドキュメンタリーとしては興味深いが、シネマ・ノヴォの鬼才グラウベル・ローシャネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの映画が引用されないなど、作家主義へのこだわりが薄いことが疑問視されてもおかしくはないドキュメンタリー作品ではあった。

三日目の最後にはBIFF Theaterという3-4000人が収容できるという超大型の野外劇場でリュック・ベッソンの新作『Dogman』を見る。上映前にベッソンが登場したことで、観客のボルテージがマックスになりながら映画がスタート。親兄弟に虐待を受け、犬と不思議な共存関係を形成する男の犯罪遍歴を描く。しかしながら、動物的な狂気も平坦で凡庸なものにとどまっており、今更感ある設定もとどまって新しさを感じない作品であった。これがゆえにケイレブ・ジョーンズの熱演もあまり報われていなかったこともまた残念極まりない。

 

4日目

この日からしばらく朝9時からのプレス向け試写がない(厳密にいうと朝9時30分から是枝裕和の『怪物』の試写があったようだが、筆者は既に公開時に見ているため見る必要がなかった)ため、すこしゆっくり目に朝7時ごろ起きて、8時に今映画祭最難関の作品のチケットを予約し、無事成功。

まずは一本目バス・デヴォス監督『Here』を見たところ、これが傑作であった。どこか脆さを抱えたスタンダードサイズの映像が、人々の偶然的な出会いを通して語りを始める。その多種多様な映像の言語でもたらされる本作品は、断絶されていた都市と山野部の結合の運動をもたらす。苔という事物が、正しく映画のテーマである生き延びというものの見事な象徴になっておりうならされた。

2本目に見たのはフィリップ・ガレルの新作『Le grand chariot』。ザンジバル集団期以降からガレルの映画通底している家族共同体の形成と崩壊というテーマは、本作にも継承されており、ある家族経営の人形劇団が家父長の死によって崩壊していく様を描く。しかし本作品は、ガレルの作品の中によく見られた放浪があまり見られない代わりに、家族共同体が崩壊へ向かう足取りが軽く、いささか不気味に感じざるを得なかった。

別の映画館に移動し、3本目に先日開催されたヴェニス・デイズでワールドプレミアされた杉田協士監督『彼方のうた』。杉田の12年ぶりのオリジナル作品となる本作は、女優小川あんを主演にある謎の悲劇的過去を持つ女性が多摩地区を彷徨い、様々な人間との邂逅を経て自らの音、そして打ち消そうとした忘却不可能な過去と向き合うということを暗示するさまを描く。杉田はこれまでどこか強さを持ちながら脆い人物たちとの対話を描いてきた。今作品もその路線は継承されるが、小川の演技が冒頭からほぼ映画から浮世離れした感覚がぬぐえず、ようやく地に足の着いた人物となるラストシークエンスの前まで終始違和感を覚え続けた。

上映後杉田監督の挨拶が行われたが、写真だけ撮ってそそくさと失礼し(杉田さん、ごめんなさい)、そのまま4本目となるフレデリック・ワイズマン『Menus Plaisirs les Troisgro』という4時間の大作ドキュメンタリーを見る。ダイレクト・シネマの系譜を受け継いだ対話型ドキュメンタリーの巨匠ワイズマンの新作は、パリの老舗レストラン「トロワグロ」についてのドキュメンタリーであり、食をテーマとした政治的・社会的・文化的な対話が描かれる。そこには料理人だけではなく、消費者(お客)、生産者、近隣のレストラン、そして市民の存在が浮かびあがり、カメラは丁寧に彼らの対話や労働風景を映し出す。レストランについてのドキュメンタリーと聞いてワイズマンの作風が変わってしまうのかと心配していたが、そこは変わらずであったので一安心した。ただし、撮影監督が常連のジョン・デイビーではないのでご注意を。

 

後半戦は、世界三大映画祭の最高賞を受賞した作品や、日本公開直前の話題作品など内容が目白押しである。後編に続く。

 

(映画研究・表象文化論