Re:Public on Web

広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

HAS2024『ハイパーボリア人』(レオン&コシーニャ監督)

2020年まで開催された広島国際アニメーションフェスティバルから引き継がれる形で、2022年から始まったひろしまアニメーションシーズン。2年に一回、広島アステールプラザ(+横川シネマ)を中心に世界各地のアニメーションの潮流を知ることが可能となる5日間が、今年も8月14日から開幕した(8月18日まで)。本記事は、5日間の開幕を告げる作品『ハイパーボリア人』(レオン&コシーニャ)について最速レビューした内容である。『オオカミの家』(+『骨』)が、日本で大ヒットし熱狂的なファンを生み出した2人組が放つ今回の新作は、カンヌ国際映画祭監督週間長編部門で世界初上映され、今回ひろしまアニメーションシーズン2024で早くも日本初上映される運びとなった。果たしていかなる作品なのか、振り返ってみたい。

 

 

レオン&コシーニャの新作『ハイパーボリア人(Los hiperbóreos)』は、単なるアニメーション映画としては形容できない複雑な作品である。この作品は一見フィクションの形式をとりながらも、詩人ミゲル・セラーノの評伝的な要素を含んでおり、エクスペリメンタルなドキュメンタリーとして位置づけられる。セラーノは『楽園の蛇』や『ヘルメティック・サークル』などの著作で知られており、本作でも言及されるユングヘルマン・ヘッセの研究者としての側面を持つが、そのナチズムへの傾倒ゆえに近年では批判の対象となってきた。

『ハイパーボリア人』(レオン&コシーニャ共同監督、2025年公開:配給ザジフィルムズ



本作の主人公は、女優であり心理学者でもあるアントニア・ギーセンである。彼女はレオン&コシーニャに相談する形で、セラーノを再考し、再評価するドキュメンタリーを構想する。映画は、この準備過程自体、展示や舞台装置の転換も明け透けに公開することで、ドキュメンタリー以上に厳格な演劇的要素を帯びる。ギーセンは外部の観察者として、そして役者として忠実にセラーノを描き出そうとするが、その過程において映画は単なるアニメーションの枠を超え、実写映画と分類されうるような錯覚を観客に与える。意外なまでに重苦しいショットや長回しを多用したカメラワークが付随されることで、観客は、アニメーションの形式でありながらもリアリズム的な映像体験をすることをある種強いられるのかもしれない。結果的にアレクサンダー・クルーゲが『サーペンタイン・ギャラリー・プログラム』(1995-2005年)で試みたように、フィクションとノンフィクションの境界が揺さぶられ、視覚と思想の複合体として機能する映像作品となっているのだ。

『ハイパーボリア人』(レオン&コシーニャ共同監督、2025年公開:配給ザジフィルムズ

だが物事は単純ではない。レオン&コシーニャは、本作品をドキュメンタリーという形式に陥れることを禁じた。6年かけて執筆した脚本を破棄し、わずか2か月で書き上げた脚本を採用することで、蓄積的な「アーカイブ」を破棄する選択を行ったのである。この作品は、セラーノの評伝ではない。むしろ、セラーノの理念と自らの映画制作をどう衝突させるかという奇妙で美しいマルチメディアの実験である。チリの歴史を分析する模範的なドキュメンタリーは、パトリシオ・グスマンやイグナシオ・アグエロに任せればよい。アントニアは、レオン&コシーニャの野心に付き合わされる形で、アニメーション映像に「ログイン」し、様々な人物を演じさせられる中で、彼らの真の目的に対峙する運命を背負う。そう、MUDIの創設者であり、チリの権威主義の象徴ともいえるハイメ・グスマンへの批判的分析が、この作品の後半の核を成している。

ハイメ・グスマンへの批判は、レオン&コシーニャの作品群に通底するテーマであり、チリの苦難の歴史の総括が終わらないことを示している。アントニアは、アップルコンピュータに囲まれた警察官を演じ、ハイメの独裁と暴力に加担し、さらには動物の殺戮に関与させられる。フィルムが盗まれるという事実は、権力によるアーカイブの隠蔽そのものであり、アントニアはその中で精神の分裂に苛まれる。民衆が連帯すべきアーカイブが存在せず、最終的には彼女個人の責任に帰されるからだ。レオン&コシーニャは、この暴力を和らげようとした。カメラは狩猟の手段でありながら、その暴力性を優しく仕上げたのである。さもなければ、世界中に蔓延する暴力の卑劣さをそのまま再現してしまうことになっただろう。

ここで思い出されるのは、クリス・マルケルの写真論『もしラクダを4頭持っていれば』の冒頭である。「写真とは狩りなのであり、それは殺人本能のない狩猟行為なのである。それは天使の狩りである。追跡し狙いを定めてうつ。死の代わりに永遠性を成すのである。(中略)生があり、その複製された生がそこにある。そして写真は複製の世界に属しているのだ。ああ。他方でここではそれが罠なのだ。顔たちに接近することで、人間や動物の生や死に参加しているという印象を抱くだろう。しかしそれは本当ではないのである。もし何かに参加しているのだとすれば、それはイメージにおける生や死に参加しているのである 。」写真は複製の世界に属しているが、そこでの狩りは罠であり、人間や動物の生や死に参加しているという錯覚を引き起こす。カメラは実際に殺戮を犯すわけではないが、虚の世界に没入させ、アントニアの存在意義を複製によって正当化する。劇中で多用されるクローズアップは、虚への没入を促し、ヒトラーの永遠性という虚構を信じる映画作家たちの世界に誘い込む。そして、アントニアに注ぎ込まれるアーカイブ映像もまた、ただの虚の複製に過ぎない。
複製への従順さが恐ろしいのだ。だからこそ、沈黙し、独白に耳を傾ける必要がある。虚の没入から脱し、遠くから眺めて考えねばならない。アラン・セクーラが指摘するように、「従順で孤立した観衆に対して、芸術がまったく空想的な超越や偽りの調和を差し出すことによって、芸術がどれほど抑圧的な社会秩序を回復させているのか」を理解することが求められる。アントニアの敗北は、マルチメディアの融合による次の段階への試金石となりうる、そのような力強い闘争の可能性に開かれた作品として本作品は大きな意義を持つだろう。

 

(小城大知:映画研究、表象文化論