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TIFF(トロント国際映画祭2024)訪問記②:ジャンルを超えて映画作りを思考すること―宇賀那健一監督(『ザ・ゲスイドウズ』)インタビュー

トロント国際映画祭訪問記、第2回目となる本記事では出品監督へのインタビューを掲載する。49回目の開催となる本映画祭には、日本で制作された映画作品が5本出品されたが、その中でとりわけ異彩を放つ作品が、Midnight Madness部門に出品された『ザ・ゲスイドウズ』(宇賀那健一監督)であると言えよう。多彩な作品を監督し、その一本一本が国内海外問わず多くの絶賛を得てきたこの映画作家が今回トロントで世界初公開する本作品は、「バンド物」を「ジャンル映画」の手法で描き出そうとする意欲的な作品である。だが、宇賀那健一という作家ほど「ジャンル映画」という既存の枠組みにとらわれることのない自由な映画作りを志向している映画作家もそういないのではないのだろうか。今回、トロントで宇賀那監督に映画制作における哲学を伺った。

宇賀那健一:1984 年 4 月 20 日生まれ、東京都出身。青山学院大学経営学経営学科卒業。高校時代から役者として活動。現場を経験する中で得たノウハウを活かし監督業をスタートし、2008年『発狂』で初監督。2016 年『黒い暴動♥』で長編映画デビュー。これまでの監督作品に『魔法少年☆ワイルドバージン』(2019)、『異物―完全版―』(2022)、『Love will tear us apart』(2023)など。『ザ・ゲスイドウズ』(2024)は、第49回トロント国際映画祭Midnight Madness部門で世界初上映され、日本では2025年春に公開予定(配給:ライツキューブ)。

 

・まずは、『ザ・ゲスイドウズ』の第49回トロント国際映画祭でのワールドプレミア(註:2024年9月11日23:59に、ロイヤル・アレクサンドラ・シアターにて開催)、誠におめでとうございます。

―ありがとうございます。

 

・私もそうなのですが、監督にとっても今回がトロント国際映画祭は初めての参加だと思います。映画祭への参加を通して感じたことなどあればお聞かせください。

―まずはやはりトロントは華々しい場所だなと。来てからいくつか作品を拝見したのですがどれも本当に面白く、なおかつ映画祭の方のケアの手厚さが素晴らしいなと思わされますし、改めて凄い映画祭にお招きいただいたんだなと感じています。同時に、今回様々な海外のエージェントやプロデューサーの方々とお話をさせていただく中で、「これから、あなたはどのように映画を作っていきたいんですか?」と尋ねられることが多々ありました。この映画祭への正式出品は自分の目標の一つでもありましたので今回の機会に深く感謝しながらも、同時に次のビジョンをきちんと持っていないといけないということ、そしてそのために何をクリアしないといけないか、今後もこの映画祭や次の国際的な上映の場を作っていくためにどうすればよいかを考えさせてくれる場であると感じています。楽しさと厳しさが共存しているという感じですね。

 

トロント国際映画祭のMidnight Madnessという部門は、この語が確立してから長く久しい「ジャンル映画」という類の作品がセレクションされる傾向があります。そして監督の過去の作品の国際映画祭でのセレクション傾向もそれに準じていると思われるのですが、一方で宇賀那監督の近年の多彩な制作活動からは「ジャンル映画」作家にラベリングされうることへの抵抗も感じられます。このことに関して、監督のお考えをお聞かせいただけますか。

―最初のうちは、「色がつけられる」ことが嫌だなということを感じていました。つまり(日本ではよくある傾向なのですが)こういう作品を撮る監督だというイメージを持たれたくなかったというのがあったんです。僕自身、ホラー映画ひいてはジャンル映画と呼ばれるものは大好きなのですがそれだけを撮る映画監督だと思われたくなかったので、初期のころは一本撮るたびに違うジャンルの作品を作るように心がけていました。ただ最近になると、とりわけ『異物―完全版―』(2022)以降そうなのですが、社会が不条理なものと隣り合わせであるなと感じるようになりました。それは例えば地震、コロナ禍といったものがあげられるのですが、何かわからないものと共存し続けていることへと目が向くようになりまして。僕たちは理解できないものへの恐怖からそれを言語化しようとしますが、最近はそのことへの違和感を持つようになりました。だからこそコロナ禍のように、何がどうなるかわからない、言うなれば「普通」が通じなくなる時代の中で、そのようなものを映画(イメージ)に残したいという気持ちが強くなりました。最近だと、A24(米国の映画制作・配給・セールス会社)制作の作品だとか、『チタン』(ジュリア・デュクルノー監督、2021)といった作品のようにジャンル映画でありながら、ジャンルを越境することで新たなジャンルに突入する作品の出現も大きいかなと思っています。ジャンル映画って一種の歌舞伎のようなもので、一つの定型文みたいなものがありますよね(例えるならば、ホラー映画の常識みたいものがある)。僕たちは、それを100年以上にわたる映画史の中で理解しているわけです。今は、所謂「スーパー歌舞伎」のような作品を作ることが必要になってきたと思っていて、日本ではまだまだ根付いていないのですが、海外の映画祭ではジャンルの歴史を踏まえたうえでどうやってジャンルを超えていくかという挑戦の時代が始まったと思っています。この二つを意識しながら、映画作家としての自分の立ち位置を模索することが、「ジャンルへの抵抗」であるかなと思っています。

 

・そのような模索の中で今回生まれた作品が、音楽映画としての『ザ・ゲスイドウズ』という作品というわけです。本作品の制作に至る経緯を教えてください。

―以前に監督した『異物―完全版―』(2022)『悪魔がはらわたでいけにえで私』(2023)といった作品が、短編から派生した形の作品で、これらはコロナ禍の中で比較的製作が容易だった短編という形式から評価をいただいて長編という形になったのですが、短編スタートだったからこそエッジのきかせることのできたこの作品群を通して一つのやり切った感が生じました。ですが、そこからもう少し自分の映画を多くの人々に届けたいという思いや、自分の映画の持つメッセージ(テクスト)をわかりやすく伝える必要性を感じるようになりました。同時に、自分が長年バンド物を撮りたかったということがありまして。実は映画を撮り始める前、最初に書いていた企画書がバンド物だったのですが、長年温めていたバンド物への情熱を、今回何とか映画にしたいという思いが沸き立ったわけです。それを、自らのジャンル的な手法で表現できないかと模索していた中で本作品は生まれました。

 

・『ザ・ゲスイドウズ』という題名で、最初に私が想起した映画は『地下水道』(アンジェイ・ワイダ監督、1959)でした。文脈は異なるものの、社会的に「敗者」とされる人々がいかに抵抗するかを描き出している点で両作品は類似しているように思います。これに限らず、『ザ・ゲスイドウズ』制作に関してレフェランスした(念頭に入れた)作品があれば、あるいはキャスティングに際して、念頭に入れていたことがあればお聞かせください。

―ここ最近の作品で共通しているのですが、アキ・カウリスマキ監督の作品(とりわけ『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989)が意識の中にありました。あとはロイ・アンダーソン監督の作品が好きで、これは彼の映画が「視線の映画」(眼差すこと)であるからということが理由なのですが、それによって観客が同じ目線を持つことができ、人間ってくだらないけど愛おしいという人類賛歌を感じることができるからというのがあります。役者陣には、この二人の作家の作品を見ておくようにあらかじめお願いをしていました。
キャスティングに関してですが、自分のコントロールの枠に収まりたくないというのがありまして。映画の現場の性質上予定外のことが起こるのは日常茶飯事なのですが、それをいかに楽しめるかというのがポイントになっていると思っています。その中で、今回「はみ出し者」や「敗者」と呼ばれる人々の物語を描く以上そのことをより強く意識したこともあり、キャストに関して、それぞれまったく異なるキャリアを積んだ方を起用し混ぜ合わせることを通じて、予定調和ではない状態を楽しみたいという強い気持ちがありました。

 

・キャスティングを通じて、ジャンルを混合させようとする試みだったわけなんですね。

―その通りです。あと、先ほどの質問に関してもう一つ付け加えたい作品の存在を忘れていたのですが、死の切迫感の中で音楽を残そうとする人間の肖像を描いた『ペルシャ猫をだれも知らない』(バフマン・ゴバティ監督、2009)という作品も意識にありました。

 

・今あげられた映画監督の作品の特徴として共通しているのが、労働者の映画でもあり音楽の映画でもあるということがあげられますよね。

―そうですよね。例えばカウリスマキの最新作『枯れ葉』(2023)なんかは、まさにわかりやすい一例だと思います。その中で彼の映画における音楽の使い方も、ジャンルの越境を感じさせられます。

 

『ザ・ゲスイドウズ』(宇賀那健一監督、写真提供:TIFF

・少し学生時代についてのお話を伺いたいと思います。映画制作を志そうと思ったきっかけや影響を受けた作品などあれば教えてください。

―子供のころから映画好きであり、母親はスプラッター映画の愛好者、父親がヌーヴェルヴァーグ愛好者で映画監督志望だったという映画愛にあふれた環境で育ちましたので、幼少期から映画に関わる仕事に就きたいという気持ちを持っていました。高校時代にお付き合いしていた人が浅野忠信の大ファンだったのですが、彼に「嫉妬」してしまったのか、彼が出演していた作品をまとめてレンタルして一気に見たという経験があります。当時、洋画ばかり見ていた自分ですが、そのときにはじめて邦画の凄さに気づかされ、「邦画に関わる仕事に就きたい」と思うようになりました(またそのころミニシアター全盛期だったことも背景にはありました)。で、今となれば壮大な勘違いではありましたが、監督や技術職は難しいが俳優になることは難しくないはずだと思って、浅野さんの主演映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』(1999)の舞台版のオーディションに応募して合格したことで、役者としてキャリアをスタートさせました。役者としてキャリアを積んでいく中でどんどん映画への愛が深くなっていき、自分が出たい作品が何かを考えたとき、自分自身で作ってしまえばよいじゃないかということに気づきました。それで『着信アリFinal』(2006)に出演した際に集まったメンバーを集めて自主映画を作ったことが、映画監督としての始まりだったりします。

 

・俳優から映画監督への転身というのはさほど珍しくないことに感じられますが、クリエーションに関わることで新たなクリエーションを作り出したという点ではやはり興味深く感じます。

―最初に監督した短編映画『発狂』も、もともと私自身が出演する予定の映画だったんですが、キャパオーヴァーだったこともあり、結局(自分が出演するための役を作れず)自分以外の俳優の方に出演していただいたんです。そのようなことを何度も繰り返して今に至るという形ですね。

 

・ある種のDIY(DO IT YOURSELF)精神の体現を感じさせられます。

―そうですね。だから、自分で会社を作っているんですけども、制作も配給も行っているという形で、すべての作業に目を通したいんですよね。そうすることで、「わからないから聞いたことだけをやろう」じゃなくて、主体的に応答し可能性を見つけていくことができると考えています。

 

DIY精神というのは、どのような映画作りであれ絶対に欠かすことができない精神だと思います。役者や映画監督として様々なキャリアを積まれた今、映画作りを志そうとしている若者や学生に、ぜひアドバイスなどいただければ幸いです。

―ある意味「先輩たちの言うことを何も信じなくてもよい」ということですね。一本目を撮る前に「一本目がコケたら二度と撮ることができないよ」と言われたことがすごく呪縛になり続けて、コケたくないという理由で慎重になったりリスクヘッジするようになったり、考えすぎて脚本を書くのが遅くなってしまったりといろんなことが起きてしまったんです。でも、一本目が大ヒットしたかはさておき、今でも映画を撮り続けられている。重要なことは、先輩たちが言っていることの背景をきちんと考えることだと思いますし、しっかり考えることで既存の概念を打ち破ってほしいと思っています。考え続ける中で自分の感覚を信じることが大切です。

 

・その中で、学生や若者にお勧めしたい過去の映画作品があれば、ぜひ教えていただけませんか。

―最近だと、カンタン・デュピュー(フランスの映画監督)の作品ですね。彼の作品からは、既存の映画の概念を打ち壊そうという感覚を強く感じていて、とても刺激を受けています。彼の作品が公開された時はできるだけ足を運んで見に行くようにしています。彼の作品もまた、自分が近年テーマとしている「不条理」が横たわってるという点でもシンパシーを感じています。もともと、自分の作品を見に来てくださった方から「カンタン・デュピューの作品を見たほうが良いよ」とおすすめされて観始めたのですが、本当に面白くて。第35回東京国際映画祭で『タバコは咳の原因になる』(2022)を観に行ったとき、日本の観客が作品に熱狂していたことも記憶に残っています。

『ザ・ゲスイドウズ』(宇賀那健一監督、写真提供:TIFF

・「熱狂」でいえば、トロント国際映画祭の熱気も本当にすごいですよね。ボランティアの方と観客が上映を待っている中で一体となってコール&レスポンスしている光景も印象的でした。

―Midnight Madnessの作品を拝見したときなのですが、列を待つ観客の熱気がすごかったなと思いました。同じ部門の作品を少しずつ拝見しながら、刺激を受けています。今後とも様々な作品を拝見していくのが楽しみです。

 

・同部門の作品で、印象に残っている作品などあればぜひお聞かせください(9月9日時点)。

―あえて一本挙げるとすれば『Dead Talents Society(鬼才之道)』ですかね(https://www.tiff.net/events/dead-talents-society)。とてもクオリティが高く面白い作品であったと思ったのと同時に、徐漢強監督と自分の感性がよく似ているなと思いました。映画への愛をコメディという形式に昇華していて、それが映画賛歌になっていることも『ザ・ゲスイドウズ』やあるいは自分が最近準備している新作とも共通しているなとも思わされます。

 

・監督の皆さんとお話ししている中で、印象深いことなどがあればお聞かせください。

―毎回言われるのが「君の作品の制作のスピードはクレイジー(早すぎ)だ」ということですね(日本でもよく言われることでもあるのですが笑)。先ほどの彼はまだ2本目なんですよね。「一本撮るのに1-2年は必要なのに、君はその間に6本撮っているのか、なかなかにおかしいスピードだ」と。ではなぜそんなペースになっているのかと申し上げますと、一番初めに企画していて撮れなかったバンド映画が5年も準備し続けて、結局撮れなかった経験がトラウマになっていまして。海外の場合は、撮影を延期した場合動いた費用に対する企画準備費というものがきちんと支払われるわけですが、日本の場合このような事態へのケアは当然ありますが、海外に比べるとあまり十分ではないという事情があるためです。

 

・この話を伺うと、やはり日本の映画界で、近年様々な形で可視化された様々な問題(長時間労働パワハラ・予算不足など)との関連性を大きく感じさせられます。

―それは、やはり感じています。ですが同時に、それらの言葉が「一人歩き」しているという感覚も覚えてしまうのもまた事実です。まず予算に関して言うならば、やはり他国に比べて圧倒的に厳しいという現実があります。ですが、制作側も金額を無理して下げようというわけではないということは念頭に入れなくてはなりません。可能な限り予算を上げたいけど、現実としてその金額でないと費用回収ができないという事実が存在しています。だからこそ逆説的に言えば(当然留保は必要ですが)、このような費用のやりくりが存在しているからこそ日本の映画の多様性が担保できているとも考えている部分もあります。自分も含めて「予算を上げろ」と言い続けてはいますが、同時にどこが負担・補填するのかを言う側も考え続けないといけないとも思っています。単純売り上げだけで回収できないということがそもそもの問題ですので。もちろん国が補助することは素晴らしいですが、同時に安易に言っていいことなのだろうかと逡巡している部分もあります。
労働体制についてですが、当然良くしたいと思いますし、ハリウッドでの事例も良く耳にします。ただ同時に、今年アメリカ(ニューヨーク)でのオールロケ作品の撮影を行ったとき、良い部分もある一方で、無駄もあるなと思ったことはまた事実です。言葉にすると強い言い方になってしまうので難しいんですけども、両方の現場に立つことで得た知見をもって解決策を模索できないか、日々考えています。

 

・国際共同制作(製作)は、多くの制作資金を獲得しやすくなるという利点を抱える一方で、問題となっていることとして、米仏の資本が流入することによって、映画作品が一種「白色化」=帝国主義化する傾向が多くなることも指摘されています。その可能性について、いかがお考えでしょうか。

―それはあり得ると思います。とはいえ、日本もいつまでもドメスティックの市場ばかりでやるわけにはいかないので、国際共同制作(製作)の良い点を引き受ける必要があります。ですが同時に、「雇用主(資金提供者)がこうだと言っていることだけに盲目的に従う」というのでは、いい作品ができるわけがないのは当然です。スタッフ・キャストともに、みんなで一番良い方法を考えることが一番大切だと思います。そうじゃないと、業界はよくならないと考えています。

 

・全員でDIYしなければならないということですね。

―そうですね。作品にとって何がベストなのか、全員で考える必要があると思います。日本の映画制作の良いところは、海外だと各部署・セクションに職能・職権が分掌されているのですが、日本だとセクションが比較的容易にお互いが手を取り合って助け合うことができるということです。海外は資本の規模も作品数も多いという現状に、日本映画界が一致団結して立ち向かわなくてはならないなという局面にやってきているのだと感じています。

 

・このことは、映画祭においても言えるのではないだろうかと思います。トロント国際映画祭を取材していて感じるのは、映画祭を市民、観客、ボランティア、P&I(プレス&インダストリー)などが一丸となって盛り上げていくという気概です。一方日本では、東京国際映画祭などでも、観客、プレス、ゲストといったもののそれぞれの距離感の遠さを感じさせられます。

トロントで感じるのは、やはり地元の方がすごく映画祭を楽しんでるなということですね。映画監督の知人なんかも、皆トロントを楽しみにしている。これだけみんなで盛り上げようとしている大規模な映画祭はそうないんじゃないかと思います。でも自分たちも5年10年かけていけば十分できることだとも思います。

 

・例えば日本のモデルケースとなりうるのは、一例を挙げるならば山形国際ドキュメンタリー映画祭です。こちらはアカデミックな形式も取り入れながら、ドキュメンタリー映画を通じた国際的な人的交流がなされています。他の映画祭でも、交流ラウンジやパーティーなどが行われてはいますが、やはりプレスやインダストリーなどに参加者が限定されていて、肝心要の観客が交流に主体的に関われないことが課題になっていると思います。

―常々感じているのが、日本で一番足りないのは教育だと思っています。絵画とかは小学生の時から学習するので、勝手に知識が入りやすい。ある種、身近にあるものだと思います。そういった教育が映画にもないと、映画ってお金を払って2時間近く拘束されるものとしてみなされ、しかも大衆的な作品(≒商品価値)しか着目されないということが起きてしまう。さらに言えば、日本では圧倒的にキャスト(出演者)のパワーが大きすぎて、どうしてもいろんなことを分けないといけなくなってしまう。(教育を通して)もっと映画が身近なものになっていけば、長い時間はかかるかもしれないですが、映画業界はよくなると信じています。

 

・貴重な提起をいただき、ありがとうございました。最後に、公開を待ちわびている日本の皆さんに向けて、メッセージをお願いいたします。

―ある意味では「ジャンル映画」になっていると思っているんですけれども、ご覧になられた方が誰でも楽しめるエンターテインメント作品になっていると思います。身構えずに、気楽に観ていただければありがたいです。公開時は、僕も可能な限り劇場に伺いたいと思いますので、ぜひ感想などをお気軽にお寄せいただければありがたいです。個人的には「つまんない」「好きじゃなかった」という感想もかなりうれしくて、そう言うことには体力が必要だと思うのですが、「誰かが嫌いになるほどの映画を作れたんだ」というやりがいを感じさせてくれます。ぜひ批判なども含めて色々話していただければありがたいです。

 

―最後にプレスにとっても、とても「重要」な提起をいただきました(笑)。どうもありがとうございました。

 

(2024年9月9日 トロントにて 聞き手・構成:小城大知)