Re:Public on Web

広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

釜山国際映画祭訪問記(前編:前哨戦から4日目まで)

愚かにも新型コロナウイルス対策の一環で5月から感染症対策が五類に移行した。しかしこのことが、海外渡航の本格解禁という一種の光明をもたらしたのもまた事実である。本記事はこれを利用して、海外映画祭への対面参加を初めて行った映画専門の記者の報告を前後編でお届けする。

 

例年奇数年には、10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭という世界最大級のドキュメンタリー映画祭が開催される。多くの映画ファン、研究者、業界関係者が10月に一堂に山形に結集するというある種の奇祭は、日本が誇る映画文化の豊かさの一端でもあると言える。

 

しかし、10月の同時期に、韓国の釜山広域市で釜山国際映画祭が開催される。1996年から開催されているこの映画祭は、国の資金援助などの後押しもあり今ではアジア最大級の映画祭としての位置を確立した映画祭である。2011年に、「映画の殿堂」(釜山シネマセンター)という世界最大級の映画祭専用施設(+フィルムアーカイブシネマテーク)がセンタムシティ(Centum City)に建設され、現在はそこをメイン会場としながら近隣のシネコンやホールも貸し切って25スクリーン(Communityという旧作の上映含める)の規模で開催されている。またアジア最大級のコンベンションセンターであるBEXCOで開催される併設マーケット(AFCM)は、アジア最大級の映画マーケットとして全世界の映画が売買される貴重な機会であると言えよう。

 

筆者は2021年以降、東京国際映画祭など日本の映画祭は対面で参加しながら、カンヌ・ベルリンといった海外の映画祭にもオンラインで参加してきた。そのため海外映画祭に関しては、「不完全」な参加という状況が続いていた。そのため渡航制限が無くなった今、海外映画祭に今年こそ対面参加しようと画策していた。しかし山形国際ドキュメンタリー映画祭のセレクションも野田真吉監督特集など捨てがたい。どうするべきか迷っていた。

釜山国際映画祭から取材認証が下りたことで、釜山渡航へとかじ取りを切ったのが9月20日。10月出発では飛行機も船も取れない。そのため飛行機の安さを優先し、開幕の4日前である9月30日に筆者は釜山の地に降り立つことになる。

しかし大阪で2024年開催が予定されている万博(戦争体制強化のためでしかないことが見え見えの資本主義の後の祭り)を、2030年釜山で開催を目指しているとのことで空港に着いた瞬間から最終日に至るまで、万博に関するCMやポスターなどをいたるところで目にし失笑することとなった。

 

前哨戦

釜山到着後、映画祭の開幕まで3日あったため早速色々と見学。まずは映画祭が開催される釜山映画センター「映画の殿堂」を下見。とても大きい。国を挙げて出資しているなど映画祭への力の入れ方が、東京と違うことを身にしみて感じる。殿堂の中には様々なシネアストたちの手形が保存されているが、最も興味がひかれたのはやはりコスタ・ガヴラスの手形である。

その後に釜山市立美術館で展示を見て(立て替えすることが決まっているため、解体と保存をテーマにしたクオリティーの高い2つの展示が何と両方タダ!)、さらに別館で日本でも高い人気を誇る美術家イ・ウーファンの展示空間も堪能。その後、2000年代前半まで映画祭が開催されていたナンポ地区に移って釜山映画体験博物館を見学。これも無料の特別展示がクオリティーが高く(映画批評家に関する展示)、釜山の映画への力の入れようを肌身で感じる。近くにある釜山タワーにはさほど惹かれなかったが、目の前にある李舜臣像を見て、在りし日の日本史を勉強していた時を思い出しながら、朝鮮を侵略した日本が償うべき負の歴史を感じる。

博物館や釜山タワーがある公園を降りた後、偶然BNK(釜山銀行)が運営する映画館(ミニシアター)の前を通りかかり、時間がちょうどよかったこともあって、クリスチャン・ペッツォルト監督の新作『Afire』を再見。ベルリン国際映画祭の時期に見た試写はオンラインだったのでスクリーンで見たいと思っていたが、釜山にも東京にも映画祭での上映作品のラインアップになかったので諦めていたため、今回この傑作をスクリーンで見ることができたという至福の一時。さらに上映後映画館のスタッフ(上司が今まさに山形に行っているらしい)から、日本から来てくれたからと『突然炎のごとく』の韓国版ポスターをいただくというサプライズも受け、釜山国際映画祭の参加準備が整った。
10月2日にはキム・ジウン監督の新作『Cobweb』をハダンのCGVで見て韓国のシネコン文化を体験し、開幕前日10月3日、映画の殿堂に行ってプレスパスを受け取る。ゲスト用土産にリュックをいただき、東京国際映画祭とプレス歓迎キットのホスピタリティの違いを感じた。

 

パスについて

筆者は今回プレスパスで参加したのだが、プレスには主に四つの種類がある。

 

赤:審査員、スポンサー、バイヤー、各国映画祭のプログラム・ディレクター級に与えられる最上級パスである。(映画祭チケットが一日5-9枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

黄:ACFMなどマーケットに参加する人間に与えられるパスである。映画祭に加え、マーケット業務、マーケット用の試写などを見ることのできるパスである。(映画祭チケットが一日5枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

青:プレス、業界関係者に与えられる一般的なパスである。筆者に与えられたパスはこの青パスのうちの一つであるプレスパスである。ただしプレスだけには別途赤、黄パスがアクセスできるビデオ・ライブラリーやプレスだけ別途行われる開幕、閉幕、ガラセレクションの三作品の試写上映へのアクセスも可能になるという権利が与えられる。(映画祭チケットが一日4枚与えられ、オンラインでのチケット予約ができる)

緑:シネフィルパス。映画を学ぶ学生向けに発行されるパスである。(映画祭チケットが一日4枚与えられるが、対面でのチケット予約しかできない)

 

このように多様なパスが存在するのだが、特に緑のパスホルダーの存在が、映画祭を活気づけていると言えよう。後述するが、この映画祭では観客の大多数が20代から30代の若者であり、ボランティアやスタッフも若い人が多く、映画への若者の熱い情熱を感じることができる。

それではここから、作品の紹介をしながら各日の内容報告に移っていきたい。

 

1日目

オンラインチケット予約システムでは翌日の分まで取ることが出来るため、この日からP&I用のわずかなチケットを争奪する争いが11日まで続くことになる。早速翌日の分からラドゥ・ジュデ、ナンニ・モレッティワン・ビンのチケットを確保したものの、ケン・ローチが満席で取れず。近年の作品は微妙なのだがやはり社会派映画の巨匠としてのローチの人気の根強さを垣間見る。

そこからオープンング・セレモニー前に、開幕作品『Because I hate Korea』のプレス向け試写。インディペンデント系の制作ながら立派な娯楽作品として作られている。様々な理由から韓国が嫌になりオーストリアへの移住を決断する女性の成長物語でありながら、過去と現在を交錯させ複層性を描き出している良作であったと言える。上映後のプレス会見の後に、日本を代表する映画ジャーナリストに初めてお会いする機会を得る。開幕式をプレスセンターから眺め見し、アンディ・ラウやチョン・ユンファ、ソン・ガンホ、パク・ウンビンなどスーパースターが登場するたびに沸き起こる歓声を体感する。筆者の一番のツボは、マスター・クラスに参加するために来日していた原一男監督の楽しそうなレッドカーペット。ここから往復2時間かけて映画祭に参加するというハードな戦いが始まることになる。

 

2日目

オンラインチケット予約のために、朝早起きし7時25分ごろ映画の殿堂の中に入ると、直接チケットを買わなければならないシネフィルパスの学生たちが150人以上列をなしていることに驚愕。事前に携帯のSIMカードを入れ替え、8時にチケットを取る。これが後で大惨事になることを筆者はまだ知らない。

悪戦苦闘しながらチケットを確保し、まずは9時から『緑の夜』(ハン・シュアイ監督)のプレス向け試写。中国の名女優でありながら、近年脱税疑惑で一線を引いていたファン・ビンビンの復帰作品だったが、あまりに中身の無い物語の引き延ばしや動きの無さに唖然とする。

怒りに震えながらも、2本目の再見作品、ラドゥ・ジュデ『Do not expect too much from the end of the world』を800人収容規模の大スクリーンで見る。大傑作。あるPR動画の制作のために彷徨う女性の肖像と1981年の『Angela merge mai departe』 (Lucian Bratu)を交錯(対話)させながら、撮影と配信という行為を通して映画そのものへの疑念を呈しウクライナ戦争と東欧危機をぶった斬る。映画が映画たらしめる意義を再確認。

3本目もこれもまた再見ナンニ・モレッティ『A brighter tomorrow』。多くの映画の作り手に送るばかばかしくも最高の映画賛歌であり、映画が集団の産物であることを示すラストシークエンスの大団円も重要な要素である。その後ビデオ・ライブラリーで見たかった作品を見て、その円熟ぶりを堪能した(これは後述する)が、その時に携帯が突然おかしくなり、セキュリティロックがかかって使用できなくなるという大惨事が発生した。

このことに打ちひしがれながらも、何とか気持ちを取り直して最後に王兵ワン・ビン)『Youth(Spring)』を見る。初のカンヌコンペ入りをした中国のドキュメンタリーの鬼才王兵の新作は『苦い銭』の内容を若者向けに特化する形で2014年から2019年に撮影された映像で構築されている。だがいつもの王兵の作品にしては、テイストがかなり軽快であることに違和感を覚えた。カメラは真摯に被写体を捉える。そこに映し出される労働者の彼らは、年齢に比して幼く見える。酸いも甘きも知らないまま、労働に従事させられている彼らのせめてもの楽園としての対話、休憩、食事の姿をカメラは捉える。軽快であるというのは、安い賃金で働かされている日々の裏側なのかもしれない。王兵は、あえて実態から離れた本当の人々の裏側を真摯に撮影するというリスクをとることを選んだのだろう。意欲的な作品であると言える。

 

3日目

オンラインチケット予約に悪戦苦闘した後、走ってベルトラン・ボネロの『The Beast』のプレス向け試写。これがまた素晴らしい傑作であったことを記しておく必要があろう。レア・セドゥ演じる女性がある実験室に幽閉され、様々なキャラクターを演じながら一人の男を追い求める中で自らの野性を見いだしていく様を描く。トリプル・エクラン、ビデオ撮影など映像の実験を巧みに刊行しながら、男と女の放浪と消滅による絶望を見事に炸裂させ、映画の持つべき運動の空間形成が見事な作品であった。

しかしながら2本目に見たセリーヌ・ソン『Past Lives』は、アメリカに移住した韓国人女性と韓国に留まる韓国人男性の初恋の終焉までを描くメロドラマなのだが、あまりに紋切型な移民映画の設定に加え、中身の無い内容の引き延ばしが重なって(とりわけラストの女性が泣くシーンなどが該当するだろう)空虚極まりない作品だったことで失笑してしまった。これだったらキム・ソヨンの『霧(Mist)』を見ればよかったと後悔。

その後、3本目に待ちに待ったホン・サンスの新作『In our day』。いつものホン・サンスの映画でありながら、かなりコメディテイストが強い作品(酒とたばこをやめながら、取材を受けていく中でその欲望が再び出てくるお爺さんの詩人などが特に挙げられるだろう)だったのか、爆笑している人が多く韓国でのホン・サンス映画の見方を学ぶ。

その後ビデオ・ライブラリーで『バクラウ 地図から消された村』で日本でも知られるようになったクレベール・メンドンサ・フィリーオ『Pictures of the ghosts』を見る。この作品は監督自らの映画作りへと移る過去を描く一部、ブラジル映画産業界の歴史を語る第2部、そしてサン・パウロの老舗映画館(現シネマテーク)を軸とした映画と観客の関係性を語る3部構成になっている。ブラジルの映画史を巡るドキュメンタリーとしては興味深いが、シネマ・ノヴォの鬼才グラウベル・ローシャネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの映画が引用されないなど、作家主義へのこだわりが薄いことが疑問視されてもおかしくはないドキュメンタリー作品ではあった。

三日目の最後にはBIFF Theaterという3-4000人が収容できるという超大型の野外劇場でリュック・ベッソンの新作『Dogman』を見る。上映前にベッソンが登場したことで、観客のボルテージがマックスになりながら映画がスタート。親兄弟に虐待を受け、犬と不思議な共存関係を形成する男の犯罪遍歴を描く。しかしながら、動物的な狂気も平坦で凡庸なものにとどまっており、今更感ある設定もとどまって新しさを感じない作品であった。これがゆえにケイレブ・ジョーンズの熱演もあまり報われていなかったこともまた残念極まりない。

 

4日目

この日からしばらく朝9時からのプレス向け試写がない(厳密にいうと朝9時30分から是枝裕和の『怪物』の試写があったようだが、筆者は既に公開時に見ているため見る必要がなかった)ため、すこしゆっくり目に朝7時ごろ起きて、8時に今映画祭最難関の作品のチケットを予約し、無事成功。

まずは一本目バス・デヴォス監督『Here』を見たところ、これが傑作であった。どこか脆さを抱えたスタンダードサイズの映像が、人々の偶然的な出会いを通して語りを始める。その多種多様な映像の言語でもたらされる本作品は、断絶されていた都市と山野部の結合の運動をもたらす。苔という事物が、正しく映画のテーマである生き延びというものの見事な象徴になっておりうならされた。

2本目に見たのはフィリップ・ガレルの新作『Le grand chariot』。ザンジバル集団期以降からガレルの映画通底している家族共同体の形成と崩壊というテーマは、本作にも継承されており、ある家族経営の人形劇団が家父長の死によって崩壊していく様を描く。しかし本作品は、ガレルの作品の中によく見られた放浪があまり見られない代わりに、家族共同体が崩壊へ向かう足取りが軽く、いささか不気味に感じざるを得なかった。

別の映画館に移動し、3本目に先日開催されたヴェニス・デイズでワールドプレミアされた杉田協士監督『彼方のうた』。杉田の12年ぶりのオリジナル作品となる本作は、女優小川あんを主演にある謎の悲劇的過去を持つ女性が多摩地区を彷徨い、様々な人間との邂逅を経て自らの音、そして打ち消そうとした忘却不可能な過去と向き合うということを暗示するさまを描く。杉田はこれまでどこか強さを持ちながら脆い人物たちとの対話を描いてきた。今作品もその路線は継承されるが、小川の演技が冒頭からほぼ映画から浮世離れした感覚がぬぐえず、ようやく地に足の着いた人物となるラストシークエンスの前まで終始違和感を覚え続けた。

上映後杉田監督の挨拶が行われたが、写真だけ撮ってそそくさと失礼し(杉田さん、ごめんなさい)、そのまま4本目となるフレデリック・ワイズマン『Menus Plaisirs les Troisgro』という4時間の大作ドキュメンタリーを見る。ダイレクト・シネマの系譜を受け継いだ対話型ドキュメンタリーの巨匠ワイズマンの新作は、パリの老舗レストラン「トロワグロ」についてのドキュメンタリーであり、食をテーマとした政治的・社会的・文化的な対話が描かれる。そこには料理人だけではなく、消費者(お客)、生産者、近隣のレストラン、そして市民の存在が浮かびあがり、カメラは丁寧に彼らの対話や労働風景を映し出す。レストランについてのドキュメンタリーと聞いてワイズマンの作風が変わってしまうのかと心配していたが、そこは変わらずであったので一安心した。ただし、撮影監督が常連のジョン・デイビーではないのでご注意を。

 

後半戦は、世界三大映画祭の最高賞を受賞した作品や、日本公開直前の話題作品など内容が目白押しである。後編に続く。

 

(映画研究・表象文化論

『リタ・アゼヴェード・ゴメス監督小特集―「上演する映画」を巡って―』を開催します。

大変お待たせしました。2023年夏の映画研究会の上映企画開催のご案内です。

 

『リタ・アゼヴェード・ゴメス監督監督小特集―「上演する映画」を巡って―』
2023年8月25〜26日 場所:横川シネマ(JR横川駅徒歩3分)

8月25日(金) 
19時ー ポルトガルの女(A Portuguesa)(リタ・アゼヴェード・ゴメス:2018年、137min /日本語字幕:木下眞穂 ※広島初上映)
戦争に生きる夫と離れること10年余。北イタリアの古城で読書し、歌を唄い、踊り、森を散歩して過ごす若い公爵夫人。周囲はそんな彼女の孤独を憂い古城を墓場とみなす。しかし、この生活は選び取ったものなのだと彼女は譲らない。オーストリアの作家ロベルト・ムージルの小説を、マノエ ル・デ・オリヴェイラの盟友、アグスティナ・ベッサ=ルイスが脚色。フランドル派絵画のような映像が鮮烈な印象を残す、スタイリッシュな歴史劇。
 
8月26日(土) 
19時ー 変ホ長調のトリオ(O Trio em Mi Bémol)(リタ・アゼヴェード・ゴメス:2022年、127min /日本語字幕:小城大知 字幕監修:木下眞穂 ※日本初上映)
別れてから一年経つ男女、映画の撮影に苦悩する映画監督とアシスタント、そしてモーツァルトの「ケーゲルシュタット・トリオ(ピアノ、クラリネットヴィオラのための三重奏曲」変ホ長調 K.498)」。三つが複雑に交錯し、トリオ(三重奏曲)を奏でる。エリック・ロメールが唯一記した戯曲『変ホ長調三重奏曲』を映画化した、リタ・アゼヴェード・ゴメス監督の現時点での最新作。日本初上映。
 
21時15分ー トーク
ゲスト:赤坂太輔さん(映画批評家)
 

リタ・アゼヴェード・ゴメス
1952年生まれ。現代ポルトガルの重要な作家としてこれまで『Frágil como o Mundo』(2001)や『Altar』(2002)、『A Vingança de Uma Mulher(ある女の復讐)』(2012)など多くの作品を制作。『ポルトガルの女』(2019)は、ラス・パルマス国際映画祭で最優秀賞を受賞するとともに、日本でもイメージフォーラム・フェスティバル2019、EUフィルムデーズ2021で上映され高い評価を得る。新作『変ホ長調のトリオ』(2022)はベルリン国際映画祭フォーラム部門でワールドプレミアされて以降、全州国際映画祭など数多くの映画祭で上映、本企画が日本初上映となる。また、『バクラウ 地図から消された村』(クレベール・メンドーサ・フィリオ監督、2019)では衣装デザインを手がけた。


入場料金:通常料金(ただし大学生、専門学生は特別料金500円)
 
主催:広島大学映画研究会 
共催:広島大学文化サークル連合
助成、特別協力:在日ポルトガル大使館文化部、カモンイス言語・国際協力機構
提供、協力:Portugal Filmes, Basilisco Filmes,イメージ・フォーラム
 
※本上映についてのお問い合わせ
広島大学映画研究会
hirodaicinema@gmail.com (小城大知)
 
※作品についてのお問い合わせ
・『ポルトガルの女』Basilisco filmes
basilisco.filmes@gmail.com

・『変ホ長調のトリオ』Portugal Filmes 
pf@portugalfilm.org
 

 

文芸部新歓企画の報告①

新歓企画①として「多喜二を読む」を開催しました。スライドと蟹工船の気に入った記述を紹介します。

 

drive.google.com

以下は『蟹工船』からの引用と発表者のコメントです

「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領海へこつそり潜入して漁をするそうだど。それで駆逐艦がしつきりなしに、側にいて番をしてくれるそうだ--大部、コレやつてるらしいな。(拇指と人差指で円くしてみせた)」
「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロ転がつているようなカムサッカや北樺太など、この辺一帯を行く行くはどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレ(※戦争)は支那満洲ばかりでなしに、こつちの方面も大切だつて云うんだ。それにはここの会社が三菱などと一緒になつて、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれば、もつとそれをドンドンやるようだど」
……
「俺初めて聞いて吃驚したんだけれどもな、今迄の日本のどの戦争でも、本当は--底の底を割つてみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、動機(きっかけ)だけは色々にこじつけて起こしたもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れたくて、手に入れたくてパタパタしてるんだそうだからな、そいつ等は。--危いそうだ」

 

→戦争の本質を喝破している。労働者の権益のため、国益を守るため、と言われているが本質は資本家の利益=資源や市場のために起こされるのが戦争であり、そこに動員されるのはいつも労働者だということ。今も変わらない。ロシアは東ウクライナの住民保護をかかげてウクライナに侵攻した。太平洋戦争も国益大東亜共栄圏を守るためと言われて始まった。

 

「僕はお経は知らない。お経あげて山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕はよく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかつたべか、とな。--イヤ、本当のことを云えば、どんなに殺されたくなかつたか、と。確かに山田君は殺されたのです」
聞いている者達は、抑えられたように静かになつた。
「では、誰が殺したか? --云わなくたつて分つているべよ! 僕はお経でもつて、山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕等は、山田君を殺したものの仇をとることによつて、とることによつて、山田君を慰めてやることが出来るのだ。--この事を、今こそ、山田君の霊に僕等は誓わなければならないと思う……」


「然し、こういうようなことは、調子よく跳ね上がつた空元気だけの言葉ではなかつた。それは今迄「屈従」しか知らなかつた漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いをしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力だ、ということを知らずに。
--そんなことが、「俺達に」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。
そう分ると、今度は不思議な魅力になつて、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行つた。今迄、残酷極まる労働で搾り抜かれていた事が、かえつて其の為には此の上ない良い地盤だつた。--こうなれば、監督も糞もあつたものではない! 皆愉快がつた。一旦この気持をつかむと、不意に、懐中電灯を差しつけられたように、自分達の蛆虫そのままの生活がアリアリと見えてきた」

 

蟹工船は、小説としての結末はストに軍隊が介入する(敗北する)ものとなっていますが、労働者がたんなる無力な存在ではなく、生き生きと闘いに立ち上がる様子をあらわしています。2008年リーマンショック時の「蟹工船ブーム」から15年、多喜二の没後90年、そして世界戦争の足音が聞こえている今こそ、一読/再読の価値はあるのではないでしょうか。

匿名加工情報の提供=サークル員名簿の売り渡しを許さない!

 広島大学は、学生や教職員等の個人情報を、一定の加工をして外部に提供する「匿名加工情報」の提供を学生や教職員になんの事前の確認もなく実行しました。

www.hiroshima-u.ac.jp

責任者も知らないのに外部に提供?

 この中には、課外活動団体の登録情報を記載した「学生団体結成・更新届」も提供されることになっていました。この中にはサークル員名簿の個人情報も入っています。さらに言えば、この「学生団体結成・更新届」にはもともとは「ご記入いただいた情報は,課外活動支援,施設管理業務および広報業務のために利用され,その他の目的には利用されません」とありました。こうした約束をも反故にしたのです。しかし、学生の個人情報管理の責任者となっている小畑・学生生活支援グループ(学活G)リーダーさえ、この匿名加工情報の提供について知っていませんでした。大学の信頼が根本的に問われる事態です。
 文サ連としては、一方的に義務化されたサークル員名簿の提出強要に継続して抗議してきた最中の出来事であり、このサークル員名簿の義務化自体についても十分な説明もないのに、個人の特定ができないように加工すると言っても、課外活動団体になんの確認もなく、外部に勝手に提供するなどということが許せるわけがありません。しかも、この情報の外部提供には、手数料という形で大学が収益をあげるようになっています。

個人情報の全面的な提供へと行き着く

 今回は「匿名加工情報」として個人が特定できないように情報を加工してから外部に提供するのだと大学側は説明しています。
 しかし、どの情報がどのように加工されるのかは、まだ誰も把握していません。また、この加工を行う担当者などは、直の個人情報を目の当たりにするわけですが、どこがこうした個人情報の加工をするかも公示されていません。全くのブラックボックスで、勝手に個人情報がやりとりされるということです。
 こんなことを容認してしまえば、表面的には「情報を加工して個人を特定できないようにしていますよ」と言っていても、裏で直の個人情報がやり取りされてもわからないことになります。「加工して提供するから大丈夫」など、全く信用することはできません。学生の個人情報管理の直接の責任者である小畑学活Gリーダーさえ、この匿名加工情報の提供について知らなかったことは、大学が信頼できない組織であることをよく示す事態です。

戦争動員ー自衛官募集や治安弾圧に使われる恐れ

 こうした個人情報の外部への提供は、ビッグデータ活用などの情報ビジネスへと利用されるのみならず、自衛官の募集や、学生活動への治安弾圧を招くものになりかねません。安保三文書改定をはじめとして、岸田政権は戦争に向けて全社会を動員する体制を構築しようとしているなかで、こうした戦時的対応は絵空事ではなくなっています。

 というのも昨今、全国の自治体で自衛官の募集のために、本人が明確に拒否する意思表示をしない限り、勝手に各自治体の高校生などの個人情報を自衛隊に提供してもよいとする運用がなされはじめているからです。

 治安弾圧という点でも、かつて広島大学でも学生運動の監視のために課外活動団体に所属する学生がスパイとして公安警察に買収されていたということもありました(本人が良心の呵責に耐えかねて告発)。こうしたスパイなしでも情報を手に入れられるようになりうるということです。

 また、ミサイル避難訓練へ運動部を動員するといった形で、すでに課外活動の戦時的動員もはじまっています。課外活動の持っているつながりが、大学や国の都合で利用されるようになりはじめているのです。

www3.nhk.or.jp

名簿提出強要ごと跳ね返そう

 課外活動に関して言えば、そもそも、こうした外部への匿名加工情報の提供というのは、「学生団体結成・更新届」に本来は提出必須でなかった名簿の提出が義務化されたことから可能になったことです。

 今年5月に今年度の課外活動団体の更新がありますが、これからの団体結成・更新は、こうした外部への情報の売り渡しがなされることへも同意したとみなされるのです。誰かれ構わず仲間の情報を売れと言われているようなものです。このようなことに同意することは決してできません。

 これまで私たち文サ連は、サークル員名簿の提出強制そのものに反対し、それによって受けている不合理・理不尽もいずれ跳ね返すという決意で引き受けて今日まで闘ってきています。どのような都合があろうとも、決して仲間を売ったりしないというのが、ともに課外活動を担う仲間への正しい態度ではないでしょうか。

 誰も知らないまま、勝手に提供されようとしている「匿名加工情報」。この一点だけとっても、一切容認できないものです。ぜひともに声を上げ、そもそもの発端であるサークル員名簿の提出強要ごと、この「匿名加工情報」の外部への提供を停止させていきましょう!

広島大学へようこそ!【2023年度新入生歓迎パンフレット『Re:Public Vol.6』】

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!

 皆さんが大学生活に求めるものはなんでしょうか? それが何であれ、何かを求めて大学に来たということがあるなら、それを忘れないようにしてほしいなと思います。そうした理想や希望は、ささやかであればあるほど、守っていくのが難しいからです。物価高騰や就職への不安、あるいは徐々に近づいてきている戦争の危機の方が、希望や理想より現実的に迫ってきます。だからこそ、皆さんの夢や希望が押しつぶされないように、こうした現実的な脅威に対し、ひとりで縮こまるのではなく、みんなで団結して立ち向かうことが必要です。そのためにあるのが文サ連なのです。皆さんが希望の持てる、あるいはそれを見出そうと努力することのできる大学環境を、みんなで精一杯切り開いていきたいと思います。

 今年度は、ついにコロナを理由にした課外活動規制が大きく解除されることになりました。教室利用をはじめとした対面での活動がようやく全面的にできるようになってきました。こうした変化自身、政府の方針の転換ということもありますし、課外活動団体として、不断に大学側と折衝してきた結果でもあります。ぜひこうして得られた一定の自由を積極的に謳歌してほしいなと思います。そして、そうした人生の一ページを、文サ連の加盟サークルとともに過ごしていただければ、これ以上にありがたいことはありません。

 

 今年の各サークルを紹介したパンフレットはこちらから閲覧できます。

drive.google.com

 現在、文化サークル連合に加盟しているサークルは

 です。気になるサークルがあれば、ぜひ気軽に連絡してみて下さい!

 また、もし自分で新しいサークルをつくってみたい、という方がいれば、文サ連に連絡していただければ、全力でサポートしていきたいと思います。

 「求めよさらば与えられん」。

ベルリン国際映画祭2023+Cinéma du réel報告

2023年の映画祭シーズンもいよいよ1月下旬のロッテルダム国際映画祭からスタートした。その中で2月から3月にかけて、世界三大絵映画祭の一つであるベルリン国際映画祭及び、実験映画祭であるCinema du reelが開催された。本記事では二つの映画祭にオンラインで参加した文化サークル連合に所属する映画専門の記者による簡潔な報告をまとめていきたい。

 

ベルリン国際映画祭2023

ベルリン国際映画祭は2023年度は2月16日から27日まで開催され、延べ400本近い作品が上映された。その中で最高賞(金熊賞)を争う、コンペティション部門には21本の作品が集まり日本から新海誠監督『すずめの戸締り』が上映されたことは、日本国内でも話題になったと言える。しかしながら受賞結果を見てみると、「優れた映画」は物語に依存しない映像の芸術であることを審査員が示したものとなったといえるだろう。

 

例えば、銀熊賞審査員グランプリ)を受賞したクリスチャン・ペッツォルト『Afire』は自らの作品を制作するためにある田舎町のコテージにやってきた作家とカメラマンが、そこに住まう2人との関係を築きながらも山火事という大事件を媒介させながらあくまでも静かな断絶を経る過程を、過剰な物語性に依存することなく見事な映像を用いて描いた作品であったと言えよう。劇中で読まれるハイネのテクスト、火事による火(同性愛)と波が描き出す水(異性愛)という動と静の対峙が映画的なものをさらに盛り上げる点が極めて好感できるものであった。

 

そして何よりすぐれていた作品は、脚本賞にとどまったのが残念であったアンゲラ・シャーネレク『Music』であろう。オイディプス王を翻案したアンゲラ・シャーネレクの力量には圧倒される。コロナ禍の今、死が蔓延するこの世の中に向かって、拘置所からキッチンから森の中から「歌」の蜂起=抵抗の狼煙が沸き起こる。物語性を見事に排ししかしミニマルで有りながら、これらを包摂するリズムを作り出す躍動感ある演出こそ見事な大傑作であったと言えないだろうか。

 

故に、ヴィッキー・クリープスの演技だけでものを言わせたマルガレーテ・フォン・トロッタの作品の凡庸さや、9歳の子役の見事な演技をもって成り立つことしか言えない『20.000 especies de abejas』のもつ演技に依存する「物語の」空虚さが強調されてしまう。後者に関して言えば、昨年度の金熊賞を受賞したカルラ・シモン『アルカラス』しかり、スペインの農村/子供を軸とした映画には個性がなく、子供の作品と言えば『Totem』の方が秀逸であったといえるのではないだろうか。またアニメーション作品が、とりわけ物語に依存しているのも興味深い。その中で物語が歴史の修正に加担するという下劣さをまざまざと見せつけられたのが新海誠『Suzume(すずめの戸締り)』であった。この作品は東日本大震災を単なる消費の記号に貶めた卑劣極まりない作品である。地震を不可視とする事で、原発という真の人的災厄から目を背けさせようとする態度は、もはや資本の暴力がもたらすイメージの大虐殺に他ならない。

 

また映像重視においても留保しなければならない作品も存在していたことが挙げられる。それは、ジャコモ・アブラジーゼ『Disco Boy』の存在である。不法入国を目指す中で友人を失い、外人部隊での軍人採用によってフランスにアイデンティティを獲得しようとする男アレクセイと、ニジェール・デルタ植民地主義とのゲリラ闘争を行う男ジョモの物語を描きながら二人の交錯するさまを描くこの作品では、二人が戦闘するシーンでクリス・マルケルが『サン・ソレイユ』で呼称する「ゾーン」が使われることにより境界が薄まりなくなっていくという演出がなされる。しかし、あのような状況でアイデンティティを失わせる演出が果たして効果的であるかはやや不明と言わざるを得ない。むしろディスコの中でアイデンティティを失うというのはそれなりに面白く見たが...

 

Cinéma du réel 2023

コンペティション部門の報告ばかり書いていたので、Cinéma du reelの報告もかねてフォーラム部門の作品についての報告へと移っていきたい。まずその前に日本ではあまりなじみのないであろうCinéma du reelとは何かを簡単に説明したい。直訳すると「現実の映画」と訳されるこの映画祭は、パリの文化機関ポンピドゥー・センターが主催する実験系映画祭であり、主に実験映画、ドキュメンタリー映画を中心に世界中の作品からすぐれた作品を選ぶコンペ、フランスの作品のコンペ、特集上映とWIPから構成される映画祭である。今年は3月26日から4月2日に開催され、筆者はオンラインでほぼすべてのコンペ作品を試写で拝見する機会に恵まれた尚今年の特集は先日逝去したジャン=リュック・ゴダールと1968年にジガ=ヴェルトフ集団を結成したジャン=ピエール・ゴランについての特集であった。

この映画祭の傾向は近年ベルリン国際映画祭のフォーラム部門と類似している傾向があり(理由としてフォーラムは実験系映画の運営機関であるアーセナルが運営母体となるベルリナーレでも独立した立ち位置を持つからである)、フォーラム部門でワールドプレミアされた後に、cinéma du réelでフランス初上映となる作品も多からず存在する。以下、フォーラムとréelの両方で上映された二つのすぐれた作品を取り上げたい。

 

まずはやはり、大本命ジェームズ・ベニングの新作『Allenworth』に触れざるを得ない。ベニングは既に日本でも多くの作品が紹介され、吉田孝行の論考や実践創作によって認知度が高い映画作家である。アレンズワースというカリフォルニアの黒人コミュニティを舞台とした本作品は一か月ごとに映像が切り替わるという構成をとる。その中でコミュニティの軸となった建物の歴史的変遷をベニング特有の固定長回しのショットで浮かび上がらせる。『11×14』(先日建築映画祭2023で上映された)以来、ベニングの関心が向けられる都市、コミュニティ、建築物から歴史を静かに浮かび上がらせるという手法は本作品においても健在であり、また『RR』のように列車が運動の象徴となるのは本作品にも見事に継承されている(前作品『The United states of America』ではカーレースが特徴的だったが)。更に読み上げられるルシール・クリフトンのテクスト、ニーナ・シモン『Blackbird』も心にしみわたる。

 

次にクレール・シモン『Notre Corps』が素晴らしい作品であったことに触れておく必要があるだろう。『若き孤独』が山形国際ドキュメンタリー映画祭2021で上映されたシモンの新作は、パリ郊外の婦人科クリニックである。婦人科クリニックの診療の様子を舞台にした本作品は出産や癌治療、不妊治療と言った、(現代日本では特に)個人の問題に捨象されやすい問題を様々な対話を着実に積み重ねることで可視化し、女性の「身体」や生きることを描き考えることを目指す168分の大作であったと言える。被写体を被写体のままにしないためには、対話を引き出すことが必要なのでありシモンは忠実にしかし野心的にこの作業を積み重ねることで女性たちの生きていくための現実を顕現させる。エンディングで流れるカミーユTa douleur』もまさにテーマにふさわしい一品である。

 

最後にデボラ・ストラットマン『Last Things』は、実験映画そのものであるが、映画というのは実験から派生するということを改めて思い出させてくれる作品であった。生命の神秘、宇宙の巨大さを前にして映画は何ができるのか。その中でストラットマンは50分の本作品でその生に圧倒されるのではなくあえて付随することで映画が持つべき実験性を創造することに徹するという誠実さをもってこの問いに答えていたと言える。

 

最後にCinéma du réelのみで上映された作品から一作品を取り上げたい。常連のハインツ・エミグホルツの新作も素晴らしかったが今回最も素晴らしい作品であったと思わされたのがアラン・カサンダ『Coconut Head Generation』である。この作品はナイジェリアのイバダン大学で毎週木曜日開催されるシネクラブについてのドキュメンタリーであり映画が娯楽ではなく、政治的な手段であることを再確認させられる。シネクラブで上映される映画のテーマは多様であり、視点の交差性、脱植民地化、フェミニストの闘い、LGBTの闘い、少数民族、学生の権利、選挙などをテーマにした主にアフリカで制作された作品を鑑賞し、上映後に学生たちが映画を軸に議論を重ね政治性を高めていく過程が本作品では描かれる。その中で脱植民地化をテーマとした作品でクリス・マルケルアラン・レネが共作した『彫像もまた死す』が上映されていたことに驚愕した。活発な議論を通して学生たちは自分の位置を確認し、違いを主張し、一緒に考えることを学ぶ(ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが指摘するようなイメージの「位置取り」と類似したものであると言える)。そして現実と対峙する彼らは、実際の政治活動(デモ)にも参加することで映画と政治が交錯することに気づく。暴力や腐敗にほだされた世界を変革するのは、マルクス以降指摘されるような労働者、学生であることを映画は誠実に描き出す。「ココナッツヘッド世代(Coconut Head Generation)」に、ナイジェリア社会や世界と向き合う場を提供する映画のすごみを改めて感じさせる傑作であったと言える。

 

映画は社会と対峙するための芸術作品であることを、二つの映画祭は再確認させる良い機会であったと言える。しかし日本の映画業界を見てみるともはや物語るというコンテンツが重視され、映像で示す作家主義の抹殺が途方もないレベルで進行している。そんな中で今年は山形国際ドキュメンタリー映画祭が開催される。現実の芸術である映画の意義を再確認させるのは物語性ではなくフィクションからの逸脱であり、実験やドキュメントという「現実の映画」に回帰することではないだろうか。

(映画研究、表象文化論

 

 

部落解放研究会2022年の活動

2022年(年度)を振り返ってみようと思います。

文化サークル連合に所属しています、広島大学部落解放研究会です。

2月にロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、一気に戦争の時代を体感した学生・教職員は多いと思います。戦争の時代とは、差別の時代です。

わたしたち部落解放研究会は、差別の根絶と戦争絶対反対をゆずれない理念としています。昨年・2022年度はまさに差別・戦争をどう終わらせるかを考え抜き、走りぬいた1年でした。

3月3日 全国水平社創立100年

2022年の3月3日は1922年に全国水平社が創立してから100年を迎える日でした。2021年におこなった水平社博物館(奈良県)のフィールドワークを振り返りつつ、1週間前にはじまったウクライナ戦争を念頭に、戦争と差別と対決していくことを決心しました。

5月23日 石川一雄さん不当逮捕59ヵ年糾弾

5月、激動でした。5月15日は沖縄の本土「復帰」50年の日でした。「核抜き本土並み(基地負担)」の願いを踏みにじっての屈辱的・ペテン的な「復帰」から50年の日です。岸田首相や天皇が祝いに来ることなど許せない、と沖縄現地の人びととともに声を上げました。

5月22日にはバイデンが来日し、23日に日米首脳会談を、24日にはQUAD(日米豪印)を、岸田政権は東京でそれぞれ戦争会談を開催しました。日米首脳会談では「拡大抑止」(=核軍備)と「軍事費2倍化」をバイデン大統領と確認し、広島でのG7開催まで取り付けました。

日米首脳会談を弾劾しつつ、5月23日には狭山集会に参加しました。石川一雄さんが不当逮捕されてから59年を迎える年であり、水平社創立100年ということで、国家をしての権力犯罪、冤罪事件である狭山事件の再審を勝ち取り、石川一雄さんにかけられた見えない手錠を外すまで闘うことを決意しました。

夏 戦争との対決

7月8日、安倍元首相が銃撃され、死にました。すぐさま岸田政権・自民党を筆頭に、「リベラル」「左派」と呼ばれる議員まで「追悼」ムードを扇動し、安倍政治=戦争国家化を賛美しはじめました。

8月6日、9日と反戦反核を誓い、戦争絶対反対の声を上げました。7月から9月にかけて、「国葬」をめぐる議論が(旧統一教会問題なども含めて)盛り上がりました。カルトとのかかわり、法整備もないままの閣議決定での強行、思想・良心の自由の侵害、税金の無駄遣い、など様々な切り口で批判されていましたが、この国葬の核心問題は「戦争」です。戦争政治を行った人物(ウクライナ開戦直後に「核共有」と言った人物!)を賛美し、反対の声を押し切って強行する、これが戦争の問題でないはずがありません。

10月31日 寺尾判決48ヵ年糾弾

10月31日、寺尾判決で石川一雄さんに「犯罪者」のレッテルが貼られてから48年が経ちました。この日の10・31狭山集会にむけて、集会の基調を書きました。高校時代以来、部落解放にかかわってきた自分の歴史を振り返りながら書きました。

221031狭山集会基調.pdf - Google ドライブ

 

以上、簡単にではありますが2022年の振り返りとしたいと思います。

 

今年5月19日からは広島でのG7サミット開催がおこなわれようとしています。G7各国や首魁であるアメリカは、この1年間ウクライナで何をしてきたか。大量の武器輸出で停戦交渉をことごとく破壊し、軍需産業をぼろ儲けさせ、ウクライナとロシアの民衆に泥沼の殺し合いを強制し、戦車や爆撃機の供与にまで踏み切ろうとしている(戦車や爆撃機というのは言うまでもなく、「防衛」のためのものではない、「侵略」のための兵器であり、ロシアに攻め込んでやっつけるまで戦争を絶対にやめないという宣言だ)。G7の戦争屋たちが一堂に会して「平和のため」に話し合うはずがない。ヒロシマに来て核のボタンを平和公園に持ち込んで、戦争の話をする、というのがこのG7会議であり、止める以外ない。

そしてここで狙われている「次なる戦争」こそが中国への侵略戦争だ。沖縄・南西諸島にミサイルを配備し、沖縄戦を繰り返そうとしているのだ。大軍拡(軍事費二倍化と敵基地攻撃能力保有)に突き進む岸田政権を倒し、G7戦争会議をとめ、戦争を終わらせよう!