Re:Public on Web

広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

「形式」について

文サ連の学内機関紙『Re:Public Vol.1』に掲載した、サークル員の文章完全版をこちらにも掲載しますー

「形式」について

 形式は「外れないこと」。形式は、知的生産、概念の応用利用のために与えられるものである。

 人は自らの経験を帰納して概念を理解する。概念そのものには、「こういう概念である」という一定の必要性から生じたであろう線引きがあり、蓋然性に基づくはずだが、その認識には各々の経験の色合いによって差異がある。例えば、生きた魚をみたことはないが、スーパーで売っている切り身を見る経験は少なくない、そういう子供が、切り身、これこそが魚の姿である、と考える場合。彼の経験を理解しなければ異様なことでも、彼の経験、経験によって構築された世界観を把握することができれば、納得できることではないだろうか。

 概念として事象が説明される場合、優先されるべき性質というものがあって、その優先順に整理されるのだろう。その概念の本性、順序に反する場合、違和感を覚えるのだと考えられる。切り身の例でいえば、魚(生き物)の概念は「加工されていない状態」が優先で、それに反していたのだろう。

 

 形式とは、知的生産には目的があるがゆえに、その目的を達成するためにあらかじめ概念のスロット、枠をもうけることによって、その目的から外れないようにするために用意される。枠を埋める自由度はあるが、その枠の設定自体からははみ出ないよう統御する目的がある。

 それは授業と同じ性質である。教師が生徒を導く際に、授業という形で「概念の正しい姿」を教えなければならない。そして、演習によって教わった概念を応用することで、生徒は概念を把握していくのである。授業で与えられた知識が枠となる。

 困惑するのは、形式や授業で提示される「正しい姿」は絶対的な正しさではない、ということにある。形式が絶対に正しいわけではなく、授業に誤りがある場合もある。しかしながら、前提がなければ、形式が与えられなければ、誤りかどうかも判断されえない。不確かといえど、足場がなければ立つこともままならない。

 ではいかにして形式や授業は構築されるか? それは前例によって、これが多くの場合である。すでに行われた「正しい姿」を引き継ぐのである。もちろんこれは答えになっていない、本質を理解していない、実情を語っただけの盲目的な回答である。問題は前例のない状態でいかにして形式が構築されるか、ということだ。先に足場をつくった者は一体どうやってその足場をつくったのか、ということだ。

 それは、概念は経験の帰納によって理解されることから、個人・あるいは集団の経験の総算として「正しい姿」を示そう、という行いによって、ということになる。つまり局所的な経験を総合し、正しい状態を目指す精神によって構築される。形式や授業の「正しさ」というのは、経験の豊かさ、豊かであろうとする意識によって支えられているのである。

 概念の本質に近づく行いとしての崇高な授業、崇高な形式というものは可能である。その一方、歴史的な事象として貴族制、独裁といった一部の人間の経験を、特権的に体現して大衆にあてはめさせる形式もあった。独裁を、一部の人間の経験を特別視し、その意識を前例として引き継ぎ続けた時代が、人間の歴史の中に確かにあり、今も続いているのだ。誰かを踏み台にして、特権的立場の人間がその上を歩くように足場が構築されてきた歴史があるのだ。

 貧乏人の経験と、金持ちの経験は全く異なる。100円程度のストロングゼロで満足する者と、100万越えのロマネコンティでも満足できない者の経験が異なり、「正しい姿」が異なるのは当然である。形式は、その形而上学的なイメージと裏腹に、経験に彩られた、その経験の差異を明瞭にする、最も正確な形態なのである。

 

 学生生活に関する規則、これは明白な形式であり、学生生活委員会(その組織実体さえ明らかにされていない)が、その組織の経験によって、学生との合意もなしにつくられた歴史を持ち、また合意なしでこれから改定されるというような話が言われている。

 合意が必要ないと言われているのはなぜだろうか。それは「正しい姿」を教えるため、なのだろう。「正しい姿」を想定することが、学生にはできないと考えられている、からなのだろう。

 

 ところで、学生はいかなる存在としてその特殊な存在形態、一時期労働に従事せず学問を行うことが認められているのだろうか。それは本来労働に従事するはずだった期間を学問探求に費やし、より物事の「正しい姿」を理解し、労働に従事しなかった分も含め、社会に還元するためではないか?

 であるならばなぜ学生生活に関する規則について、学生自らの「正しい姿」について自ら考え、形式化することから排除されなければならないのだろうか? 「正しい姿」について考え、その各自の経験の狭さから脱却しようとすることを、義務とさえされているような学生という存在が、なぜ学生生活委員会の、その経験の豊かさも示されないままその形式に甘んじなければならないのだろうか?

 

 副学長は「学生を守りたい」から「規則を守れ」と言う。しかし、彼は学生の死への悲しみについては語らなかった。痛切に言われたのは、事故を起こせば大学が親に訴訟されうる、ということでしかなかった。仲間の死を悲しまないサークルなどない。その悲痛を経験した者が、その経験から、その苦しみを二度と繰り返させないという決意の上にしか、正しい形式などありえない。果たして副学長には彼の語った飲酒による死亡事故の例が、訴訟されるリスクを負ったという経験以上に、同じ大学で未来を学ぶものが命を奪われた、そういう経験として自覚されているのだろうか!?

 

 この大学では、キャンパス構内で飛び降り自殺した学生・教職員がいても、その経験を繰り返さないための形式にすることはなかった。酒の勢いで、学生を馬乗りになって暴行した教授がいても、その経験を繰り返さないための形式が作られることはなかった! サークルのことだけが! 学生のことだけが、自らに訴訟リスクを与えうる経験として、そのリスクを回避する目的を形式にするものとして、規則になろうとしている!

 サークルの数を減らす!こんなことまで言われてだ! これは独裁と何が違うだろうか! どれほどさもしい「学生を守る」話だろうか!

 

 自由を求めることは、いつの時代も罪だった。それは時代の罪であって、人間の本性にもとる罪ではない。だからこそ、自由を求める者はついぞ絶えなかったし、とりわけ文化を切り開くものはいつも蔑まれてきた。歌舞謡曲はどこでも流浪の民のものから始まった。文化人はいつも時代の罪人である。その罪が雪がれるのは、その文化が敷衍したときである。いかに罪と言われようと、自分たちの文化を切り開こう。命にさえ頓着しない、こんな形式を塗り替える文化を! 自分たちの経験を豊かにし、自分たちのための新しい形式を打ち立てる仲間になろう!