Re:Public on Web

広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

【広島大学文芸部】新入生向け・おすすめの本紹介(5冊)

 みなさんこんにちは。広島大学文芸部(@DieBuribunken)です。

 

 3/14から3/18にかけて、Twitterのほうで新入生向けに本を5冊紹介したのですが(https://twitter.com/DieBuribunken/status/1371133715741478919?s=20)、     Twitterの使用上、ツリーの全部が見えにくかったり、5冊全部を一目で見るのが難しかったりします。

 

 

 そういうわけですので、文化サークル連合のブログをつかって見やすくまとめて紹介します。なお、紹介文はTwitterで最初に書いた際の文章とは部分的に異なっていることもありますので、悪しからず。

 

 

【一覧】

桑原武夫, 『文学入門』(岩波書店, 1950)

野矢茂樹, 『入門!論理学』(中公新書, 2006)

夏目漱石, 『それから』(色々ありますが、入手しやすい版は新潮文庫版でしょう)

④シャルル・ペギー, 『クリオ 歴史と異教的魂の対話』(河出書房, 2019)

⑤木庭顕, 『誰のために法は生まれた』(朝日出版社, 2018)

 

 

桑原武夫, 『文学入門』(岩波書店, 1950)

文学入門 - 岩波書店

www.iwanami.co.jp

 「文学とは何か?文学は何のためにあるか?」

よく問われる、そして意外に答えにくいこの問いに真剣に取り組んだ本だと言えるでしょう。とはいえ語り口は優しく、読みやすいので、この問いに悩んだことのある人ならば共感を持ちながら読み進められることと思います。個人的には「文学など役に立たない」という人に読んでもらって、読書感想を聞いてみたい気持ちもあります。

 

 

野矢茂樹, 『入門!論理学』(中公新書, 2006)

入門!論理学|新書|中央公論新社

www.chuko.co.jp

 「それは非常に論理的な意見だ」「あの人は論理的な人だ」

 

…こうした用法で「論理的」という言葉が使われているシーンをよく目にしますが、しかし「論理的」とはどういうことなのでしょうか?「論理的」という言葉を「冷静だ」「説得力がある」程度の意味だと思っている人は多いのではないでしょうか? 

 しかし実は、「論理的」である主張はそうした情感とは必ずしも結びつきません。論理的であるということはまず第一に主張を論拠(根拠)と結論に分けるということ、一定の論拠から正しく結論を導きだす特定の手続きのことをいいます。

 そのため、「論理的」であるというのは、私達が、直感や一般的な生活感覚によって「説得力がある」とか「納得できる」とかいって、何事かを支持したり反対したりするのとは、全く異なります。それならば、私達が「納得できる」「説得力がある」と直感しただけのことや人を「論理的だ」と呼ぶのは、全く非論理的な態度だと言えるでしょう。

 論理とは何か、ということを学べば、あなたの思考が格段に明晰になることが期待できます。それは自分が何かを主張する際もそうですし、相手の主張を咀嚼して理解するためにも役立ちます。どの学部、どの専攻でも学んで必ず損をしない論理学をこの本からはじめてみませんか?この本では、論理式が日本語に文章化されて書かれていますので、数学が苦手だった、という方にもおすすめです。

 

 

夏目漱石, 『それから』(新潮文庫, 1948)

夏目漱石 『それから』 | 新潮社

www.shinchosha.co.jp

 「明治知識人の恋愛とその悲劇を書いた作品」と解されることの多い作品でありますが、果たしてこの小説はそうした意義にとどまるのでしょうか?主人公・代助とヒロイン・三千代を取り巻く人間達の、よく言えば生々しい、率直に言えば社会や人間の汚さを圧縮したような生き様は、ここまで綺麗に書き出せば見事なものです。あらためて漱石の社会や人間に対する観察眼の鋭さには驚かされます。

 小説の最後に代助と三千代が辿ることになる結末からは、個々の人間に対してだけでなく、こうした「汚い」人間を再生産し続ける社会構造全体に対する漱石の強い批判意識を感じます。私達が『それから』を読んで「こういう奴、現代にもいるよな」「現代にもこういう問題があるよな」と感じるということは、残念ながら、漱石が批判的に描き出した当時の日本社会から今の日本社会はさほど変わってはいないということなのでしょう。

 なお、以上のようなことを考えずに読まなくとも普通に面白く読めますし、終盤は緊張の連続でハラハラします。

 

 

④シャルル・ペギー, 『クリオ 歴史と異教的魂の対話』(河出書房, 2019)

クリオ :シャルル・ペギー,宮林 寛|河出書房新社

www.kawade.co.jp

 2019年にようやく完訳が出版された、カトリックの思想家シャルル・ペギーによる渾身の歴史論エッセイ。老女クリオによって語られる歴史、そして老いの問い。この書物において意味されることとは、歴史における真理と共存する「老い」の経験である。  「算術的な」時間の目盛りで歴史を語ったり、あるいは歴史を(教師として)教える行為によって間違いなく真理の輪郭をなぞることは可能であろう。しかしそのことしか出来ないのではないだろうか。

 一方、出来事の稼働的現実を老いとともに体験することができること、すなわち、自身の記憶に宣誓を行い、持続の中で老いることで歴史を追体験する。(読書時の自分の感想から引用。)

 印象的なのはこの一節。  

 

何も起こらなかった。それなのに世界は相貌を変え、人間の悲惨も変わった。自分は何を語ってきたのか、自分で自分に問うてみる。それなのに何も思い出せない。(ペギー, p.392)

 

 

⑤木庭顕, 『誰のために法は生まれた』(朝日出版社, 2018)

誰のために法は生まれた | 書籍 | 朝日出版社

www.asahipress.com

 法とは何か?何のためにあるのか?法を「社会秩序を守るための決まり」だと理解している人は多いのではないでしょうか。しかし、ギリシア・ローマの歴史を研究する立場から、筆者は違うと言います。元来何のために法が生まれたか。その目的のために、法はどのようなものを問題とみなし、立ち向かうか。『近松物語』(溝口健二)、『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ)など、名作を通じて筆者ははっきりとそれを描き出します。

「映画や文学は法(律)とは関係ない」?この本を読んだ後なら、そうは言えないでしょう。文学や演劇の社会的意義についても示唆的で、文学に関心がある方はぜひ読んでほしい一冊です。

 

以上5冊になります。1冊にでも興味をもった方、すでに読んでいるという方は、ぜひ文芸部にいらしてください!一緒に議論しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

コミケ既刊、発売中です。

広島大学文化サークル連合、エアコミケ2参戦!

広島大学文化サークル連合はC97に続き、今年度はエアコミケ2に際し新刊を配布いたします。今年は新型コロナウイルス感染拡大の中で、対面でのコミケ開催は見送られましたが、弊連合はコミックマーケットの理念に賛同し、エアコミケ2の開催に際して新たに製作された新刊をデータとして期間限定で無料公開いたします。
今年は弊連合も対面での活動が難しく、冊子での配布を断念いたしましたが、その中でも思想や実践を洗練させながら新たに生み出された論文3本(一本は既刊の再編集版)を新刊としてデータ配布いたします。ぜひともご覧ください。

昨年コミケ初出展だったにも関わらず好評だった、既刊の『Re:Public:forC97』についても限定5冊を特別価格にて、通信販売で頒布いたします!

〇新刊
2020年12月30日~1月2日までの限定公開:無料
※公開を終了しました。

 

〇既刊(通信販売)

購入方法

hirodai.bunsa@gmail.comまたは文サ連公式ツイッターDMまで連絡ください。
(お支払い方法は弊会指定の銀行口座への振込に限らさせていただきます)

メールにて連絡

Twitterにて連絡

『Re:Public:forC97』

(B5,120p) 500円(送料370円)

購入特典として、2020年度新入生向けパンフレット『Re:Public vol.3』をプレゼント!

 

望月衣塑子氏など多くの著名人からも絶賛された『Re:Public:for C97』(2019年12月刊行)を5冊限定で通信販売いたします。定価700円のところ、今回特別価格500円で販売いたします。

f:id:hirodai-bunsa:20201228235934p:plain

クリス・マルケル特集~永遠の記憶~』劇場公式パンフレット

(B5,16p):400円(送料:180円)
(発売:パンドラ、ライセンス委託:広島大学文化サークル連合) ※発売中止

 ※(12月30日追記:『クリス・マルケル特集』劇場パンフレットは、発売元との協議の結果、本イベントでの販売を取りやめることになりました。大変申し訳ございませんがご了承ください。)

広島大学映画研究会×アテネ・フランセ文化センター 協力企画 映画『突然失礼致します!』+製作監修による2020特別セレクション 開催のご案内

広島大学映画研究会とアテネ・フランセ文化センターの共同協力企画として、映画『突然失礼いたします!』の特別試写会を、2021年1月11日に東広島市芸術文化ホールくらら小ホールにて開催いたします。以下簡略なコメントを掲載します。

2020年に製作された、『突然失礼致します!』の特別試写に加え、本作の製作監修によるセレクション作品を特別上映いたします。
突然失礼致します!』(2020年)は2020年新型コロナウイルス感染拡大により大学生の創作活動が苦しめられる中、ある大学生の呼びかけにより実現した企画作品で、全国の大学生が外出自粛期間中に1分以内の映像作品を制作し、その全作品が集まって1つのオムニバス映画として完成した映画です。今回2021年1月16日に開催される高崎電器館(群馬県)上映開始に先駆け、製作大学のひとつである広島大学の拠点地東広島での完全版の特別試写を行います。
また今回本作品の企画監修にかかわった小城大知(広島大学)の協力のもと、2020セレクションとして、山形国際ドキュメンタリー映画祭2019日本プログラムなど様々な映画祭で上映され反響を呼んだ、草野なつか監督の『王国(あるいはその家について)』(2018年)、自然ドキュメンタリーの鬼才能勢広監督の『どこかに美しい村はないか』(2020年)、そして今年日本初公開となるピーター・エマニュエル・ゴールドマン監督の『灰の車輪』(1968年:一夜限定上映)という全作品広島初公開となる3本を併映作品として特別上映いたします。

 

主催:A JAPARATION FILM

協力:広島大学映画研究会、アテネ・フランセ文化センター、Pigeon Films

作品提供:田下啓子、RE:VOIR、草野なつか

 

入場無料、全席自由

●開場 9:40 
10:00~11:00 『どこかに美しい村はないか』(能勢広監督)
12:00~15:15 『突然失礼致します!』(熊谷宏彰総監督)特別試写会
15:45~17:20 『灰の車輪』(ピーター・エマニュエル・ゴールドマン監督)
18:00~20:30 『王国(あるいはその家について)』(草野なつか監督)
 終演 21:00

※各作品の上映後に、オンラインでのゲストトークを予定しております。

 

【社会科学研究会】2020年前期・学習会資料

 2020年前半に社会科学研究会が行ったオンライン企画の学習会資料のリンクをこちらにまとめておきます。
 初めて参加した人にもわかることを目指してつくってきたので、ぜひ参考にしていただけたらと思います。

 もし読んでいただいて間違っている点や改善点などあれば、blacknikka.hu@gmail.comまでご指摘いただければ幸いです。

 

第一回:マルクス概論

drive.google.com

第二回:共産主義とは何か

drive.google.com

第三回:新型コロナウイルスと労働者階級

drive.google.com

【社会科学研究会】2020年前期を振り返る

 2020年前期、コロナ感染症の拡大によって新歓も十分にできないかつてない環境の中で、社会科学研究会も「新しい活動様式」をつくりながら活動してきました。

例年通りの"新歓"がない4月

 新型コロナウイルスは世界中を駆け巡り、私たちの日常さえ変えるほどの広まりを見せました。田舎だといわれて揶揄されてきたこの東広島からも感染者が確認されるほどで、広島大学も授業をオンライン化、課外活動施設も突然閉鎖して課外活動を禁止させる判断をしました。

 人は人とつながることで可能性を広げることができる――。大学、しかも入学の季節の大学は、まさにこうした可能性を広げていく最大の場所だったはずでした。
 いつもなら昼休みには、生協に並ぶ長蛇の列ができ、多数のサークル員が様々な活動への参加を呼びかけているスペイン広場。今年はそこに立ち入ることさえできない状態。こうした活動への制限をどうするべきか、サークル内外で話し合いながら悩んできたのが4月前半でした。きっと、私たち以上に新入生の皆さんの方が困惑していたに違いありません。

オンライン活動の開始

 対面での活動ができない以上、オンラインに活動の場を移す判断をして、Twitter@HUSS_5G)を立ち上げ、ZOOMでの学習会をやってきました。立ち上げたばかりのアカウントに、どれだけ来てくれるかわからないと思っていましたが、数人の新入生が参加してくれ、社会科学に興味のある他大生や一般の方からも飛び入りの参加もありました。マルクスや社会科学に関心のある人が多いことに私たちも励まされたように思います。新入生も入部してくれ、なんとか基本的な活動を続けられているところです。

 顔の見えないやりとりでも、学習成果や思いを伝えることはできる。十分な交流とはならないわけですが、こうした新しいコミュニケーションの在り方に少しづつ慣れていきました。

 紙媒体の学習資料はサークル棟に置き去りになってしまっているのですが、電子データ化された重要文献を持っていたことで、学習会をなんとか継続できています。持ち出してなかったら買いなおしになってたかもしれません・・・。ありがとう先輩方・・・!

コロナ時代が投げかけているもの

 人類が新型コロナ感染症と向き合いはじめてから半年以上が経ち、直後は混乱していましたが、いま改めて少し立ち止まり、考える余裕があるときではないかと思います。
 これまであまりにも多くのことを前提にして、考えることを後回しにしながら生きていたのではないか、そう思うのです。

 例えば、感染拡大は中国から爆発的に始まりました。中国は世界的な生産活動の中心地。生産が滞り、物流も止まっていきました。マスクがはいらなくなったことは象徴的だったように思います。私たちの日常は当たり前に思われていながら、この日常を支えているものは、非常に高度・洗練化された、世界的な生産・供給網だったということ。様々な人々の支えがなければ日常は成り立ってなどいなかったことを知りました。

 また、人が結びつくことも当たり前でなくなりました。自分から積極的に働きかけていかなければ、人との接点さえつくれない環境。しかし、考えてみれば、これはコロナ以前からどんどん厳しくなっていたところかもしれません。就活は一年生から始まり、個別の人生がどんどんバラバラに進んでいっているように、接点を見出していくことは容易でなくなっているように思えます。それでいて、それぞれの経験はまだまだこれから。個性が強調されてきた一方で、個性もまた多くの人とのかかわりの中ではぐくまれていくものだという観点が抜け落ちているようにも思えます。

前提を問い直す社会科学を

 コロナを経て、この社会の前提が揺らいできました。今は場当たり的・臨時的に多くのものがオンライン化していますが、こうした流れも繰り返されていけば、ひとつの新たな社会様式になります。そのとき、新しい前提にまみれた、新しい社会へと移り変わっていきます。そのときは気づかなかった変化の中で、多くのものが失われていく可能性があります。良かれ悪しかれ、問題が問題として見いだされることもなくなったとき、新しい社会への変化は完成したといえるでしょう。

 こうした流れを見失わず、失ってきたもの、得てきたものを正しく評価していくためには「歴史」が必要です。懐古主義でもなく、単なる進歩主義でもない。前提に流されず、納得して生きていくために軸を立てること。いまコロナ時代の変化のなかで、私たちの社会が変化しようとしているわけですが、その変化をどのようにとらえるか。社会科学がこれほど求められる時代はないのではないでしょうか。

 私たちは、この新しい時代にともに挑戦していく新入部員を募集していますので、お気軽にお声がけください!

社会科学研究会
Twitter: @HUSS_5G
Mail: blacknikka.hu@gmail.com

2020年前期を振り返る:映画研究会編

2020年度前半を振り返って(映画研究会)

⚪︎新型コロナウイルスの影響もあり四月以降、大学現地でほとんど活動をすることができず、また緊急事態宣言の発布で一時期映画館に通うことすらもできなかったため、今年の前半はオンラインによる映画配信に頼っていた。例えばシネマテーク・フランセーズは4月から7月15日まで創設者のアンリ・ラングロワの名を冠した『アンリ』(https://www.cinematheque.fr/henri/)というサイトを立ち上げて毎日一本ずつ貴重な作品を配信し続けるという試みを行っていて、これは貴重な作品に出合ういいきっかけだった。実は広島国際映画祭(HIFF)は、2015年度から2018年度までシネマテーク・フランセーズとの共同企画を行っていたこともあり、今回の配信ではその中で上映された希少な作品(「アッシャー家の末裔」「ツバメ号シジュウカラ号」「セルジュ・ダネーとジャン・リュック・ゴダールの対話」など)も含まれていて、もう二度と見ることがないと思っていた作品との奇跡的な再会も悦ばしい限りであった(これらの作品群は配信が終了した現在も上記に記載したリンクから視聴が可能である)。又カタルーニャシネマテークのペレ・ポルタベーラ監督のオンラインレトロや、ミュンヘン映画博物館のクラウス・ウィボニー監督(日本では2016年に一回だけ東京、神戸でレトロが組まれただけのドイツの実験映画監督)のオンラインレトロ、日活の川島雄三監督オンライン配信などが開催されたこともあり、まがいなりにも映画ファンを名乗っている人間的には、新たな映画を発掘する機会に恵まれたことは幸いであった。

 

⚪︎しかし、学生として映画に向き合う機会が今年前半は圧倒的に欠けたことは否めない。私自身の多忙さもあって未だ新入生向けの説明会は満足に開催することはできておらず、また当初予定していた新歓企画は10月以降の大幅な延期、さらに課外活動再開からの一方的な排除なども大きく響き、夏季休暇を経て10月からいかなる形で活動を再開するかの見通しも立っていないのが現状である。その中で現在課外活動再開のための協議を多様なサークルと行っており、自主的に感染対策を施しながら活動を行っていくための理念の形成を図っており、引き続き協議を重ねていく所存である。新歓企画に関しては、10月以降の開催を目指し現在関係者各位と鋭意準備中である。続報をお待ちいただきたい。大学祭企画に関しても同様。

 

⚪︎あと一つ、オンラインが故に実現した企画の監修という名目でお手伝いをさせていただいている。全国の映画研究会が集まり一つの映画をオムニバスという形式で作るという映画『突然失礼いたします!』という作品である。この作品の概要は以下の通り。

映画というものは元来「光の芸術」と呼ばれています。暗闇を照らす⼀筋の光は私たちに様々な体験を提供してきました。しかし、現在その状況は脅かされ、私たちは⽇々不安を抱えながら、閉塞した世界で⽣活しています。私たちはこの世界を僅かに照らす⼀筋の光を⽇本中から集め、⼀つの映画を作りました。
映画を愛する多くの⼈たちへ。ひとときの安息として、この映画を捧げます。(企画概要)

実際、私のところにも総監督である熊谷宏彰氏(群馬大学)から、タイトルとなった「突然失礼いたします!」というラインが届き映画製作への参加を打診された。これまで既存の映画=ある程度の完成された映画を取り扱ってきた映画研究会としては、これまで経験したことのない自主映画の作製、学生映画を扱うというまたとない機会となると思い参加させていただいている。

2019年に惜しくも亡くなったフランスの映画批評家ジャン・ドゥーシェの言を借りるならば、映画は運動の痕跡である。現にドゥーシェ追悼となったアンスティチュ・フランセ日本の企画「批評月間」にて上映された、ファビアン・アシェージュ、ギヨーム・ナミュール、ヴァンサン・アセール共同監督によるドキュメンタリー映画ジャン・ドゥーシェ、ある映画批評家の肖像』(2018)において、映画批評家ドゥーシェは自他共に認める声の映画批評家であると自認している。むろんドゥーシェ自身は、映画批評に関する著作を残している(『カイエ・ドゥ・シネマ』の副編集長も務めていたほどである)が、彼はアンリ・ラングロワの存在を重視し、ラングロワの没後から自らの死に至るまでシネマテーク・フランセーズ、あるいは地方のシネクラブを渡り歩き、多くの作品の分析について上映後に声で直接話し、観客との対話を行ってきたことを主な活動としていた。この作品の中で、ドゥーシェから言わせると映画とは、完成された美術品なのではなく常に運動の中で見いだされる未完成のものでなければなければならない。ゆえに、映画批評において重要なのはテクストの完成ではなく、未完成の声の存在、議論により豊饒化される映画の意義を重視することであるとドゥーシェは考えていたのではないのだろうか。

だからこそ、今回の映画には、テーマを固定し一分以内という映画という未完成の運動を詰め込んだ今作には、ドゥーシェが見出す映画としての本質が顕現し、コロナ下における映画における反演劇=男女の生きた記録としての真実が生まれるのである。本篇は8月16日からYOUTUBEの特設チャンネルで10月30日まで公開されるので、ぜひとも大学生の生きた記録としての本作をご覧いただきたい。

公式サイト:https://a.japaration.jp/

公式ツイッター:

mobile.twitter.com

⚪︎最後になるが、ウィズコロナを踏まえた一つの短文を掲載する。これはある紙面への原稿として寄稿したものであるが、ここにも同じものを掲載する。本文はコロナ下で授業が寄宿的なものではなくオンラインという声のみの現象として変化した今、映画史における「サイレント映画」優位論に対しそれに対する疑義と、現前する音による映画のひとつの形態として、ドゥボール『サドのための絶叫』、そして四月に公開されたジャン・マリー=ストローブ«La France contre les robots»を簡単に分析したものである。

 

 声の存在、身体の不在:映画による覚書

                                   小城大知

 

 新型コロナウイルスの影響で、四月から課外活動施設が閉鎖され、さらに大学閉鎖により授業がすべて前期の期間はオンライン開催、図書館の使用も制限になったこともあり、ある種暇でありながら慣れぬオンラインに苦しむ日々が続いている。朝早起きしなくてよくなったことにかこつけて朝8時台に起床する日々が続き、授業を受け食事をし、ウイルスがあるのであまり外出しないこともあり、体力と知力が日々削られていることを実感させられている。私はニートであるのか?ニートに違いない。半分寄生虫のごとく在宅で研究をする日々である。

 そういうこともあり、人との交流も少ない。事実会話をする生身の人間は同居する両親と、たまに会う近所の住人くらいなもので、学生はおろか同級生や日々活動する仲間とも「生身では」会話をすることがない。考えてみると実は映画の歴史と逆の現象が起きていて、今現在対話において「身体が不在している状況」を生きているのである。

 どういうことか。映画の歴史を考えてみると、もともと映画は音の存在しないサイレントの記録映像から始まっている。その後も映画はトーキーが出現するまで、沈黙の映画(silencieux) である。これは最近カラーでも、沈黙の映画の存在が明らかになってきており、フランスの映画工房アルバトロス・スタジオのもと製作されたジャック・フェデーの«Gribiche»(1925)なんかが代表例である。トーキーは音声と映像が人為的に同調させなければならないがゆえに、実は自然な状態ではないと考えられていた。実際、撮影装置と録音装置が併存する中で、蓮實重彦は、視覚と聴覚の間の政治性の優劣も主張しているくらいである。撮影現場では、カメラは自由自在に位置を変えることができるが、録音を担当する技師の立ち位置は、カメラの位置に固定される存在である。そのために、音の存在は映画史の中で抑圧されてきたと考えることもできなくはない。当然ビデオカメラの出現により音声とビデオを同時に自然に複製することは可能にはなった。だが、我々は実際に映像のイデオロギーに左右されることが大きいことは否めないだろう。8.6の映像を見る時に我々はぴかっと光るきのこ雲の存在を原爆投下の映像として、鮮明に記憶するがその中で爆発音に対して目を向けることは少ないのではないだろうか。そういう意味ではジャン・リュック・ゴダールが「映画が19世紀のリュミエールのシネマトグラフによる運動の視覚的表象に始まり、20世紀に完成した産物である」と主張することはあながち間違いではないのかもしれない。

 だが、実際我々は身体が見えぬ中で、なぜにか声のみで「会話」や「会議」ひいては「授業」をしているものだから不思議で仕方ない。例えばジャック・デリダは『声と現象』という著作の中で、「声の優位」を露呈させるものとして「自己現前」下における声は声足りえないことへの批判を展開しているが、現に今の状況を考えると、声は声のみでまた一つ独立した現象を、あるいは身体性を持つのである。そういう意味で、映画は声の存在を恐れていたのかもしれない。そっくりそのまま視覚のみで再現される身体表象が、声という独立した存在で塗り替えられるかもしれないということを。そういう意味で、「表象不可能性」を打破するカギは独立した何かを失った生身の身体ではなく、独立した現象を持ち、その変遷を受け入れることができる声なのかもしれない。故に我々は身体での会議ではなく声で遠隔で会議をしても意思一致がとること、そしてそれが社会そのものをとらえる最後の希望として託しているのである。

 そういう意味で面白い映画として、ギー・ドゥボールの『サドのための絶叫』(1952)を挙げたい。この作品は、批評家であるドゥボールが初めて作った「映像作品」としての映画である。とはいえ映し出されたものは何もなく、フィルムが回り続ける中で描かれるのは、イズーやジョイス、新聞や民法典の文章などを読み上げる叫声である。この作品が描くのは声による表象とそれによってもたらされる身体性の喪失としての生身の身体そのものを映し出す映像への強い抵抗である。ドゥボールが、近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れることを考え、そのイメージによって媒介された社会の諸関係を批判することを軸にしていることを考えていることを前提にすると、この作品における意義は、初期のドゥボールが視覚イメージを批判し打破するという文脈において極めて重要なものになるだろう。

 また、ジャン・マリー・ストローブの新作短編『ロボットたちに対抗するフランス』(2020)も興味深いだろう。ストローブは長年ブレヒトの異化効果を意識し、その映画的実践を演劇的に考えるうえで、視覚イメージよりもそのテクストの再現を重視してきた監督であるが、この作品もまさにそうである。映し出されている男性は画面上で顔を向けるわけではなく、川辺を一人歩きながら、ジョルジュ・ベルナノスの同名テクストを原文のまま朗読するだけである。そこで意識させられるのは紛れもなくテクストであり、読み上げられる男の音が独立して存在していることである。本作は前述したジャン・リュック・ゴダールにささげられたものであり、この意味ではストローブによる意趣返しのようにも見られるだろう。

 この映画は最後このような言葉を残して終わる。「技術が支配した世界は自由に敗北して終わる」と。イデオロギーの転向に苦しめられたこの作者が主張する反テクノロジー革命は、資本主義にまみれた革命の状況や、帝国主義にまみれたヨーロッパ精神への痛烈な批判として我々にその存在をさらけ出す。その中で、テクノロジーを利用しながらも、学術的本質を失いかけている大学に対し、我々は声のみの状態を脱却した後、その独立存在としての声と共に自らの身体をさらけ出す(exposés)準備ができている。

 

参考文献

蓮實重彦「フィクションと「表象不可能性」:あらゆる映画は,無声映画の一形態でしかない」『メディア哲学』(東京大学出版会、2015年)

ジャック・デリダ『声と現象』(筑摩学芸文庫、2005年)

ジョルジュ・ベルナノス『ロボットたちに対抗するフランス』(原文はGallicaのサイトで閲覧可能)

 

ご入学おめでとうございます!【2020年度新入生歓迎パンフレット『Re:Public Vol.3』】

 

drive.google.com ※軽量化のため、実物より画質は落としてあります。

 

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。

 私たち文化サークル連合は文化系7サークルの互助組織であり、それぞれのサークル活動を支え、サークル活動全体を豊かにすべく、印刷機や物品の貸し出し、サークル棟の拡張要求等の交渉を行っています。

 現在文化サークル連合に加盟しているサークルは

 です。新歓パンフレットに目を通していただいて、興味があったサークルには、ぜひ連絡してみてください!

 今年度は新型コロナウイルス感染症の拡大のなか、入学式も中止され、教室での対面授業も延期、サークル活動も当面の間禁止とされ、直接にお祝いすることができないのが悔しい限りです。

 サークル活動が禁止とされたため、各サークルがパンフレットに記載しているそれぞれの企画については、いずれも当面の間延期となりました。見通しはわかりませんが、活動を再開できる条件が整えば、できる限り早期に企画が行えるようにしたいと思っています。

 どのサークルも感染拡大防止のために現在は活動を控えていますが、皆さんと一緒に活動できる日を待ち望んでいますし、少しでも早く一緒に活動できるように、力は小さいながら、私たちの方でも最大限の努力を重ねているところです。

 新生活の不安もあるなか、少しでも私たちのパンフレットや、これまでのブログ記事の七転八倒(?)の努力を見てもらって、楽しんでいただければ幸いです。