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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

FIDMarseille2024『Contretemps:Night is a day』(ガッサン・サルアーブ)

FIDMarseilleは、1989年に創設されて以降フランス南部の港町マルセイユで毎年開催されている映画祭である。これまでにシャンタル・アケルマン(向こうから)、ワン・ビン鉄西区)、パトリシオ・グスマン(ピノチェト・ケース)といった名だたる映画作家たちの作品が、国際コンペティションの最高賞を受賞するなど、現代の作家の仕事の意義を検討するために重要な位置づけを持った映画祭であると言えよう。本映画祭の国際コンペティション部門から、一作品をピックアップしたい。

 

・『Contretemps:Night is a day』(ガッサン・サルアーブ)

ガッサン・サルアーブの新作『Contretemps:Night is a day』は、2019年から2023年にかけてレバノンにおける反政府運動、そしてその周縁の光景を撮影・結集された345分にわたるドキュメンタリービデオグラム(サルアーブ自身がビデオであるとクレジットしている以上、今作をビデオと記載するのが礼儀だろう)である。2019年のレバノンといえば、日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンが秘密裏に日本から出国した際の目的地となった場所として、奇妙な形で話題となった場所である。このことからも理解できるように、レバノンは腐敗・汚職が蔓延し、人々は不満を示し連日のようにデモに立ちあがっていた。サルアーブは単なる中立な記録者ではない。彼自身も連日のようにデモに立ち上がりデモの記録を撮影し続けている(おそらく、ここで映し出されるのはデモの記録であり、サルアーブ自身このような映画にするつもりは当初はなかったのではないだろうか)。何度も映し出されるデモの様子は、一見すると差異がないように見えるかもしれない。だが、デモの積み重ねはボディーブローのように権力に効き始める。音をかき鳴らし、声を上げるという極めて「平和的に」行われるデモは、警察の排除やベイルート港の爆発によって緊張感の高まるものとなる。このような流れはクリシェでしかないが、本作の重要な点は、愚直にもこのクリシェを映し出すことで、民衆に蜂起を促そうとするわかりやすい意識改革なのである。事実、2023年10月から何が起こったかを思い出してほしい。イスラエルはガザへの大量虐殺を再開し、レバノンにも武力侵略を拡大させた。サルアーブは、その中で戦争に反対し、体制崩壊に決起する多くの人々にカメラを向ける。まさに、映画というメディアの意義としての「反情報」=抵抗を体現しようとしている監督なのである。

『Contretemps:Night is a day』(ガッサン・サルアーブ監督)

だが、コロナ禍によってレバノンにおいても運動が失速することは認めなければならない。サルアーブはそこで、本作品の「映画」としての在り方を再び省察する必要性に迫られているともいえる。この映画は、サルアーブ単独で撮影されている以上、人がいなければ「孤独」なのである。その時、サルアーブは夜に可能性を見出そうとする。夜こそが彼の創作の原動力なのだ。夜景・作品が上映される映画館・暗闇。集団の活力からパーソナルな詩へと映画の性質は変化する。「映画作家」は本当に民衆と連帯できるのか?ブルジョワジー的な側面をいかに打破できるのか?前作『山(The Mountains)』(2021)という私的かつ詩的な映画を撮り上げたサルアーブは苦悩し続けた結果、やはりデモの現場に戻るという回答を獲得した。しかし悲観的なあり方は忘れずに。マスクを着け、デモ隊は前進する。矛盾は撮影しながら向き合うしかないのだろう。3時間を過ぎたあたりから、デモ隊と夜の映像は明確な形で分離し始める。前半部は、集団のパトスが映像を支配する。だが後半部分になって集団のパトスと孤独のカタルシスが交錯することで、本作は単なる記録データではなく、単なるビデオでもなく、紛れもない映画作品として結実する。そのことこそが、パレスチナという虐殺の受苦に苦しむ人々への、静かでありながらしかし迸る情熱のこもったメッセージを届けることを、サルアーブという映画作家に可能にしているのかもしれない。

 

小城大知(映画研究・表象文化論