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広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

Do not expect too much from the end of the world(ラドゥ・ジューデ監督)考

第72回ベルリン国際映画祭にて金熊賞を受賞した『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』から3年。世界が今一番新作を待ち望む映画監督、ラドゥ・ジューデ監督による最新作『Do Not Expect Too Much From End of the World(映画祭邦題:世界の終わりにはあまり期待しないで)』は、ウクライナ戦争に突入した東欧の今を、メディア批判を通じて描き出す怪作であるといえよう。拙ジャーナルでも第28回釜山国際映画祭報告記事などですでに話題に取り上げた作品でもあるが、本作品は今改めて観直すことがより重要な作品であるともいえるのかもしれない。本記事は、本年度から拙ジャーナル編集部に加入した専門記者による重厚な報告である。(編集部註)

 

 

 本作は映像制作会社の女性アシスタントであるアンジェラが職場の「安全講習ビデオ」に出演してもらうため労災の被災者の元に訪れて出演オーディションを受けてもらうところから始まる。車を走らせ被災者の家に赴き、当事者や家族に話を伺ってオーディションを受けてもらい、再び車を走らせ、別の家に赴いて同じようにオーディションを受けてもらい、さらに車を走らせて……このように、同じ行動の反復=仕事が淡々と積み重なっていく。頻繁に挿入される主人公が車を走らせているショットは映画の進行を遮るものとして作用するようになり、延々と続いていく彼女の仕事風景を見させられている私達観客は、いつしか「運転」のイメージが反復するうちに主人公が感じるフラストレーションと同様の感情を覚えるようになる。

Do not expect too much from the end of the world(ラドゥ・ジューデ監督、2023年)

 

アンジェラはそんなフラストレーションを解消するかのようにスマホで自撮りを開始し、Tiktokのエフェクトを用いて彼女の分身「ボビツァ」に変身する。雑なエフェクトのハゲ頭の男性に変身することによって、ボビツァと化した彼女は暴言・蔑視ワードを吐きまくるレイシズム男性に生まれ変わる。彼女は一時的に男に性別転換して悪辣な言葉を吐くことで、日常のフラストレーションを解消しているのだ。時にはトイレの中で、時には映画監督のウーヴェ・ボルと共に暴言を吐きまくる。「アンジェラ」は物乞いにお金を渡すようなキャラクターとして表象されており、レイシズム男性の典型例に沿ったような「ボビツァ」とは真逆のキャラクターとして位置している。
しかし、私達も同じくインターネット上でハンドルネームを用いて日々下品な言葉をネット上に放出していることを考えれば「ボビツァ」も同じようなものであると理解できる。『アンラッキー・セックス』ではSNS言論空間を戯画化したような保護者会の場面でインターネットと現実を接続していたが、本作もTiktokフィルターをかけて男性に変身することによって、見事インターネットと現実を映画内で接続したのだ。
そして彼女が撮影したTiktokの映像はそのまま映画内に挿入される。劇中は全編モノクロ映像だが、Tiktok映像のような「カメラを通じて撮影された映像」はカラーで提示される。このカラー/モノクロの対比に何か意味を見出せる訳ではないが、印象的な演出であったことは留めておきたい。

 

また、本作では度々『Angela merge mai departe』(Lucian Bratu、1981年)というルーマニア映画が引用されることで参照される。1981年に撮影されたこの映画の主人公は女性のタクシー運転手であり、劇中内では主に主人公の女性がタクシーを運転している部分が中心に切り取られている。そのフッテージはアンジェラの「運転」のイメージと重なり合い、1981年と2023年のルーマニアが映画内で反復し合う。渋滞、「運転」=男性性の意識などの1981年にも見られる交通的・性差的問題は2023年になっても解消の気配を見せず、むしろ悪化の一途を辿っていることを『Angela merge mai departe』とのコラージュによって明らかにしている。

 

劇中、ルーマニアの交通状況について言及される。
「道路の距離よりも道路の横断中に轢かれて亡くなる人の方が多い」というセリフの後突然映像は切り替わり、無音で墓の数々がスライドショーのように提示される。その墓は交通事故によって亡くなった人の墓であり、そのスライドショーは鮮烈に私達の脳に焼き付けられる。墓に刻まれた名前、写真の一つ一つが私達に何かを訴えかけるように、そこに佇んでいる。
ラドゥ・ジューデは過去作『アンラッキー・セックス』『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』の中でアーカイブ資料を映画内に取り込み、ホロコーストや戦争によって亡くなった人々の写真を映し出した。彼のドキュメンタリー映画である『The Dead Nation』『The Exit of the Trains』ではホロコーストの被害者の記録を主題に置き、歴史に埋もれた被害者の声と生を映画という形で記録した。
本作はこれまでとは異なりホロコーストが主題となった映画ではないものの、この後に続く過重労働や交通問題など、現在進行形の問題によって「被害を負った者の声」を映画内に記録するという点は共通している。唐突に挿入される墓のスライドショーはまさにその映画の主題がよく現れた場面だろう。

上記で述べた通り、ラドゥ・ジューデは歴史上の声すら上げられずに殺された被害者にカメラを当てており、本作もそのテーマ性は共通している。しかし「カメラを当てる」だけに留まることなく、その先の「カメラを当てること」の暴力性にまで自覚的である。例えば、『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』では映画のエピローグとしてこれまで映画が取り組んできた、ルーマニア黒歴史である虐殺事件を演劇化することの「その先」まで描いた。『世界の終わりにはあまり期待しないで』では第二部の撮影パートからその本領が発揮される。

 

Do not expect too much from the end of the world(ラドゥ・ジューデ監督、2023年)

労災の被害者に彼が体験した労災の体験談を語ってもらい、自分みたいなことが二度と起きないようヘルメットなどの安全器具の装備を徹底してもらうように呼びかける……これが「安全講習ビデオ」の内容であり、言ってしまえばなんてことのない平凡な内容のビデオである。にも関わらず、ビデオの撮影に入ると様々なトラブルが頻発し、なかなか思うように事が運ばない……
その「トラブル」の内容は是非自分の目で確かめてほしいが、この場面にはラドゥ・ジューデ監督の演出力と皮肉が存分に詰まっていて非常に圧倒された。間違いなく本作の主題である「労働問題の訴え」のその先まで描かれていて、無自覚的な暴力性がハッキリと映されていたのだ。

 

アヴァンギャルドで遊び心溢れる映像表現の数々、軽快なストーリーテリングに満ち溢れた楽しい映画ではあるが、それらの演出表現の数々は同時にルーマニアの問題、映像業界の問題、ひいては世界の労働環境そのものが抱える問題をも暴き出す役割を担っている。『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』に連なる映画であり、ラドゥ・ジューデ監督のこれまでの作品の要素を詰め合わせた集大成的な映画でもあった。まだまだ劇映画もドキュメンタリーも現在制作中の作品も何本かあるらしく、より彼の今後の作品に期待が高まる。

 

(中原彬登:映画批評・制作)