Re:Public on Web

広島大学文化サークル連合の公式オンラインジャーナルです。

サークル棟入館規制の撤回を求める副学長交渉へ集まろう!

 6月に文化系サークル棟(「課外活動共用施設(文化系)」が正式。以下、サークル棟)の入館が突如として制限されました。

 2021年秋頃から電子ロックに学生証をかざせばサークル棟に入館することができていましたが、団体更新・結成の際に名簿情報を提出した学生のみが入れるように変更されたのです。この入館制限について、学生生活支援グループ(以下、学活G)にたいして幾度の申し入れをおこなってきましたが、話を進めるものにはなりませんでした。より責任のある立場としての課外活動担当副学長にたいして今月、申し入れをおこないたいと思います。入館制限撤回のために、学生のみなさん、ぜひお集まりください!

 

本質は全面的な規制強化

 6月20日、学生になんの告知や相談もなく、突如として入館制限が始まりました。そもそも2020年以降コロナ禍をうけてサークル棟は長らく施錠されていましたが、21年2月に電子ロックが設置(418万円!)され、その年の秋以降に入退館システムが運用され始めました。この入退館システムが名簿に載っている学生のみ入館できるものに変更されたのです。

 入館規制の問題は、更新届を提出しなかった・できなかった団体、提出しても受け取りを拒否された団体などが、ボックスを持っていても入れないようになったこと。またサークル棟に引き続き入れるサークルでも、新入部員や途中加入の学生の入館が制限されたり、友人との交歓や見学・新歓など、様々な面で不利益をえるものであるということです。広島大学に通う学生のなかで、圧倒的多数の学生が締め出されるという事態です。これにたいして文化サークル連合は6月、7月、8月と規制の撤廃を求めてきました。

 

 この入館制限は全学生にかかわる問題としてあります。ここ数年の課外活動をめぐる大学政策も含めて、単純に今回の規制は「入管制限」のみにとどまる問題として取り扱うことはできません。入館制限の理由として大学側は一貫して「盗難対策」だということを主張していますが、のちに見るような経緯からしても、この入館制限を放置していれば、課外活動・全学生の活動をより抑圧し、制限していくものになることは必至です。

 現に大学側は、電子ロックが設置された2021年2月から「いずれは体育会系にも設置する」というふうに言っています。全広大生の問題として声を上げていきましょう。学生を無視して進められている規制強化を止めるため、自由な学生生活を取り戻すために副学長交渉へ上り詰めましょう!

 

「盗難対策」は建前だ

 大学側は入館規制について「盗難対策」のため、として理由を説明しています。しかし複数回の申し入れを経るなかで、大学側の説明は別の理由――規制強化を狙うもの――を覆い隠すための建前であると言わざるをえません。

 学活Gは2020年に起きた盗難事件をもとに「盗難対策」として入館制限をおこなったと説明していますが、2年前の事件を多くの学生は(わたしたちも申し入れをするまでは)知りませんでした。盗難事件を周知し、課外活動団体への注意喚起をおこなうなど、盗難を「対策」するために必要なことを学活Gはやってきませんでした。注意喚起もせず、ほかにも窓ガラスの強化や鍵付きロッカーの設置など、大金を投じて電子ロックを設置する前にできたことがあるのではないでしょうか。一足飛びに入館制限に踏み切ったことには「盗難対策」以上の理由があると考えるのが自然です。

 

「盗難対策」のための議論ができない状況

 わたしたちは課外活動団体として、盗難事件をいかに防ぐか考えていく必要があります。そのためにも盗難事件をうけて、どのような方策がとれるのかを含めて大学と話をしたうえで、入退館システムの是非を問うべきだと思います。盗難をいかに防ぐかという議論からではなく、「盗難対策」とだけ説明した規制ありきの議論がなされることは、実際に盗難を防ぐものにはなりません。

 それどころか、盗難事件について申し入れ行動をおこなって初めて聞き出せたような状況は問題です。多くの学生は盗難事件について知らないまま、周知・注意喚起されないまま、盗難対策の議論もないまま、サークル棟から締め出されているのです。

 学活Gは7月21日の申し入れ行動までに具体的な資料を持ってくることを約束しましたが、当日資料は提示されませんでした。盗難事件について把握していることは「侵入経路はよくわからないけど中に入ったらしい」という程度です。侵入はドアからなのか窓からなのか、そのとき施錠されていたのかいなかったのか、また警備員立ち合いでサークル棟に入ったのかこっそりと侵入したのか、などは一切不明だというのです。こんな把握でなにが「盗難対策」だというのでしょうか!

 

盗難事件は大学の責任

 そもそもこの盗難事件は学生の問題ではなく大学側の責任問題です。2020年から1年半の間、学生はなんの注意喚起も受けていないなかで、サークル棟には入れず、どんどんと(のちに見る規制強化のなかで)課外活動団体自身の活力が奪われてきました。そんな期間におきた盗難事件であり、施錠を続けていたのは大学の判断(2020年の申し入れでもサークル棟の開放を拒否)です。責任は大学側・学活Gにあります。

 盗難も締め出しも、学生に不利益があることです。しかし当該である学生にまったく意思確認がなされていないなかで入館制限は敢行されました。まずは学生、課外活動団体がどうやって盗難を防止するのか考えていくことが肝要です。しかしそれどころか、大学の落ち度での盗難事件を以て「盗難対策」を言いなし、入館制限で学生に不利益を押し付けているという有様です。大学側は盗難事件をうみだしたことについて、まずは謝罪するべきであり、「盗難対策」にもならない規制は撤回あるのみです。

 

課外活動への規制強化が盗難事件を引き起こした

 この間の申し入れ行動にたいして大学側は「盗難対策」だとの一点張りという状態です。根拠となった盗難事件として挙げていたのは、多額の被害があったとされる2020年秋、その後の申し入れのなかで同年冬2021年夏など、いずれもサークル棟が常時施錠されていた時期のものです。この期間は基本的に学生は入れず、「学外からの犯行」だと学活Gも説明しています。

 施錠されている期間に盗難があったという事実は、現状の入館制限(学内に入れる学生と入れない学生を分ける)がなんら有効なものではないことを示すばかりか、むしろ学生の活発な課外活動と施設利用が盗難を防いでいたことをも示すものです。鍵が開いていてもたくさんの学生が利用する施設より、鍵がかかっていても人っ子一人いない施設のほうが物を盗みやすい、ということです。2020年3月から続いていたサークル棟の常時施錠で、多くの課外活動団体が貴重品や備品などをサークル棟から持ち出せないまま締め出され続けた状況も、多額の盗難被害につながっていることと考えられます。

 

(↓昨年新歓期におこなったアンケート。文化系を中心に多数のサークルがなくなるなかで電子ロックが設置されたことに、学生は誰も納得していません。教室利用の制限や掲示板・タテカン置き場の撤去にも反対の声が集まりました)

hirodai-bunsa.hatenablog.com

 

 こうした過剰な「盗難対策」は学生生活・課外活動をさらに衰弱させていくものです。コロナ禍以降、多くのサークル・部活が消滅してきました。これらは単にコロナで大変だったからというだけでなく、実際にキャンパスに入構できず、サークル棟を利用できず、課外活動の再開条件(2020夏~)にそれまで不要だった顧問の必須化など厳しい条件が課され、教室利用も大幅に制限、大学の判断で一方的に活動制限が敢行され、2021年に入ると団体更新・結成自体に顧問が必須化され、……と大学が行ってきた政策にかなり追い詰められてきたからです。とりわけ顧問の必須化は、多くの課外活動団体の更新・結成を不可能にし、もみじ掲載の課外活動団体紹介ページからは多くの団体が姿を消してしまう羽目になりました。

(過去の記事: 顧問必須化に反対の運動をつくろう! - Re:Public on Web  に経緯が載っています。感染対策にもつながらない、規制強化のための顧問必須化が強行されました)

 この2年間を通して、わたしたちのみならず多くの学生が規制にたいして声をあげてきましたが、大学側は課外活動団体の切実な要求を無視し続けてきました。それどころか毎回のように課外活動団体への規制を強め、サークル・部活の崩壊を促進してきたのです。今日の入館制限はその極致、ほとんどの学生をサークル棟から締め出すものであり、こんな制限が課外活動を促進することは万に一つもあり得ず、課外活動を厳しい状況に追い込んでいくことは火を見るよりも明らかです。

 

核心は学生の管理

 入館制限は単純に、入部前に見学がしづらい、新入部員があるたびに名簿提出しないといけない、など面倒臭い点もありますが、大学側がこうした杜撰な入館制限に踏み切るに至ったまでの核心的な利害とはいったい何なのでしょうか。「盗難対策」という建前に隠された意図は何でしょうか。今回の規制で使われている入退館システムは、学活Gが各課外活動団体から集めた名簿情報を流用して使われています。入館制限の本質は「盗難対策」などではなく「名簿を提出しない・できない(あるいは大学が受け取らない)団体を排除する」ということ、とりわけ大学にとって不都合な団体を排除することにあります。

 名簿の提出が団体更新・結成時に必須とされたのは実は5年前からです。学生への管理強化、とりわけ文化サークル連合の排除をねらって名簿提出が強要されました。学生の利害を守る立場で大学当局に物申す団体を広島大学から一掃する攻撃として名簿は必須化されました。

 大学側は「(名簿問題の)議論が決着するまでは不利益扱いはしない」という約束をしましたが、話し合いを放棄し、文化サークル連合に加盟する各サークルを「無届団体」として扱ってきました。そしてこの名簿提出必須化を起点に、毎年のように得手勝手に団体更新・結成手続きを変更し、課外活動全体にたいする規制・管理を強めてきたのです。

 こうした取り扱いの一方的な変更は広島弁護士会から2019年に「結社の自由を侵害する行為というべき」人権侵害であると認定され、「今後の学生団体の結成及び更新手続きにおいて……根拠のない運用を行わないよう要望する」「今後、提出された団体構成員名簿は……学生団体更新届記載の所属学部別の構成員数の裏付け資料及びサークル内で事件・事故等が発生した際の学生の連絡先としてのみ使用し、これら以外の目的で使用しないよう要望する」として、名簿情報をつかったさらなる規制強化を戒めるものとなっています。

 広島大学・学活Gは、文化サークル連合所属サークルにたいして一切の謝罪もおこなっていないどころか、この人権侵害認定を踏み破り、団体更新・結成手続きや名簿の運用に変更を加え続けているのです。

 

5年間かけて課外活動を追い込んできた

 この名簿が入館制限に使われているということで、改めて管理強化のためのものだとハッキリしました。名簿問題のように最初は「緊急時対応のため」などの建前がとられ、あるいは「不利益をこうむるのは(文サなど大学に不都合な)一部の人だけ」だと宣伝されてきた問題が、全学生にたいして建前以上の管理強化を狙って行われるものなのです。名簿問題を起点とする種々の規制強化(顧問必須化など団体更新・結成手続きの変更、教室利用の制限など)がコロナ禍でのサークルの大量消滅につながってきました。それは規制強化・管理強化に反対するわたしたちのような「大学にとって都合の悪い団体」を、人権侵害をしてまで排除・無視してきたなかで進められてきたのです。入館制限がさらに課外活動全体、学生全体にダメージを与えるものとなることは必至です。

 そしてこの入館制限そのものも、大学側は「盗難対策」だということを、3か月かけて幾度も申し入れするなかで一貫して強弁していますが、どんなに「盗難対策」としての入館制限が不備あるものであり、課外活動団体への不利益があるものかを説明しても、絶対に譲らず撤回を拒んでいます。管理強化・規制強化は絶対に撤回したくない、ということが「盗難対策」という建前の裏にある本音です。ともに管理強化反対の声をあげましょう!

 

背景に大学改革

 この間広島大学では課外活動への連続的な規制強化が強行されてきたほか、ターム制(4学期制)の多くの反対票を無視しての導入、学生・教職員不在ななかでの法学部の移転の決定、多額の資金を使ってのアリゾナ州立大学誘致など、学生生活に多大な影響を及ぼす決定が学生・教職員に周知されることなく進められています。これらは別々の問題に見えて、根本は大学改革の問題です。

 2004年の国立大学法人化以降、大学に入ってくる運営費交付金が年々減っていき、学長のトップダウンでの決定機構が強化されてきました。大学にお金がないというなかで学生生活への支援はどんどんと断ち切られ、一方で文部科学省の気に入るような政策を推し進めてきました。教職員の非正規雇用や雇止めの問題や業務の合理化は、学生への支援を困難にしています。こうした大学改革が導いたのが現在の「カネになる」限りで許される課外活動・学生生活・研究活動という現実です。

 

(昨年夏におこなった学習会の資料: 8.16学習会資料(外部公開).pdf - Google ドライブ  スポーツセンターが主導となって、体育会の部活に所属している学生を芝生ビジネスに巻き込んでいく計画が立てられています。学生を「都合のいい」存在にしてカネ儲けに動員していく、これが大学改革がめざす「儲かる大学」の姿です)

 

 大学の主人公は学生です。管理強化・規制強化をはねかえし、学生生活を学生の手に取り戻す力は、わたしたち学生のなかにあります。

 

副学長交渉へ!

 8月1日の申し入れにたいして学活Gは学生への意思確認もおこなわないことを、「上」の決定だとして言ってきました。学活Gのリーダーは頑なに「上」の具体的な名前を挙げようとしませんが、そのひとりに課外活動担当の副学長がいることは認めました。明確な責任者として管理強化をすすめる張本人・岩永誠副学長を追及していきたいと思います。広島大学の学生のみなさん、入館制限の撤回をもとめる今月の副学長交渉へぜひお集まりください!

入学おめでとうございます!【2022年度新入生歓迎パンフレット『Re:Public Vol.5』】

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!

 2020年から続くコロナ禍によって、高校生活に多大な変更を余儀なくされた皆さんは、きっとこれまでの世代よりも違った経験してきたんだろうと思います。とりわけ直接に"繋がる"機会が奪わがちな中、個々人によっても、学校によっても、大きく経験が異なっているのではないか。そういう皆さんが、この大学でそれぞれと出会い、また新たな経験を積んでいく。私たち文化サークル連合(文サ連)は、そうした経験を豊かにするお手伝いが出来ればいいなと思っています。

 私たち文化サークル連合(通称:文サ連)は現在文化系8サークルの互助組織であり、それぞれのサークル活動を支え、サークル活動全体を豊かにすべく、印刷機や物品の貸し出し、サークル棟の拡張要求等の交渉を行っています。

 今年度発行のパンフレットには、加盟サークルの活動紹介やこれまでの広島大学の課外活動状況、ちょっとしたお役立ち(?)情報などを掲載しています。これを参考にしてもらって、ぜひ文サ連加盟の各団体の各種企画を覗いてみて下さい!

 

drive.google.com※軽量化のため、実物より画質は落としてあります。

 

 現在、文化サークル連合に加盟しているサークルは

 です。気になるサークルがあれば、ぜひ気軽に連絡してみて下さい!

 また、もし自分で新しいサークルをつくってみたい、という方がいれば、文サ連に連絡していただければ、全力でサポートしていきたいと思います。

 コロナ禍において、文化的活動は改めて見直されてきていると思います。家にいる機会が多くなる中、ゲームや映画、文学や音楽(音楽系のサークルはまだ文サ連にはいないですが、造詣が深いメンバーは多いと思います!)に触れることが多くなり、もう一方でより先鋭化してきた社会問題について考える社会科学にも注目が集まってきました。こうした中で、文サ連はその規約にうたわれている「日本の文化状況を切り開く」ことを目指していきたいと思います。ぜひ、ともに文化状況を切り開いていきましょう!

広島大学憲章・行動規範に対する申し入れ

2月17日、広島大学憲章及び行動規範について文化サークル連合として申し入れを行いました。大学として正式に回答するということになりましたが、回答期限は2月末までとしていたにも関わらず、二回の催促を経ても4月1日現在まで回答がない状態です。

(大学憲章・行動規範はこちらから→ 理念・ビジョン | 広島大学

私たちが問題にしている広島大学憲章・行動規範は、大学のホームページのトップにも掲載されているほどまでに押し出されているものですが、その制定過程はほとんど明らかにされず、学生や教職員に対する意向調査もなく、一方的に制定されたものです。

行動規範の4には「社会に対する透明かつ公正な説明責任」がうたわれています。しかしながら、この行動規範そのものの制定過程が不透明で公正な説明責任も果たされていないのです。

それにも関わらずこの行動規範には、3・「法令等の遵守」として、「学内諸規則の遵守」を広島大学の全構成員に課しています。つまりは、大学自身は「社会に対する透明かつ公正な説明責任」という行動規範を自ら破りながら、学生や教職員には一方的な決定に従え、というダブルスタンダードになっているということです。

また、この行動規範の1は「人権と多様性の尊重」とありますが、広島大学は今まで一切、広島弁護士会にも認められた私たちに対する人権侵害について、謝罪等を行ったことはありません。

今回の申し入れは、このめちゃくちゃな大学憲章・行動規範の制定・運用に対して、その経緯と内実を明らかにし、学生・教職員からの信を問うように求め、文サ連への人権侵害について改めて謝罪を求めるものです。

大学憲章という大学における憲法に位置するような内容でさえ、全学的な承認さえなく一方的に決定されてしまうことを容認すれば、なんでも大学側が決定したことを押し付けられ、学生の権利は皆無の状態になってしまいます。

すでに広島大学はこの間、ターム制導入や学長再選の無制限化、アリゾナ州立大学の誘致、法学部の広島市への移転、課外活動への顧問必須化等々、大きなことから小さなことまで独断で推し進めてきました。コロナ禍において得手勝手に進められてきた課外活動規制は多くの課外活動を消滅・衰退に追いやりましたが、それだけでなく、学生生活全体が得手勝手に大学の都合で変更されるという事態になってきています。

大学憲章・行動規範の問題は、その美名のもとで、学生・教職員を無視して大学側が一方的に物事を推し進めていくことの問題性を明白にするものです。学内外問わず、ぜひ多くの方に注目していただきたいと思います。

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大学憲章・行動規範に対する申し入れ

 

広島大学文芸部 2022年度の5冊本紹介まとめ

みなさんこんにちは!広島大学文芸部(@DieBuribunken)です。

 

三月の中旬にかけて、上のツイッターアカウントで、新入生向けに5冊本を紹介しました。新入生の方もそうでない方も、興味をもっていただけたでしょうか?

 

今回紹介した5冊(そしてこの記事で再訪する5冊)には実はコンセプトがあって、一言で言えば「科学的思考とは何か」というものです。

 

「科学的思考」と聞いてみなさん真っ先に思い浮かべるのは、「データに基づいた発言をする」とか「統計に基づいた発言をする」とかいった態度ではないでしょうか。そういう態度が「科学的」なのだと。

 

しかし実は、科学的思考というのはもっと広い意味をもっています。科学的思考というのは、原理的には、「一定の経験的事象を実験、検討することによって、その中の再現可能な法則(物理法則とか自然法則とか言っても良い)を見出す営み」のことを指します。

 

統計やデータとか言ったものは、こうした思考を適用した結果導き出された一つの結果にすぎません。

 

統計やデータ「そのもの」が「科学」なのではなく、むしろそれをつくるまでの思考のあり方の方が「科学」なのです。したがって、科学的であるかどうかを左右するのは、データや統計そのものではなく、それがつくられるまでの過程の精度です。データや統計があるからといって「科学的」だとは限らないというのは、こういう理由です。

 

例えば、一つ例をあげましょう。

 

あなたが何か現実の出来事に対して意見を言いたいとしましょう。

で、あなたは自分の主張を補強するための根拠が欲しい。

だからちょっと検索してデータを探したら、ちょうど自分の考えを補強してくれるようなデータを見つけることができました。

だからあなたはそうしたデータを提げて主張をします。主張にデータまで備わっているのだから、自分の主張は科学的だ…

 

こういう経験を思い当たる人はいないでしょうか?

 

しかし、データや統計がどういう手続きでつくられたものであるかも検討せずに「自分の言いたかったことに沿っているから」と飛びつくようでは(結果としてそのデータや統計が正しかったとしても)、あなた自身の態度は「科学的」とは言えないでしょう。

 

万が一、偶然結果が正しかったとして、「結果的に正しかったから良いじゃないか」というのは、博打をしている人間が何も考えずに博打に突っ込んだ結果理由はよくわからないがとにかく勝てた、そのことをもって「勝ったから良いじゃないか」と言っているようなものです。今回は勝てたとしても、では次回は?という問題が当然湧いてくるわけです。

 

重要なことは、この例えの場合には「なぜ勝てたか」「「勝ち」の法則はあるか」を具体的に検証することですし、その検証がどれだけ適切かということにあります。そしてこの思考が常に根づいていれば、何に相対しても、大きく失敗するということ、外れるということはないでしょう。

 

ざっくりといえば「科学的思考」とは「問い直す、考え続ける」ことを意味し、「絶対に正しい答えを与えてくれる」という通俗的な科学のイメージとは、実は全くかけ離れています。

 

前置きが長くなりましたが、紹介に移りましょう。以上のような「科学的思考」の具体例、あるいは一つの側面を表すものとして以下の作品を読んでいただけると、面白いと思います。もちろんこれも一つの読み方で、絶対的な読み方ではありませんよ!

 

改めて、5冊の本紹介

①『Dr. STONE』

https://www.shonenjump.com/j/rensai/drstone.htm

www.shonenjump.com

 

漫画と思って侮るなかれ、この作品は、主人公である石神千空を通して「科学者とはどういう存在か」ということを、これでもかと正確に示してきます。

 

「試しまくって地道に探り続ける」姿勢、再現性を求めるのが科学であるという姿勢、そしてその科学によってもたらされる豊かさ…

 

そしてこの作品のもう一つのみどころは、千空に代表されるような「科学」と対立する思想が散りばめられていることです。

 

「科学でもわからないことはある」、「科学=魔術のように見る傾向(現代でも「科学は絶対」「科学以外信用できない」とかいう心情があるのではないでしょうか)」、「増えすぎた人類は支えられないので、選別しないといけない」、「科学によって衆愚を導く」…いずれも、現代でも言っている人が居そうな思考です。こうした主張に千空がどう答えていくのか?というのも、見所になります。

 

個人的には、全国の小中学校に『まんが 日本の歴史』や『はだしのゲン』とかと並べて置いても良いレベルだと思います。圧倒的におすすめです。

 

 

②『チ。地球の運動について』

https://bigcomicbros.net/work/35171/

bigcomicbros.net

 

ストーン・ワールドにおいて千空がする科学には何の障害もありませんが、中世を舞台にするこの作品では、事態は全く異なります。天動説を公式見解にする「C教」が権力を持ち、それに反する地動説は弾圧される世界。そうした中で地動説という「真理」を追い求める人たちは、どう生きるのか?

 

ところで有名な思想家トマス・ホッブズは、「三角形の角の合計が180度であることを否定する人間はいないが、もしそれが領主の領地の測定などに重要な意味を持つようになった場合、事情は変わるだろう」と言いましたが、この作品はまさにそういう状態です。(ちなみにホッブズも現実に、唯物論によってスコラ学を批判した人物です)

 

しかしこの作品を読んで、「現代は科学が尊重される世の中でよかったなあ」と安心するのは危険ですよ!現代でも「常識」や権力者の利害によって、科学が否定され歪められることはよくあることなのですから。

 

 

③木庭顕『クリティック再建のために』

『クリティック再建のために』(木庭 顕):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

 

科学的思考とはそもそもどうやって誕生したのか?どういうものなのか?

 

しかしその前に、物理法則を追い求めるという厳密な意味での科学的思考に限らない、極めて広い意味での批判的思考のあり方があるのではないでしょうか。

 

その質はともあれ、私たちにとって「因果関係」(こうしたらこうなる)や「論理」を考える、という思考プロセスは「当たり前」であるように感じます。しかし人類史を見てみれば、決してこうした思考がどこにでもあったわけではないことが、明らかになるでしょう。木庭氏はこうした「クリティック」の様々なヴァージョンを一望する、非常に大それた著作をものしています。

 

さらに木庭氏は、「クリティック」の誕生がギリシアでの「政治」の成立にとっていかに決定的な役割を演じたかということ、こうした思考が現実の「政治」とどのような関係にあったか、ということまでもを論じます。「科学と政治は別」と思う方も、「どうすれば政治が利益の競合ではなく合理的なものになるか」と悩む方も、読んで後悔しない本でしょう。

 

(もっと詳しくは、木庭氏による『政治の成立』ほかの著作も読むと良いでしょう。巻末に木庭氏のブックリストもありますので、ぜひそっちも見てね)

 

 

丸山真男『日本の思想』

https://www.iwanami.co.jp/book/b267137.html

www.iwanami.co.jp

 

第二次世界大戦終了に至るまでの日本の思想状況の構造を概括した、あまりにも有名な本。多分ここで紹介されなくても教員から紹介されるのではないでしょうか。

 

とはいえ通俗的に言われているのとは異なり、丸山真男の作業は「西洋中心主義」「近代主義」「無い物ねだり」ではありません!

 

日本には上のような意味での科学的思考がいかになかったか、一見正反対だが科学的思考を拒否するという意味では同じ穴の狢である、知識人の「実感信仰」「理論信仰」がいかに横行していたか。そうした態度が結局、日本の戦前の体制のあり方に抗しきれずに、いかに迎合していったのか…日本の「知」のあり方から社会構造までを縦横に論じる論旨は、浩瀚にして明快で、まさしく「古典」の名にふさわしいものです。

 

「科学的思考」がいかに日本にはなかったかというものとして読むと、解像度は一気に上がります。

 

 

夏目漱石虞美人草

https://www.shinchosha.co.jp/book/101010/

www.shinchosha.co.jp

 

法学もまた、ある意味では科学に似ていて、法律のもとに出来事を関連づける推論を主にする体系でありますが、では法律家は別にその技術にだけ精通していれば良いかというと、全然そうではありません。むしろ、だからこそ「現実に起こっているこの問題が何であるか」を感じる敏感さが必要なのです。科学者が「既存の法則で説明できない」ことをテコにして新しい法則を探し始めるのとも似ています。

 

さて、この作品では、硬直した職業的法律家の姿を体現したかのような「浅井君」が登場します。ある意味で漱石の「近代日本批判」の一面が覗く本だと言えるでしょう。

 

科学においては、決して予定調和のように法則が発見されるのではなく、突拍子もない思いつき、偏見とも言える思い込みが土台になって、新しい発見がされることもあります。漱石はこの著作の中でこの問題に本格的に取り組むわけではありませんが、こうした可能性、「想像力」といっても良い、を軽視する存在として大胆に造形された「浅井君」は、法学に問いを投げかけているかのようです。

 

(こちらを大いに参考にしました)

コラム41:浅井君の勘違い|運営委員・相談員のコラム|学習相談室|東京大学大学院法学政治学研究科・法学部

 

www.j.u-tokyo.ac.jp

 

 

文芸部に入ろう!

いかがでしたか?一冊でも気になった方、ぜひ文芸部に声をかけてください!一緒に本を読んで、議論していきましょう!

 

 

 

TIFF2021(第34回東京国際映画祭)+TOKYO FILMeX2021(第22回東京フィルメックス)参加報告

昨年に引き続き、今年度も東京国際映画祭東京フィルメックスが同時開催された2021年。しかも前者に至っては実に20年以上ぶりにディレクターの交代(矢田部吉彦氏から市山尚三前東京フィルメックスプログラミング・ディレクターに交代)、さらに六本木から日比谷・銀座・有楽町エリアへの立地移転が発生した(後者は朝日ホールがメイン会場である状態は変わらず、昨年度より朝日ホールでの上映回数が大幅に増加する例年通りに戻った状態になった)という変化の中で開催された今年の2大映画祭同時開催=TILMeX(ある映画研究者の言葉を拝借するならば)状態で行われた映画祭の状況を報告したい。しかしながら、全ての作品を挙げるのは一苦労であるので、今回は部門ごとに1~2作品に厳選する。

 

1.東京国際映画祭

TIFFコンペティション

オミルバエフ『ある詩人』に驚愕する。カザフスタンの巨匠が自らの言語で描く本作は、言語の消滅や人文学の危機という学術的で政治的な問題を絡めながら一人の苦の詩人が資本主義化する世の中に苦悩しながら、実在の18世紀の詩人に思いをはせるという壮大な物語である。とはいえ「詩の時代」は終わったという悲観や自然に身を任せられる昔はよかったといった懐古趣味に堕ちる映画なのではなく、その中で詩は継承されているということを一人の女性の朗読によって示してくれているだけである。オミルバエフは誇張を排することすることで壮大な物語を精密にこぎれいにまとめ上げているところに魅力がある。

『ヴェラは海の夢を見る』が東京グランプリ作品であることには驚きを感じつつ、その物語の現代との直結は再考しなくてはならないだろう。裁判官の夫を持ち自らも通訳者として職業エリートの道を邁進していたヴェラは、夫の死をきっかけに社会に巣くう男性優位と徹底的に戦うことを決意する。しかし男性のもつ容赦ない暴力はやがて彼女の精神をむしばんでいく。まさに男性優位社会への批判を明瞭な形でストレートに表現した本作が東京グランプリを獲得したことは、審査員の見事な政治性を表出していると言えよう。総じてこの映画祭が成功したと言える一端になる。

 

TIFFガラ・セレクション】

オープニング作品である、クリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』(2022年1月14日公開、ワーナーブラザーズ配給)のP&I試写に参加する。これが2大映画祭の私にとっての実質のオープニング作品となった。『クライ・マッチョ』はイーストウッドの新作であるが、彼が91歳という年齢であることを考えるならばとんでもない実験性あふれる映画であったことを指摘しておきたい。一見『運び屋』などに見られるロードムービーでありながらイーストウッドは自分のひ孫のような役者相手に自らが率いてきた「強い男」像の引導を引き渡させる。つまり自らの在り方を一旦否定させることで新たな「英雄」像を提示させるのである。これは91歳の監督が持つ貪欲さそのものであると言えよう。

 

アピチャッポン・ウィーラーセタクンMEMORIA メモリア』(2022年3月4日公開、ファインフィルムズ配給)を3日目に拝見する。予想通り、11月1日のよみうりホール上映は満席(ただしこれには半数制限でチケットを販売しているというトリックが存在しているという情報もあるが真相は不明)、何とプレス用席が30席しかないという異常な状況が発生した。筆者は前日立てた予定を急遽変更し、ゴバディの『4つの壁』のプレス上映を拝見してからよみうりホールへ向かった。すでに記者が2人並んでいた。上映一時間半前からどんどんプレスが並び始め上映一時間前にはプレス席が満席になるという異常事態に見舞われた。もう少し席数を用意してもよかったのではないだろうか。プレスの中には席数が少ないことへの不満を指摘する声も存在していた。
さて、作品であるがこれはまた素晴らしい作品であった。冒頭の重要な音から始まり、自らにしか聞こえない奇妙な音を追う女性と大地をつなげる不在と共時性、そしてその政治的図像学としてアピチャッポンの映画に多々登場する睡眠という要素が媒介される。それはタイでの映画製作が政治的に不可能になり、新たな土地を求めてさまよう中でコロンビアへと旅をするアピチャッポンとティルダ・スウィントンが演じるジェシカが重なり合うようかのごとく。カメラは沈黙しながら長く長く回り続ける。その中で我々は土地へとなおかつ奥地へと自らの身体を戻していく。土地の変換があろうと原点は変わらぬままで一安心させられた。

 

TIFF:ユース】

ユース部門からカンヌ・プレミア部門出品作であった、アンドレア・アーノルド『牛』を銀座で拝見する。一切のナレーションなく牛の搾乳、成長、出産、そして屠殺に至る乳牛農家もとい牛の姿を丁寧に描いており好感触の映画であった。牛の描き方では、影の中から出てくる牛の描き方の照明の使い方がうまいことで、牛に主人公として泰然としたキャラクター性を持たせていることに着目するべきだろう。

TIFF:ワールドフォーカス】
ミケランジェロ・フラマルティーノ『洞窟』を見る。ベネチア国際映画祭コンペ審査員特別賞を受賞したフラマルティーノ10年ぶりの新作で、撮影はストローブ=ユイレダニエル・シュミットの作品を支えている名匠レナート・ベルタであることも忘れてはならない。洞窟の調査と村の牛飼いのおじいさんの動きが直結する本作では、調査が進む中でおじいさんが病弱になり調査の終了と共に牛飼いのおじいさんが死ぬという完全なる直結は少し形式的でありすぎなのではという意見に激しく同意である。即ち映画が持つ動の意味をほとんどなさないことへとつながってしまうからである。とはいえ、ベルタのカメラワークには本当に驚かされてしまう。

他にもこの部門では『復讐は神に任せて』(エドウィン)、これはtiffで事前に拝見していたため今回はパスした。

 

TIFF:アジアの未来】

この作品は筆者の先生でもある、Han Yanli氏が審査員の一人を務められている部門でありすべての作品がワールド・プレミアという部門である。

この部門はなかなか作品を見る機会に恵まれておらず、今からまとめてオンライン試写で拝見する形になりそうだが試写を拝見することができた作品として、大賞を獲得した『世界、北半球』は、ホセイン・テヘラニの処女作としてしっかりとした作品に仕上がっていたことに驚きを隠せなかった。この作品は戦争という惨禍、その残存に対し人はどのように立ち向かうのかという人類史不変のテーマに基づいている。その中で一人の少年の見る光景は様々である。戦争、迫害、略奪、児童労働、共生血今、宗教の戒律。そしてそれと同時に技術が土地を侵食しているという点は、キアロスタミの初期作品にもない残酷な光景を示している。

 

TIFF:ジャパン・アニメーション】

同時刻の『アヘドの膝』の上映を見ようかと思ったがパスし、アスミック・エース側のご厚意で湯浅政明『犬王』(2022年初夏公開、アニプレックスアスミック・エース配給)のジャパン・プレミアを拝見する機会に恵まれた。ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールド・プレミアされトロント国際映画祭special presentation(これは、濱口『ドライブ・マイ・カー』と同じ部門での上映である)で上映されたのち、東京国際映画祭が初めて日本での上映となったという。今回アニメーションの新作は4作品上映されたが、何を持ってもこの作品の出来は別格であった。古川版平家物語のなかの「犬王の巻」をアニメーション映画化した本作。かの溝口健二でさえも実写映画監督作品(『新、平家物語』)として「失敗」したこの作品を湯浅は、ロックミュージカルという古典翻案物語映画には前代未聞の手法を用いて現在を起点にし、拾い集める作業から拾い投げ返す作業に注力することで、湯浅監督独自色を出しながら新たな平家像を出すことに成功していると言えよう。上映後のインタビューでは、湯浅が観客へと投げ返したい振舞や歌の重要性を説いていることが印象深く感じられた。まさに観客との対話という映画の意義を再確認するにふさわしい一本であったと言えるだろう。
本作は、2022年初夏に劇場公開される。

(余談だが、そのほかの作品はいしづかあつこの新作『グッバイ・ドン・グリーズ!』(2022年2月25日公開、KADOKAWA配給)も期待外れの凡庸な作風にとどまり、水島精二総監督の新作『フラ・フラダンス』も大震災の残り香の更なる風化を感じさせる残酷な作品であったと言える(後者はフィルメックスでヅァオ・リャン『行く当てもなく』が上映されたことが理由だと思うが)。アニメーション部門には正直心配しかないというのが実情だろう。)

 

TIFF:日本映画クラシックス

田中絹代特集。今回の上映では実は一本しか拝見できていない。その中で『乳房よ永遠なれ』を今回拝見した。『女ばかりの夜』と同じように田中澄江が脚本で描かれる本作は北海道を舞台に歌人としての才能がありながら日本の男性優位社会に苦しむ女性を朝丘雪路が見事に表現している。50年以上前の作品でありながら、田中絹代は女性監督のパイオニアとして6本の映画を制作しているが、どれも女性の強さと弱さを大胆にしかし繊細に描いている人物として今後の検証が楽しみである。

 

2.東京フィルメックス2022

 

【フィルメックス:コンペティション部門】

アレクサンドレ・コベリゼ『見上げた空に何が見える?』からスタート。これがまたとんでもない傑作であることに驚愕した。偶然に出会い恋に落ちた二人が、呪いにより顔が変わる。お互いをお互いにわからぬままでありながら、街は平然と時が過ぎていき、ワールドカップや映画の撮影が起こっていくという遊び心あふれながら、大地に根差す人々の姿を丁寧に描く魔法のような作品である。大傑作。

 

『ホワイト・ビルディング』はニアン・カヴィニッチのすぐれた作品として取り上げたい。ベルリナーレ・タレンツ出身であり、カンボジアプノンペンの集合住宅であるホワイト・ビルディングを拠点に前作『昨夜あなたがほほ笑んでいた』がドキュメンタリーとして、第20回東京フィルメックスに出品されたカヴィニッチは、本作品ではフィクションの舞台として再びホワイト・ビルディングを舞台に少年たちの青春のつかの間の輝きともろさを、ホワイト・ビルディングの東海と交錯させながら見事に描いている。冒頭の空撮から引き込まれていく作品である。

 

【フィルメックス特別作品】

フィルメックスのオープニングである濱口竜介監督の最新作『偶然と想像』(2021年12月15日公開, incline配給、配給協力:コピアポア・フィルム)のジャパン・プレミアのため朝日ホールに移動するが、シネスイッチから朝日ホールまでの徒歩での移動時間を計測すると10分であることを確認。朝日ホールでは久々にお会いした知人たちとだらだら入場しながら近況を話す。これが映画祭の醍醐味であることを再確認。

『偶然と想像』は初めて見たのがベルリン国際映画祭のワールド・プレミアオンライン上映だったので今回3回目にして初の劇場鑑賞となった。第一部『魔法:あるいは不確かな』はモデルとアシスタントの友情関係、そしてアシスタントと恋人、恋人と過去の関係を持つモデルという三つの物語が展開されるが、全体的の冗長的な印象をぬぐえず、最後のズームアップの登場で空虚な笑いが起こるだけの映画なのだが、2部『扉は開けたままで』では人生の意味を失いかけている女学生と行き遅れの仏文学者の奇妙な交流とその破滅というこれまた空虚なのだが人間味あふれて面白い作品、3部の『もう一度』は実は全く知らない人間同士が自らの友人の記録をミメーシスし、それが新たな世界を作り出すという本作の極地のような作品で引き込まれざるを得ない。総じて素晴らしい作品だったと言えるだろう。

 

ナダヴ・ラピド『アヘドの膝』

実はこの作品は7月8日から16日に東京渋谷ユーロライブ及び映画美学校試写室で行われた、Marché de film 2021 Cannes in the city Screening in Tokyo(これについては拙論「COVID-19感染拡大かにおける映画祭の状況について」(『REPRE』43号)に詳しい)で7月8日に事前にスクリーンで拝見したうえに、9月のtiff(トロント国際映画祭)で再度(2回も)拝見していたため本上映ではパスした。しかしながら、やはりこの映画の凄さを語らずにはいられない。
この作品はベルリン国際映画祭銀熊賞を取った『シノニムズ』がアンスティチュ・フランセ日本「批評月間」の中でオリヴィエ・ペール氏のセレクションにより上映されたことで知られるようになったナダヴ・ラピド監督の新作である。映画監督である男Yは、パレスチナの少女のアイコンである「Ahed」についての次回作を構想する中で、砂漠化する村に前作を上映する旅に出る。その中で文化省の役人との出会いを経て、自らの母親が死んだという事実と、軍隊経験の中でもたらされる故郷の喪失や愛国心、そして表現の敵といえる検閲の問題と戦いながら、次回作の構想に苦しむ。スタイリッシュなカメラワークを武器に死んだ母親にヴィデオレターを送る形で展開されていく物語は、やがてこの映画の崩壊を示唆する形で終了する。映画そのものの意義を問うという形にあるのはやはり監督自身の亡命という意識が前作から貫かれる形で存在しているが故なのであろう。賛否両論わかれるだろうが、この作品に対して惜しみない拍手を送りたい。

 

オムニバス『永遠に続く嵐の年』を拝見する。ジャファール・パナヒ(実はコンペ作品の『砂利道』は実息子パナー・パナヒの作品である)が製作総指揮を務め、前述のアピチャッポンも含めた7人が集まりコロナ禍の今を舞台に製作された短編が集結した。存分退屈なこの作品の中で唯一別格だったのが、デヴィッド・ロウリーが、今ではなく生者の話ではなく、過去や死者という真逆の表象を用いることで災害への抵抗を見せたことである。ロウリーのみが生者ではなく死者の話を用いた点は奇特ではあるが、これはコロナ禍でジョルジョ・アガンベンが指摘するような埋葬の禁止という点と直結するかもしれない。我々には悼むことさえも認められなくなり、死者としての位置づけもあいまいなものとなったことで人権が奪われているとアガンベンは指摘するが、ロウリーはあえて死を迎えた夫の送る妻の振舞から人間の尊厳とは何かを提示しているのではないだろうか。

 

【フィルメックス:メイド・イン・ジャパン】

オムニバス『Made in Yamato』 は後日試写で拝見したためここでは簡単な記述にとどめていくが神奈川県大和市の地域振興のために個性的な映画作家たちが集まって制作された奇跡のような作品。その中で、『大和カリフォルニア』などで自らの故郷を用いた作品制作を行ってきた宮崎大祐作品は、自らが慣れ親しんだ大和市を埋め、コロナ禍で転覆させた新たな大和(YAMATO)像を提示する点として別格であると言える。

 

【総論】

コロナ禍から2年たった今年度の映画祭は、映画祭のセレクションに変化があったのは確かだと思われる。実際、TIFFオープニングとエンディングは実に久々に外国語映画のみで構成され、新設されたガラ・セレクションではこれまでとは異なり、アピチャツポンの作品がTIFFに来るなど大きな変化が見られた。しかしその一方で、日本映画スプラッシュがなくなったことにより日本映画の軽視が見られたのは看過できない。また、場所の移動により特に読売ホール上映回のプレス席が少ないのは極めて問題である。

フィルメックスは総じて、ディレクター交替の年の一年目の年であったこともあり、なかなか課題が残るセレクションとなった。しかしこの課題は、来年以降いくらでも取り返せると信じている。コンペティション部門は新進気鋭の作家性を示す監督作品を集めることに今後とも注力していってもらいたいと思っている。ただIDパスホルダーの予約システムには是正が必要であると思わされる。

しかし何であれ、対面の映画祭を守るために今後何ができるかを考えていくのが我々の使命である。

アラン・バディウ『哲学宣言』を読んで【社会科学研究会】

皆さん夏休みいかにお過ごしだったでしょうか?

社会科学研究会では、この間夏休みや春休みの長期休暇に、週一回程度で古典的名著の読書会を行っています。

今年の夏休みにはアラン・バディウ『哲学宣言』を読んできました。短い著作ではありながら含蓄深く、全11章のうち6章までで夏休みが終わってしまいました。

今回は、『哲学宣言』を6章まで読んだ各位の感想を持ち寄って議論した内容について、執筆者の方で一定編集して、参考までにここに書き残しておこうと思います。

※はじめにお断り

基本的にメンバーはバディウは初読です。加えて全体で読むことができたのは『哲学宣言』の6章まで。ここに書いていることが正しいとは限らないので、鵜呑みにしないでください💦

あくまでバディウ『哲学宣言』を読む際の参考程度にしてもらえれば幸いです。

1.近現代の哲学の見取り図

バディウはリオタールやハイデガーら哲学者自身が「哲学の終焉」について言及していることを出発点にして、近現代の哲学を広く概括しながら「哲学が可能になる条件」を検討して「哲学は可能だ」とバディウは主張する。この過程においてバディウは、近現代の哲学の見取り図として重要な視点を提出しているのではないか。

バディウは、数学素・政治的創意・詩・愛の四条件が同時に存在することを哲学の条件として設定した。これらが同時に存在しないときに、哲学は停止するとみる。主に、これらがいずれか一つの条件に代補されることによって、哲学が停止するのだとする。これを「縫合」という。

バディウは「実証主義」=数学素(科学)による縫合や、「マルクス主義」=政治(+数学素)による縫合が行われてきたことで、近代において哲学は停止した、という。これに対し、西欧の哲学者ハイデガーらは詩への縫合を目指したが、これもまた縫合であり、同時代に別々の縫合が行われ、全体として哲学が停止しているのが、近代の問題なのだとみている。

「哲学は終わった」のではなく、縫合によって停止したと考えるべきで、ポストモダンのいうような「脱構築」を目指すのではなく、「脱縫合」=哲学の四条件が同時に成立する場を再形成することが問題だというのだ。

1-1. 哲学の停滞=市民社会スターリン主義の限界の露呈では?

二度の世界戦争によって、自由や平等をうたった市民社会の限界性が露呈し、一方でこの市民社会の限界を超えて、搾取のない「真の民主主義」を実現するとした共産主義もまた、スターリンの恐怖政治によって逆のものとなった。

こうしたもとで、それまでの哲学を総括したヘーゲルマルクスに体現された、歴史主義的な世界観の停滞、歴史の前進を単純には望めなくなったのが、近代という時代の特徴なのではないか。ポストモダン、として、近代との関係がいまだに問題になっているのは、こうした歴史主義との関係としても考えるべきではないか。

1-2.ヘーゲルがそれほど尊重されていない現在

『哲学宣言』の本文でも、ハイデガーナチスを肯定したことを哲学の終焉と結びつけて議論されることが多いことが問題になっていたが、ヘーゲルについても、その弁証法的世界観のもと、「反対や対立も肯定される」ため、「戦争も肯定する」思想として扱われ、現在あまり位置づけが高くない状況があるように思われる。こうしたところにも哲学が可能かどうか、の問題があるだろう。

1-3.科学と哲学の関係

哲学は「諸科学の科学」とも言われるが、現在においては科学と哲学は結びつかないものになってしまっているように思われる。哲学者は難解な言葉(≒詩)で自己満足的な傾向に陥っており、もう一方で科学者は一面的に技術的知見のみを深め、哲学と結びついていないように見える。これは詩や科学への縫合という状態と言えるかもしれない。

かつてホッブズは「哲学は科学に従属する」と言い、カントもまた、哲学が学たる条件を検討した。カントはもともと科学者であったし、ニーチェも文学者として見られてきたのであった。哲学はそれ単体で浮いて存在する学問ではなかったはずだ。科学と哲学の関係を改めて誠実に追い求める努力や誠実さが求められているのではないか。そうしないことは哲学者の「罪」とさえ言えるだろう。

1-4.プラトンの位置

バディウプラトンの「詩人追放」を問題にしながらも、プラトンから続く哲学の継承を訴える。ソクラテスが非論理の「民主主義的決定」によって殺されたことへの裏返しとして、形而上学や論理学の体系を築き、これを政治の基礎として再構築したのがプラトンだ、とも言われる。師匠のソクラテス弁証法(⇔形而上学)の使い手だったが、彼の弟子だったプラトンアリストテレスから形而上学が形成され、哲学が体系だって発展してきたのは面白い点だろう。プラトンに立ち返って、現代における論理学(数学素)や政治的創意、詩といった哲学の条件について再検討する必要がある。

2.<一>と<多>

バディウは、存在は本質的に<多>なものとして、<一>(例えば「神」など)から説明する在り方を否定する。ニーチェが「神は死んだ」と言い、<一>を解体したことを引き継いでいるように思われる。しかし、ニーチェはもう一方で永劫回帰という別の<一>を持ち出したことに問題があったと言えるのではないか。バディウは、ニヒリズムの方法論を建設的にとらえ返したともみることができる。

また、バディウは存在そのものは<一>なしの<多>なのだとして、存在論の立場をとる。ここにこれまでの哲学を継承する独自の立場があるように思われる。

2-1.倫理学の問題としても

倫理学は「絶対善」という<一>を想定した体系であり、このバディウの問題意識がまっすぐ問題になるところのもの。しかし、漠然とした<多>に対応するであろう相対主義ということになってしまっても、議論の位置が定まるものにはならない。

こうした問題が、一方で<一>によって物事を説明することが哲学だと考える傾向になったり、あるいはそれに反発して定まらない議論になってしまう結果になってしまうのではないか。こうした状況が、ヘーゲルの「対立を肯定する」思想が位置づかない、という話にもつながっている点では。

2-2.「個人」は<一>かつ<多>が可能な場なのでは?

「絶対善」は<一>であって<多>ではないものだろう。それに対して、「個人」というものは、複数の所属が可能であるなど、社会的に多様な在り方が同時にできるとともに、それとしては一人でもある。こうした意味で、社会に生きる個人は<一>かつ<多>が可能な場として考えることができるのではないか。

これは、バディウが近代の哲学の主問題とした、「主体」という領域の問題として考えることができる領域かもしれない。

3.バディウの議論は何をもたらしてくれるか

バディウの議論は、そのまま何をするべきか、という議論には結びついていないように思われるが、「これはいけない」というような、哲学のとらえ方の誤りについて、考えるものになっているだろう。脱構築ではなく脱縫合が問題なのだ、というのが一つの例。

バディウは哲学界においては、異端的な位置にある。『哲学宣言』のような、比較的読みやすい文献であっても、邦訳がでるには非常に時間がかかった。

日本における哲学の扱いにおける課題も大きい。基本的には高校の「倫理の授業」で扱われ、「いいことを言っている」くらいの印象で片付けられてしまう。倫理学に回収されない領域があることが覆い隠されてしまう。<一>に回収されてしまう問題はこうした点にもあるだろう。

 

今後の社研

以上、6章までの読書会ではありましたが、バディウ『哲学宣言』は、メンバー各位の認識を深めるうえで非常に良いものになったと思います。

そのため後期に入っても、各章の担当者を決めて部会で発表していく、というスタイルで学習を続けることにしました。ぜひ関心ある方は社研(@HUSS_5G)までお気軽にご連絡下さい。社会科学研究会は後期も引き続き知的好奇心旺盛な新入部員を募集中です!

【20210621】団体届に関する申し入れ 結果報告

こんにちは。文化サークル連合です。


6月中旬、突如広島大学のサークルの団体更新・結成の要件として「顧問をつけること」が要請されました。

顧問必須化に反対の運動をつくろう! - Re:Public on Web

hirodai-bunsa.hatenablog.com

 

この事態がサークルにとって極めて重大であることをかんがみ、6月21日に課外活動担当窓口に申し入れに行ってきました。
また、サークルの活動ということに関してもうひとつ重要になってくるだろうもうひとつの論点、課外活動をする際にはワクチンを接種していることが条件になるのかどうか、ということに関してもついでに質問してきました。

 

当日の質問内容


①どういう経緯で顧問を必須化したのか。その理由は何か。
②ワクチンを接種していないと活動できないということにならないか

その場での追加質問:ホームページから広島大学のサークルは許可制ではなく届け出制だということが記載された文章が2020年に削除されたが、あれはどういうことか

 


①どういう経緯で顧問を必須化したのか。その理由は何か。

 

結論から言うと、担当職員も顧問必須化の経緯がよく分かっていない模様でした。先の課外活動担当から引き継いだ内容の中に、団体届に関して「顧問が必要」だという記述があったとのことです。また、コロナ感染対策委員会の決定ではないかとも言われていたが、これは定かではありません。


しかし、昨年度感染対策委員会によって顧問が必須化されたのは「対面での課外活動再開の条件」としてであって、「団体の結成・更新」としてではありませんでした。対面ではできないが(しょうがなく)オンラインでやっているというサークルもいる以上、この二つを混同されてしまうことはサークルにとって存続すらもかかった重要な問題です。それに、サークルにとってこれほどまでに重要な内容が決定過程さえ不明確なまま下ってくること自体そもそも問題であるといえます。


全体的に、課外活動担当窓口の地位全体が低下しているという印象で、おそらく大学的な政策決定にも全然関われていないか、決定されたことを実行するというだけの状態になっているのではないかという印象を受けました。

 

②ワクチンを接種していないと活動できないということにならないか


「それはない」と食い気味に、かなりはっきりと言っていました。そのため、今のところそうした心配はないと思われます。ですが、深く立ち入って話を聞いていくと「政治的な決定があればそのときはわからない」「大学個別としてやる範囲ではそういうこと(接種が必要)はない」とのことでしたので、大学がすべて独自に判断できるというわけではなく、あくまで大きな政治の文脈に依存して変わりうる状態であることがわかりました。引き続きこの問題については注視していき、たとえ政治レベルで接種が必要だという話が降りてきたとしても、それに反対していくことが重要だと言えます。

 

追加質問


・ホームページから広島大学のサークルは許可制ではなく届け出制だということが記載された文章が2020年に削除されたが、あれはどういうことか

 

広島大学のサークルはもともと、サークル活動にあたっては代表と副代表(2名)の氏名や連絡先を記載した団体届を提出すればよいという「届出制」でした。サークル活動をするにあたって、名簿や誓約書の提出が求められ、さらにそれがなければ「受け取れない(団体として承認しない)」という姿勢をとりはじめたのは2017年からのことです。

(詳しくは、顧問必須化に反対の運動をつくろう! - Re:Public on Web

の、「2017年から続いてきたサークル自治破壊」の章)


その上、2020年度には、サークル関連の情報が記載されたホームページから「届出制」であることが明記された文書が何も言わずに消えました。そのため、広島大学のサークルは本格的に許可制に切り替わるのではないか、それも、なし崩し的にそうなってしまうのではないか、という懸念を自分たちはこの間ずっと抱いてきました。

しかし一方で、コロナ禍を通してこそ、サークルが学生にとっての重要な人間関係の場であると改めて実感されてきています。こうしたサークルを幅広く支援していくのではなく、逆に潰すことに寄与するような厳しい制限をかけることは問題です。


文化サークル連合は以上の考えにもとづき、今回の質問中、職員が「広島大学は届出制」だということを言った際に職員と私たちでの認識に齟齬があると感じ、以上のことを質問しました。


これについても職員側はよくわかっていなかったようで、「ホームページがリニューアルされた時に一緒に消えてしまったということか?」というこちらからの確認に「そうかもしれない」と曖昧な回答。また、詳しくは「確認しておく」「再掲しておく」とのことでした。

 

大学主導の「許可制」型の感染対策・サークル運営から、学生主導の「サークル自治」に転換しよう

 

しかし、顧問の件もそうですが、届出制を明記した文章についても、理由もプロセスもはっきりしないまま「決まったことだから」としれっと義務だけ課されること、なし崩し的にサークルに制限がかけられていくことには大いに問題があります


もちろん、個人や個々のサークルレベルで当局と交渉し、こうした制限を撤回・突破していくことは困難に見えます。しかし、だからこそ多くの学生や団体が連帯して、学生の利益、立場を率直にうったえ、大学に働きかけていくことが必要です。


コロナ禍を通して、大学は学生生活を守るどころかそれを一方的に禁圧し、それなのに大学の営利目的の事業はすすめてきたという事実があります。サークル側、学生側は基本的に感染対策のために活動制限を受け入れてきたのに、大学がそれに報いることはありませんでした。

 

今、世間一般的にも、飲食店は度重なる緊急事態宣言とその度の休業や酒を売らないなどの感染防止策を努力してきたにもかかわらず、国や自治体は誠実な説明も手厚い補償もしていないという問題が起きています。この間の大学とサークルの関係はそれと全く同じ構図の問題です

 

自分たちサークルにかかわる学生は、決して無責任に活動がしたいというのではありません

無責任なのは、感染対策が日常生活を切り詰めてまでやらなくても良いようにするための物質的・精神的支援を何ら行わない一方で、営利目的の事業は犠牲を払ってでもやろうとしている国や自治体のほうだし、大学当局のほうではありませんか。

 

私たちには、コロナ禍の中でも責任をもって、これまで当たり前に共有してきた生活を犠牲にしながらも対策をとってきた経緯があります。こうした実績でもって、大学は自分勝手で横暴な運営をやめ、責任ある学生の広範な自治的サークル運営を認めるべきだとうったえていきましょう。それだけの説得力が学生にはあります

 

すでに広島大学では活動がままならないサークルが多く出現していますが、大学に学内問題のすべてを任せておいたら、今後もサークルは弱体化・減少する一方です。これからも、さまざまなかたちでサークルは大学の運営方針に大きく左右されることになってしまう可能性が高いです。

 

団体届という、サークル側からすれば存続がかかっているとまで認識されているものについても曖昧な手続きですすめようとしてくる大学の態度は、もはやサークルや学生の感覚や利害とは相入れません。そのことが今回はっきりしたと思います。

 

多くの学生、団体がコロナ禍での大学に不満を感じていることと思います。これからはそれを単なる不満や無力感に終わらせることなく、同じく不満を感じている個人や団体と結びつきながら全体を変えていく可能性があるような、一つの大きな運動にしていきましょう。